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家屋文鏡2024年06月23日 00:05

家屋文鏡の建物

家屋文鏡(かおくもんきょう)は古墳時代前期の家屋を文様として描いた銅鏡である。

概要

家屋文鏡は奈良県佐味田宝塚古墳から1881年(明治14年)に出土した4世紀の仿製鏡である。当時の豪族の住居の具体的な家屋4棟が表現されている。古墳時代の建物を表したと考えられる。 現在の所蔵は宮内庁書陵部となっている。

家屋文

鏡の背面に異なる四棟の建物が描かれている。文様を鋳出した鏡は類例がなく、本鏡のみとされる。しかし、森浩一は中国浙江省から出土した後漢代の屋舎人物画像鏡は佐味田宝塚古墳の源流であるとする。 考古学だけでなく建築史や美術史においても有名な鏡になっている。

4棟の建物

4棟とは、高床式住居、平地式住居、竪穴式住居、倉庫である。

竪穴式住居(A)

他の建物よりも一回り大きく描かれ、他の3棟よりも大きな床面積と推定される。蓋があるので身分の高い人の建物とみられる。入口の扉は支え棒で持ちあげられている。 低い土壇の上に立てられる。二本の柱に横木を渡した鳥居形状の構築がある。そこに長い柄の菅蓋がかかる。左右両端の先端に千木にもみえる二本の線がみえる。地面に接する最下段を木村徳国は「低い土壇状の周堤」と推定する。都出比呂士は群馬県中筋遺跡、馬井峰遺跡に竪穴住居の周囲に土堤が検出されたので、そのように見なすことが可能と指摘した。 池浩三(1983)は「入母屋型屋根の伏屋形式の建物」とし、上代古典に現れるムロ(室、窟)ではないかと指摘する。さらに臨時の祭祀建物の可能性を指摘する。

切妻屋根の高床式住居(B)

切妻屋根の桁2間の高床建物である。左手に昇降のための階段が見える。弥生時代の伝香川県出土銅鐸(東京国立博物館蔵)の高倉、奈良県唐古・鍵遺跡の出土土器に描かれた建物、静岡県登呂遺跡の復元建物に比較できる。ネズミ返しの装置は見当たらない。土居桁が鼠返しを兼ねていると推定される部材が、三重県納所遺跡から出土している。銅鐸や土器の高床式住居には棟持柱が描かれるが、家屋文鏡には描かれていない。弥生時代の高床建物に使われた梯子は、登呂遺跡から2本以上、山本遺跡から8本以上、さらに西日本各地で出土している。いずれも1本から削り取って作ったもので、30cmピッチで軸に対して直角の平坦な踏み込みを設ける。

入母屋屋根の高床建物(C)

池浩三(1983)は上代古典に見られる「高殿」「楼閣」「高宮」「観」を想起する。4棟の中では最も荘重な外観であり、貴人の住居と解釈されている。 蓋の下に露台のようなモノがみえる。階段に手すりがあり、柵で囲まれたベランダと蓋がある。身分の高い人の建物で一族の首長とみられる。祭祀儀礼や政治的な建物とみられる。入母屋建物の屋根軒部には複線による鋸歯状文様が描かれる。

  • 平地式住居(平屋建物)は基壇に乗り、鳥が止まる。穀霊を運ぶ鳥を象徴する。
  • 倉庫は他と屋根形状が異なり、高床式で屋根に鳥が止まっているので穀物倉庫とみられる。

入母屋建物屋根の平屋建物(D)

入母屋型屋根の桁行三間の平屋建物である。低い壇の上に柱が立つ。地面に接する帯状の線は、関野貞が「大陸風の土壇」と推認し、多くの建築学者も賛同している。池浩三(1983)はB、Cの横架材と同様の土居(土台)であるとする。

梅原末治は家屋文鏡の屋根棟上に「飛鳥かと思われる1種の虫状様の飛翔図形」を指摘する。弥生時代の銅鐸や土器には静岡県悪カ谷出土銅鐸、大分県伊美町鬼塚古墳など鶴鷺目・鶴目に属する鳥類がしばしば描かれる。池浩三(1983)はこの鳥の意味を穀霊としての鳥(豊後国風土記の白き鳥)、祖霊としての鳥(白鳥伝説)、鳥と喪屋との関係(天若日子の喪屋)を指摘する。また霊魂の運搬者とも考えられていた。 それらを踏まえて、鳥は牧歌的な風景としてではなく、死と再生に関わる祭儀のメタファとして描かれていると指摘する。

菅蓋

AとCの左に長い柄の先に傘状のものがかかる。梅原末治は「一種の幡蓋に近い表飾物」とされたが、多くの研究者に蓋(衣笠、絹傘、衣蓋)と判断されている。蓋は貴人の頭上にさしかける絹または織物を張った長い柄をつけた傘である。蓋は貴人の行列で使われるもので、翳は前方を覆うが、蓋は貴人の上を、覆ってそこに貴人がいることを表すものであった。

小林行雄説

小林行雄(2000)は、それまでの仿製鏡は中国の模倣に過ぎないものが多いが、家屋文鏡・直弧文鏡(新山古墳出土)・狩猟文鏡など独自の文様を施したものがある。中国鏡は神仙思想を表しているように、これらの独自文様は何らかの思想の反映ではないかと指摘した。そして家屋文鏡は4種の家屋により大王の統治概念を表現したとする説を紹介する。

考察

家屋文鏡の課題は少なくとも3つある。 一つは、竪穴式住居であるかどうかである。 出土例をみると栃木県下犬塚遺跡、静岡県土橋遺跡、栃木県成沢遺跡、群馬県堀越遺跡、荒戸荒子遺跡などの事例では居館の中枢部に竪穴住居が作られていた。中小形の首長居館には竪穴住居が作られていたことが実証されている。 二つ目として家屋文鏡の建物はどの社会階層の建物を表したものであるかである。 家屋文鏡の建物はこれまで民衆の家屋と見なす傾向があったが、実際は有力な豪族あるいは有力王族の居館を表しているのではなかろうか。そうでなければ、建物に蓋(衣笠)を指さないのではなかろうか。 三つ目として鳥が飾られた建物は何を表すかである。死と再生に関わる祭祀に関係するとすれば、宗教指導者の家である可能性を考えなければならない。

参考文献

  1. 鳥越憲三郎,若林弘子 (1987)『家屋文鏡が語る古代日本』新人物往来社
  2. 池浩三(1983)『家屋文鏡の世界』相模書房
  3. 小笠原好彦(2002)「首長居館遺跡からみた家屋文鏡と囲形埴輪」日本考古学(13),pp.49-66
  4. 小林行雄(2000)「古鏡」学生社(新装版、初版は1956年刊行)
  5. 森浩一(1988)朝日新聞1988年6月26日の記事
  6. 王士倫(王 維坤訳)(1993)『後漢 「屋舎人物画像鏡」 の図像に関する研究』古代学研究、第129号

虎塚古墳2024年06月24日 00:01

虎塚古墳(とらづかこふん)は茨城県ひたちなか市中根にある前方後円墳である。 日本百名墳に選ばれている。東日本を代表する装飾古墳である。

概要

茨城県の北部を流れる那珂川の下流の北側中根台地上に築かれた7世紀初めに造られた全長約55mの前方後円墳である。葺石、埴輪はない。東日本で発見された装飾古墳のうち、その装飾文様の種類と構成は類例の少ない優れたものである。古墳の周囲は史跡公園になっている。

発掘調査

1973年(昭和48年)8月16日、明治大学考古学教室(団長は大塚初重教授)により発掘が開始された。9月12日に石室扉が開かれ、凝灰岩の切石の上で白土下地にベンガラで描かれた彩色壁面が発見された。当時、大きな話題を呼んだ。7世紀中葉の古墳と推定された。

壁画

内部主体は、後円部の基底部近くに設けられた凝灰岩切石を組み合わせた横穴式石室である。玄室は天井3枚、東側壁1枚、西側壁2枚、奥壁1枚の切石で築かれ、内法長さ3.07m、幅1.4m、高さ1.5mである。また羨道はその南に設けられている。 玄室内壁の凝灰岩に床面上を含め全面に白土を下塗りし、天井・床面に顔料のベンガラ(酸化鉄)で描かれた彩色壁画を描く。壁画は、奥壁と東・西壁に描かれている。連続三角文・ 環状文・円文・渦文文様などの幾何学文様、大刀・槍・靱・楯などの武器、武具類などの絵画が白地に赤色で描かれる。屋壁中央に描かれたドーナツ状の2つの円は太陽や生命力を表すなどの諸説がある。

保存技術

未盗掘の石室であったが、壁画の存在は誰も予想していなかった。 石室の閉塞石を開ける前に石室内の温度や湿度など環境調査を実施していた。奈良県明日香村の高松塚古墳を保存する目的で実施しており、本来であれば高松塚古墳の保存に活用されるものであった。結果的に虎塚古墳の壁画を保存するための貴重なデータとなった。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 55m
  • 後円部 径27m 高5.7m
  • 前方部 幅30m 高5.2m

主体部

  • 横穴式石室

外表施設

遺構

遺物

石室内

  • 人骨 1体 - 成人男性。
  • 小大刀 1口 - 推定長38cm
  • 刀子 1口
  • 毛抜形鉄器 1点
  • 鉄鏃 1点
  • 鉇1点
  • 鉄釘2
  • 透かしのある鉄片 1点

石室外

  • 鉄鉾 1点
  • 【装身具】鉄釧2
  • 【武器】
    • 鉄刀1・
    • 鉄鉾・
  • 【土器】<土師器>
    • 杯形土器・
    • 甕形土器
  • 【その他】
    • 鉄製環・
    • 不明鉄板・
    • 笠鋲状鉄器2

築造時期

  • 7世紀初め

被葬者

展示

  • ひたちなか市埋蔵文化財調査センター

指定

  • 1974年(昭和49年)1月23日 国指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :虎塚古墳
  • 所在地 :茨城県ひたちなか市中根3494-1
  • 交 通 :JR勝田駅から中根駅下車 徒歩30分(1.8km)
  • 公開  :春(4月上旬)と秋(11月)に一般公開
  • 古墳石室公開:春・9:00~16:30、秋・9:00~16:00
  • 料金 :大人160円(団体130円)

参考文献

  1. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
  2. 江本義理、門倉武夫、見城敏子、新井英夫(1983)「史跡虎塚古墳彩色壁画保存に関する調査研究受託研究報告第 51 号」保存科学 (22),pp.121-146

狂心渠2024年06月25日 00:10

狂心渠(たぶれこころのみぞ)は斉明天皇が飛鳥時代に実施した壮大な運河工事である。

概要

宮殿の東山に石垣を築くため大量の石材を運ぶ必要があったため、運河を建設した。運河の大工事には延べ3万人余を要し、当時の民衆からは「狂心渠」と非難された。 奈良大学の相原嘉之准教授(日本考古学)は石材がとれた豊田山(奈良県天理市)と、石垣が出土した酒船石遺跡(同県明日香村)を結ぶ運河とした。

歴史的意義

後の灌漑用水路や防御のための濠にも使えるように造ったとされ、先を見通したとの評価もある。運河は後の藤原京(同県橿原市など)造営にも活用された可能性があり、相原准教授は「非難を受けたものの、その後の利用を考えると、狂心渠の意義は大きく、斉明天皇には先見の明があったといえる」と評価する。

石山丘跡

1992年に後飛鳥岡本宮の東の丘陵で砂岩切石を積み重ねた大規模な版築土塁が確認され、書紀の記載が裏付けられた。「酒船石」がある丘陵での中腹から裾にかけて 4段に築かれた大規模な石垣である。砂岩切石は天理市周辺の石上・豊田付近で切り出されたことが判明している。丘陵の西側から飛鳥寺の寺域東側にかけて人工の谷川を回収した大規模な流路が確認されている。尾根の全体を巡り総延長 700mに及ぶ。斉明・天智朝は、中国系の新技術や水利用技術導入の上でも画期的な時代であったとする。小澤毅(1994)は相原嘉之准教授の想定した流路には、地形や水系を無視した誤りがあると指摘した。

日本書紀 巻第廿六 齊明二年

  • 時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。
  • (大意)斉明は時に土木工事を好み、水路技術者に命じて香具山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟200隻に功夫(工夫=こうふ)を浪費すること三万人余、石垣を造る功夫を費やし損すること七万人余。宮材はくずれ、山頂は埋まった。『石の山丘をつくると、つくった端から壊れるだろう』と人々は謗った。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 相原嘉之(2021)『古代大和の舟運利用の実態 : 斉明朝の「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」を中心に』
  3. 木下正史(2007)「古代都市の建設と土木工事」Civil engineering consultant : 建設コンサルタンツ協会会誌 / 会誌編集専門委員会 編 (237),pp.28-31
  4. 小澤毅(1994)「「狂心渠」 の経路と高市大寺の位置―相原嘉之説批判―」

ひたちなか市埋蔵文化財調査センター2024年06月26日 00:14

ひたちなか市埋蔵文化財調査センター(ひたちなかまいぞうぶんかざいせんた)はひたちなか市の埋蔵文化財の発掘調査・研究及び収蔵・公開する施設である。

概要

ひたちなか市で出土した旧石器時代から近代までの埋蔵文化財約500点を常設展示する。 そのほか埋蔵文化財の発掘調査、出土遺物の整理、遺物等の調査研究、参考資料等の収集、調査報告書等の作成、収蔵資料・報告書等の展示公開、説明会・講習会等の開催、年報・紀要等の刊行、埋蔵文化財に関する説明・助言、収蔵資料等の貸出、その他の情報提供を行う。 「ひたちなか市の考古学」と題する公開講座を、年間4回開催する。

展示

  • 「虎塚古墳」内部の石室壁画を忠実に再現した実寸大のレプリカ
  • 馬渡埴輪製作遺跡
  • 後野遺跡で出土した無文土器や石器
  • 三反田蜆塚遺跡 - ハート型土偶
  • 東中根遺跡群 - 東中根式土器 十王台式土器
  • 虎塚古墳から出土した大刀(市指定文化財)
  • 笠谷古墳群
  • 大平古墳群
  • 磯崎東古墳群などから出土した副葬品
  • 馬渡埴輪製作遺跡の馬形埴輪(市指定文化財)
  • 武田西塙遺跡 - 炭化したわらじ
  • 十五郎穴横穴墓群第32号墓 -大刀(市指定文化財)
  • 大平古墳群 - 乳飲み児を抱く埴輪
  • 原の寺瓦窯跡 - 瓦
  • 後谷津製鉄遺跡 - 製鉄炉の炉壁
  • 水戸市台渡里遺跡群

「ひたちなか市の考古学」

  • 2024年2月17日(土)- 古代陸奥南部の集落と開発
  • 2024年2月24日(土)- 古代下総国の集落と開発
  • 2024年3月2日(土) -一望千里 四角い村と四角い田―発掘でわかる古代の国土開発―
  • 2024年3月9日(土)- ひたちなか市の古代集落の姿
  • 2023年10月19日(木)- 虎塚古墳と十五郎穴
  • 2023年11月16日(木)- 海を臨む古墳群「ひたちなか海浜古墳群」
  • 2023年12月21日(木)- ひたちなか市の古墳のはじまり
  • 2024年1月18日(木)- 弥生時代の墓から出土する玉製品
  • 2024年2月15日(木)- ひたちなか市の生産遺跡「原の寺瓦窯跡」
  • 2023年2月18日(土)-ヒスイ製玉製品について
  • 2023年2月25日(土)-碧玉製管玉について
  • 2023年3月4日(土)-弥生中期の墓から出土する玉製品
  • 2023年3月11日(土)-サメ歯製垂飾について
  • 2022年2月19日(土)-石製模造品からみた交流
  • 2022年2月27日(日)-ガラス小玉からみた交流
  • 2022年3月5日(土)-臨海部の古墳からみた交流
  • 20223月12日(土)-古墳と海洋民

諸元

  • 名 称:ひたちなか市埋蔵文化財調査センタ-
  • 開 設:平成5年12月
  • 休館日:毎週月曜日(休日の場合はその翌日)、年末年始、館内整理日(7日以内)
  • 開館時間:9時から17時(最終入館は16時30分まで)
  • 観覧料:無料
  • 所在地:〒312-0011 茨城県ひたちなか市中根3499
  • 交通:JR勝田駅から中根駅下車 徒歩30分(1.8km)

都野原田遺跡2024年06月27日 00:30

都野原田遺跡(みやこのはらだいせき)は大分県にある弥生時代から古墳時代の集落遺跡である。

概要

熊本県に近い久住高原の大集落遺跡である。海からはかなり遠い。邪馬台国時代(2~3世紀)の住居跡が約300棟発見されている。鉄鏃、鉄斧、鉄刀などの鉄器も大量に出土している。鉄器は各竪穴から鉄鏃24点、刀子10点、ヤリガンナ4点、手鎌8点、斧2点、釜1点、直刀1点などが出土した。 朝鮮系土器が含まれており他地域と交易拠点がうかがえる。大量の鉄器の出土は西側に位置し、これまで最大の鉄器が出土している熊本県北部地域との交流が考えられる。

前方後円墳

首長墓としての前方後方墳(3世紀中頃・26m)および前方後円墳(37m・4世紀始)が存在する。同時代の大型の前方後方墳である仏原千人塚古墳群がある。古墳は既に破壊されているが、出土した土器から最古級の可能性が高いと見られる。築造は3世紀中頃まで遡り、奈良盆地における大和王権出現時の前方後円墳と同時期であるから、今まで考えていた中央から地方への伝播とは考えにくい。

調査

遺構

  • 竪穴建物
  • 集団墓
  • 小児甕棺墓
  • 掘立柱建物

遺物

  • 土器
  • 製塩土器
  • 鉄器
  • 石器
  • 鉄剣
  • 刀子
  • 鉄鏃

指定

展示

考察

アクセス

  • 名 称:都野原田遺跡
  • 所在地:〒878-0203 大分県竹田市久住町大字仏原
  • 交 通:

参考文献

下ツ道2024年06月28日 00:18

下ツ道(しもつみち)は奈良盆地の東側をを南北に走る古道である。

概要

古代の奈良盆地には、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる3本の直線道がほぼ等間隔で南北に縦断していた。3本のうち最も西側の道路が下ツ道である。672年の壬申の乱で大海人皇子軍は上ッ道、中ッ道、下ッ道にそれぞれ軍を配した。 奈良盆地に見られる方位に則った整然とした水田区画は、下ツ道を基準につくられた。奈良時代には平城京内で中央を走る朱雀大路につながった。下ツ奈良盆地の条里地割を東西に分ける基準になっている。 室町時代は別名「高野街道」と呼ばれており、高野山への参詣道としての役割を強めた。 江戸時代には「中街道」と呼び名を変えて、一部、路線変更が行われた。

経路

南端は橿原市五条野丸山古墳、北端は平城宮太極殿付近で、総延長は約26kmである。

設置時期

下ツ道の発掘調査事例は多い。奈良県立橿原考古学研究所(2019)、奈良県立橿原考古学研究所(2010)などである。平城京の発掘調査で朱雀門の真下から下ツ道の跡とがみつかっている。左右両側の側溝中心の距離は23mを超える。平城京左京三条一坊四坪の調査で下ツ道の東側溝がみつかり、その底から須恵器の杯蓋が発見された。6世紀後半から7世紀初頭と見られる。これは下ツ道の設置時期を示すとみられる。和田萃(2006)「奈良盆地を南北に縦走する古道、上ツ道・中ツ道・下ツ道が敷設された時期も、和田萃は私見と断った上で、孝徳朝末年(654)~斉明朝初年(655)のことであったとする。和田萃は、飛鳥において方位に則った地割りが形成されるのは7世紀中頃であり、それ以前に南北直線道路がつくられたとは考えがたいとの理由を挙げる。

蘇我稲目説

近江俊秀(2012)は下ツ道の起点が見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)であることから、この古墳の被葬者が奈良盆地の直線道路の建設者と、主張する。候補者は2名、すなわち欽明大王、蘇我稲目である。小沢毅は蘇我稲目蘇我稲目説を強く主張する。その理由は次の通り。

  • (1)欽明大王は「檜隅坂合陵」とされるが、五条野丸山古墳は「軽」とその近接地にあり、檜隅の範囲ではない。
  • (2)「檜隅坂合陵」に石を葺いたとする記述があるが、見瀬丸山古墳の発掘調査ではその形跡がない。
  • (3)欽明大王陵とされる「梅山古墳」は江戸時代の記録によれば砂礫で覆われていた。
  • (4)見瀬丸山古墳は蘇我氏の本拠地にある。
  • (5)南北3道上・中・下ツ道は見瀬丸山古墳を基準に設定されている。

歴史的意義

古代の都市計画により設置された幹線道路で、重要な歴史的意義がある。 三道の歴史的意義が確認されたのは、1966年藤原京の発掘調査であった。岸俊夫は上ツ道、中ツ道、下ツ道と横大路、古代の山田道などを用いて、藤原京の京城を復元した。平城京との関係も示した。これは日本古代の都城制研究に大きな影響を与えた。

日本書紀

日本書紀 卷第廿八 天武

  • 辛亥、將軍吹負、既定倭地、便越大坂往難波。以餘別將軍等、各自三道進至于山前屯河南。即將軍吹負、留難波小郡而仰以西諸國司等、令進官鑰・驛鈴・傳印。
  • (大意)将軍吹負は、の地を平定し、大坂を越え難波に向かった。そのほかの別将たちは、三道(上道・中道・下道)をそれぞれ進んで山前(やまさき)に着き、川(淀川)の南に集結した。吹負は難波にとどまり、以西の諸国の国司たちに命じて官鑰や駅鈴・伝印(駅馬・伝馬を利用する際に用いる)を進上させた。

巻第廿五 孝德大王

  • (白雉四年)六月、百濟・新羅遣使貢調獻物。修治處々大道。

万葉集

考察

『日本書紀』653年(白雉四年)記事に「ところどころに大道を修治」したと書かれる。これは発掘調査による「6世紀後半から7世紀初頭」推定より後であるが、おおむね整合する。672年の壬申の乱より前なので、653年を道路築造時期としても矛盾はない。

参考文献

  1. 佐竹昭広・山田英雄他(2013)『万葉集(一)』岩波書店
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 奈良県立橿原考古学研究所(2019)「郡山下ッ道ジャンクション建設に伴う遺跡調査報告書」奈良県立橿原考古学研究所調査報告第179冊
  4. 近江俊秀(2012)「道が語る日本古代史」朝日新聞出版 
  5. 小沢毅(2002)「三道の設定と五条野丸山古墳」『文化財論叢Ⅲ』
  6. 奈良県立橿原考古学研究所(2010)「平城京朱雀大路・下ツ道」奈良県文化財調査報告第136集
  7. 独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所(2004)「中央区朝堂院の調査 平城第367次調査」
  8. 和田萃(2006)「新城と大藤原京――万葉歌の歴史的背景――」萬葉196、萬葉学会
  9. 近江俊秀(2009)「下ツ道(5)-下ツ道敷設時期をめぐる研究」両槻会 遊訪文庫

誤読だらけの邪馬台国2024年06月29日 00:42

『三国史』汲古閣, 順治13年[1656]

誤読だらけの邪馬台国(ごどくだらけのやまたいこく)は1992年8月10日に出版された台湾人・張明澄の著書である。

概要

本書は多くの日本人が『魏志倭人伝』を誤読しているという趣旨で書かれている。ところが主張をひとつひつと検証すれば、張明澄が重大な誤読をしているように読める。主な論点を以下に検証する。

論点1 「至と到は意味が異なる」

張明澄によれば、「到によって着く地点は起点にならない」(p.46)という。到は点的な概念であり、そこにつけば終着点であり、次に進むことはないという。「至」は線的概念であり、中継点であるから次に進めると説明する(p.19-20,23-32,88)。

反論1

この反論は容易である。『魏志倭人伝』に「至」が登場する個所を調べる。

  • (1)郡至倭 - 帯方郡 ⇒ 倭
  • (2)始度一海千餘里、至對馬國 - 狗邪韓國 ⇒ 對馬國
  • (3)名曰瀚海、至一大國 - 對馬國 ⇒ 一大國
  • (4)東行至不彌國百里 - 奴國 ⇒ 不彌國
  • (5)南至投馬國 - 不彌國 ⇒ 投馬國
  • (6)南至邪馬壹國 女王之所都
  • (7)郡至女王國 - 郡 ⇒ 女王國
  • (8)復在其東南、船行一年可至

また「到」を使用する個所は以下の通りである。

  • (9)乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
  • (10)東南陸行五百里 到伊都國

「到」を使用する(9)の狗邪韓國、および(10)の伊都國は最終目的地ではない。狗邪韓國からは海を渡り對馬國に行っている。伊都國から「東南至奴國」すなわち伊都国の東南に向かい奴国に着く」と書かれている。

最終目的地のはずの「女王國」(=邪馬台国)には(6)、(7)で「至」を使用している。

これらの理由から張明澄の説は妥当とはいえない。

『漢字海』をみると「到と至はともに目的地に到達したという意味であり、到は到達したことに重点を置き、至は到達するという行為に重点を置く」と説明される。つまり「目的地に到達」したという意味は同じであり、その先にどこに行くかは問題とされていない。従って張明澄の説明は誤りである。現代の中国語で、3世紀の中国語を解釈するのは問題がある。

論点2 「「乍南乍東」について「乍南乍東者先南行後転而東行」と裴松之は注釈した」か

「乍南乍東者先南行後転而東行」の意味について、張明澄は「乍南乍東は先ず南行し、後に転じ東行すと裴松之の注に書かれている(p.22)とする。

反論2

『三国史』汲古閣, 順治13年[1656](図)で論点 2を検証すると、「乍南乍東」の個所に裴松之の注は書かれていない。つまり裴松之の注に「乍南乍東者先南行後転而東行」は書かれていないので、張明澄の説明は誤りである。存在しないものを「ある」とするのは致命的な誤りである。

論点3 「一大国は一大という名の国である。一支国の間違いとするのは確かな根拠がない(p.34)」

反論3

一大国は一支国の間違いとするのは、確かな根拠がある。すなわち『翰苑』が引用する「魏略」には「一支国」となっている。また『梁書』『北史』には該当個所が「一支国」となっている。よって「一大国」は『魏志倭人伝』の版本の誤植である。「一支国」は對馬國と末盧国との間にある国であるから、「一支国=壱岐」としても矛盾はない。

論点4 「末盧国は佐世保である」(p.43,44)

張明澄によれば『三国史集解』では末盧国を佐世保と説明している。壱岐国と末盧国までの距離は壱岐国と対馬までの距離と等しくどちらも「千餘里」である。次に末盧国からは南に水行と陸行ができなければならないからである。

反論4

『魏志倭人伝』記載の距離は精度のよい数字ではないから、それを根拠として末盧国は佐世保であると判断するのは、根拠に乏しい。『魏志倭人伝』記載された距離の精度が良くないとする理由は以下のの通り。すなわち『魏志倭人伝』は狗邪韓國と對馬國、對馬國と一支国、一支国と末盧国の距離をすべて「千餘里」としているが、これらの距離は地図でみれば分かるようにそれぞれ異なる。金海から対馬までは地図上の実測で50kmである。当時の里に換算すると、1里=414mであるから、120.8里となる。対馬から壱岐までは航路によるものの海を回り込むことから93kmとなり、224.6里である。「千餘里」には満たない。末盧国から南に水行と陸行の必要性であるが、末盧国から伊都国へは陸行しているので、南に水行できなけれなならない必要性は無い。北から寄航できる港があればよいわけである。末盧国の上陸場所はその王都の桜馬場遺跡、あるいは中原遺跡の付近と推測される。現在の唐津市に近い場所である。

考察

上記のように張明澄の主張は「誤読だらけ」であって、その説を信じるべき理由は見当たらない。そもそも張明澄は3世紀の中国語を理解せず、現代中国語により『魏志倭人伝』を解釈してしまっていることは問題である。

参考文献

  1. 張明澄(1992)『誤読だらけの邪馬台国』久保書店
  2. 戸川芳郎(1959)『漢字海』三省堂