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杉原荘介2023年07月30日 17:01

杉原荘介(すぎはらしょうすけ、1913年12月6日 - 1983年9月1日)は考古学者である。元明治大学教授。

概要

1913年、父杉原半・母宗穂の三男として東京市日本橋区小舟町三丁目六番地に生まれた。1923年の関東大震災で生家の日本橋杉原商店が被災したため、一家で市川市平田に居を移し,府立三中時代に姥山貝塚の威容に接して考古学に目覚めた。「少年の日、学友達と相誘い、下総姥山貝塚を訪れて、始めて見る古代の廃墟に私は無量の感慨を覚え、大きな迫力に身を委ねざるを得なかった。累々と堆積する貝層の中に、黙々として眠る古代人の営力を直感したからであろう。」と語る。1932年(昭和7年)に『史前学雑誌』(四-三・四)に「下総飛ノ台貝塚調査概報」を発表し、その後東京考古学会の同人として活躍した。長兄・次兄が早世したため,府立三中(現両国高校)卒業後,18歳で越前和紙杉原紙を扱う日本橋・杉原商店を継ぐこととなった。和服をきて帳場に座ったり、重い紙を満載したリヤカーを引いて配達したりする毎日が続き、大学で考古学を専門的に学ぶことは叶わなかった。考古学は独学で、武蔵野会で鳥居龍蔵の指導を仰ぎ,のち東京考古学会を主宰する森本六爾に師事するようになる。 東京外国語学校仏語科・上智大学外国語学校独語科を修了し、父半が亡くなり、結婚したのち、1941年、27歳で明治大学専門部地歴科に入学する。これは帝室博物館時代から親交がある後藤守一が考古学の講義を担当していたことと通学の便によるであろう。 1943年(昭和18年)明治大学専門部地歴科を卒業した。1943年9月に明治大学専門部文化文科を首席で卒業して文部省の内定を得るが、応召により杉原商店を閉じて大陸に赴く。佐倉歩兵57連隊の一等兵として召集され、戦地で病気にかかり、南京の留守部隊に残された。もし、のこされなかったら57連隊はフィリピンでわずか60人あまりを残して全滅した部隊であるから生きて帰ることはなかったであろう。1946年(昭和21年)春復員し、4月から文部省に勤務し、「くにのあゆみ」の編集等にあたった。1947年の静岡県登呂遺跡発掘調査では中心的役割を果たす。昭和23年、明治大学専門部助教授、同24年同大学文学部助教授、1949年に行われた群馬県新田郡笠懸村の岩宿遺跡発掘調査で中心となる。昭和28年、文学部教授。1959年(昭和34年)以降は、明治大学人文科学研究所長・考古学陳列館長・史学地理学科長となった。 1983年(昭和58年)9月1日死去した。享年69歳。

業績

弥生時代の研究にすぐれ、「日本農耕社会の形成」によって、明治大学から文学博士の学位が授与された。日本考古学協会、弥生式土器文化総合研究特別委員会の委員長として活動し『日本農耕文化の生成』を刊行する。1943年(昭和18)12月、藤森栄一の経営する葦牙書房より遺書『原史学序論』は出版された。初版1000部であり、太平洋戦争が激烈な様相を帯びてきたその時代にこのような純学術書出版がなされたということは、特筆に値する。この初版の序文の末尾に掲げられたのが、「本書正に校了ならんとする日、応召を受く、筆者の光栄これに過ぎず。感激措く能はず、以て記す。」の言葉であった。杉原はこの本を残さして出征したが、考古学者杉原荘介としての遺書でもあった。

岩宿遺跡

昭和25年の岩宿遺跡の第二回目の本発掘の際に大変なことが起きた。その日の発掘が終わり、宿舎の国瑞寺に引き揚げて遺物の剥片に整理番号を記入していた大塚初重の目の前にオート三輪が横付けされた。その中から血相を変えて飛び出してきたのは、旧石器反対論者の筆頭であった東京大学の山内清男であった。「君たち明治の学生だな」「杉原君いるか、芹沢長介君いるか」「こんなもの旧石器ではない!!無駄な発掘を止めて東京へ帰り給え!!」と大きな声で叫んだ。ちょうどおなじころ山内は桐生考古学会の薗田芳雄とともに、杉原先生の発掘を否定するための発掘を岩宿遺跡の近くの桐生市普門寺遺跡で行っており、その帰り道に立ち寄ったのであった。しかし杉原荘介や芹沢長介に会うと何も言わなかった。 今では当たり前のように岩宿遺跡を旧石器と認めているが、昭和24年、25年の考古学会では岩宿の石器を認める人はほとんどいなかった。岩宿遺跡はわが国における旧石器文化の解明に大きく寄与した遺跡として重要な遺跡となっている。

人柄

11歳年長の山内清男から「荘介旦那」と名付けられ、,学界では,杉原はことを進める際の強引さが語り草になった。大学では,若旦那としての力わざとともに,若者を統率するツボを押さえる機微も備えており,また学界でも行政面等での実行力を評価する小林行雄の声もある。 座散乱木遺跡の発掘調査をおこなった東北旧石器談話会代表の鎌田俊昭は家業を継がなければいけなくなり、杉原に報告に行ったところ、「オレは家業を捨てて、考古学に邁進したんだ。お前も家業を捨てて考古学に命を懸けろ。」というように怒られたという。 東京外語大学でフランス語を学び、上智大学でドイツ語を学んだ杉原は、大変語学が達者であった。後年、演習や口頭試問のなかでよく、「一言でいうとどうなんだ」とか、「英語で言って見ろ」という言葉が出た。 市川市内の三大貝塚である姥山、曽谷、堀之内の三貝塚、下総国分寺、須和田遺跡、鬼高遺跡らはいずれも杉原荘介の尽力によって保存され遺跡公園となっている。「市川市は俺の第二の故里だ。杉原が市川にいても、遺跡の一つや二つ保存も出来やしないじゃないかということを絶対人にはいわせない。」といった。

参考文献

  1. 杉原荘介(1946)『原史学序論—考古学的方法による歴史学確立への試論』葦牙書房
  2. 杉原荘介(1951)『貝塚と古墳 中学生歴史文庫・日本史1』福村書店
  3. 杉原荘介(1959)『登呂遺跡』中央公論美術出版
  4. 杉原荘介(1975)『弥生式土器』日本の美術 44、小学館
  5. 熊野正也「市川の文化財と杉原荘介」『考古学者・杉原荘介』
  6. 杉原荘介先生を偲ぶ会編(1984)『考古学者・杉原荘介―人と学問』
  7. 杉原荘介(1964)『日本原始美術 第4』講談社
  8. 大塚 初重(1984)「杉原荘介教授のご逝去を悼む〔含 略歴・主な業績〕 (日本細石器文化の研究-2-<特集>)」駿台史學通号 60、明治大学史学地理学会
  9. 杉原荘介(1972)『日本青銅器の研究』中央公論美術出版

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