百済 ― 2023年10月21日 19:37
百済(くだら, 백제,ペクチェ)は朝鮮の三国時代の国家の一つで、朝鮮半島の南西部を占めた古代国家である。
概要
漢城時代
『魏志倭人伝』の頃に馬韓は50国に分かれており、大きな国でも1万余家、小さな国は数千家であった。そのうちの一つが百済の前身となる伯済国であった。314年、高句麗と協力して帯方郡を滅ぼした。 345年頃、朝鮮の三韓のひとつ、馬韓の地の50余国を伯済国が統一した。都は漢城(現在のソウル)である。百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられている。 近肖古王は中国から文字を取り入れ、初めて記録を残すようにした。384年には東晋から僧が到来して、仏教が伝来した。 475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城した。第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死した。
熊津(公州)時代
長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津に遷したが、478年には兵官佐平の解仇によって暗殺された。反乱で動員された百済の兵力は、『三国史記』の記述によれば2,500名あまりで、百濟の弱体化がみえる。第24代東城王が479年に王位につき、新羅、倭との関係を改善し、小国が分立していた伽耶地方への拡大を図り、百済王権と国力の回復に成果を挙げた。しかし晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、暗殺される。501年に即位した第25代 武寧王の時代に百済王権の回復を見せる。次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させる。武寧王の亡き後に即位した、第26代 聖王(日本書紀の「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の 泗沘(サビ)、今の扶余へ遷都した。
泗沘(扶余)時代
泗沘に遷都した聖王は国号を「南扶余」とした。551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻す。しかし552年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立する。聖王は554年に新羅との戦いで戦死する。百済は高句麗と同盟を結び、百済最後の王となる第31代義慈王は、新羅に攻め入る。孤立した新羅の善徳女王は唐に救援を求め、3度にわたる高句麗制圧が失敗に終わった唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えた。660年、唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入る。百済軍は、黄山之原で決戦に挑み、善戦したが新羅軍に大敗する。唐軍に泗沘城を包囲され、一時義慈王は旧都の熊津城に脱れやが降伏し、百済は滅亡した。
百濟の語源
- (1)地名説 「くだら(百済)」の項で語誌について、「「百済」をクダラと訓む由来には諸説あるが、馬韓地方に原名「居陀羅」と推定される「居陀」という地名があり、これがこの地方の代表地名となり、百済成立後、百済の訓みになったという説が紹介される。(伊藤亜人監修『朝鮮を知る事典』平凡社)
- (2)大きなムラ説 語源説として「クは大の意。タラは村落の義」日本では大村などを意味する朝鮮の古語を訓読して(くだら)と呼びならわしている。」と説明される(『朝鮮を知る事典』)
- (3)大国説 「クン」は大きいを表す「ナラ」は国の意味。「クンナラ」(大きな国)がクダラに変化した説。
- (4)有力100家説。 『隋書』「百済伝」は、移動の際に百家で海を済ったので、それに因んで百済という国名となったと伝る。
参考文献
- 日本国語大辞典第二版編集委員会(2001)『日本国語大辞典第4巻』小学館
- 伊藤亜人監修(2000)『朝鮮を知る事典』平凡社
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