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邪馬台国時代の港2023年12月16日 23:30

邪馬台国時代の港(やまたいこくじだいのみなと)は、魏志倭人伝が書かれた邪馬台国時代の日本の港である。

概要

古代の港は不明なところがまだ多いが、いくつか分かっているところもある。 魏志倭人伝によれば、魏の使者が港に立ち寄った可能性が考えられる場所は、対馬国、壱岐国、末盧国、投馬国であろう。邪馬台国へ向かう行程でどこで上陸したかは明らかではなく、これ以外でも上陸寄港したことが想定できる場所である。末盧国から伊都国へは陸行でなく、舟で向かった場合は、伊都国にも上陸地点があったであろう。

前提

以下は、邪馬台国近畿説に基づいて、魏の使者が寄港したであろう港を考古学の知見を加味しながら、推察したものである。無論、実際の寄港地は実証できないが、考古学的に可能性のあるものとして記述する。 邪馬台国九州説であっても、対馬国、壱岐国、末盧国の記述は変わらない。邪馬台国九州説では投馬国や邪馬台国の入港地が想定されていない。

対馬国

対馬国で上陸し、休憩をとったとすれば、魏の使者一行は弥生時代の集落である三根遺跡を訪問した可能性があろう。三根には弥生時代中期から後期にかけての墳墓遺跡が多いため、当時の対馬の中心地(王都)であったと考えられている。その場合、どこに舟を停泊させたかが問題となる。三根川の沿岸には三根遺跡、下ガヤノキ遺跡、上ガヤノキ遺跡などの有力な遺跡があるので、その付近で上陸したという可能性が考えられる。

壱岐国

一支国の原の辻遺跡船着き場跡は中国を除く東アジアで最古の港である。内海湾に流れ込む本流の幡鉾川から枝分かれしたよどみの中にある島状の港である。弥生時代の王都である原の辻遺跡から船着き場跡までは徒歩で800m程度の距離である。東側に濠をめぐらし石組みの分水施設を設けていた。船着き場は幡鉾川に向かう河川と濠とによって囲まれた南北約40メートル、東西約35メートルの島状の施設であることが判明している。 原の辻遺跡船着き場跡は古墳時代前期まで残存していたとされるので、魏の使者が来たときは使われた可能性があることは、前漢時代の五銑銭と三翼鍛,朝鮮系無文土器,楽浪系土器などの遺物や朝鮮半島との交捗を物語る遺物群が出土しており、弥生時代に港として使われたことを物語る証拠がある。

末盧国

魏の使者は壱岐国からの船旅の後、末盧国に上陸した。魏志倭人伝の時代では、末盧国の王都は菜畑遺跡から桜馬場遺跡、中原遺跡付近に移っていたであろう。そうするとその港は北端の呼子港あるいは唐津港が考えられる。しかしこの付近に古代の船着き場跡がまだ見つかっていないので、上陸場所は推定できない。「末盧国」または「伊都国」では歓迎の宴もあったかもしれない。

投馬国

投馬国の所在地に出雲説と吉備説とがあるが、吉備説における有力候補のひとつとして、上東遺跡がある。上東遺跡は現在では海から離れた内陸部にある。しかし弥生時代には現在の岡山平野の大部分は海であり、「吉備の穴海」と呼ばれるかなり広い内海があった。上東遺跡は当時の海岸に近い場所にあった。当時の河口近くに設けられた波止場状遺構がみつかっている。船溜まりをの突堤の南側からは9,606個の桃核や土器、卜骨や木製品が出土している。中国(新)製の貨泉や朝鮮半島製の瓦質土器が出土し、国際交易が活発であったことを示している。 「吉備の穴海」には東から吉井川、西から高梁川、中央部では旭川と岡山県の三大河川が流れており、沖積作用で島々の間に干潟ができ、江戸時代の干拓で海はなくなって広い平野やができた。江戸時代の寛永年間から幕末の慶応に至る約240年間で児島湾沿岸で約6,800haもの土地が干拓により造成されたという。明治時代になっても家禄を奉還した旧士族たちに対する授産事業として干拓が行われた。昭和16年までに約2,970haが造成されたとされる。 別説として、「鞆の浦」(広島県福山市鞆)をあげる説もあるが、不弥国から邪馬台国の上陸地との距離の比例が2対1となる上東遺跡の方が有利と思われる。投馬国まで水行二十日、投馬国からは水行十日であるから、鞆の浦では西に寄りすぎる。また日本海航行説では出雲国の港が想定される。

邪馬台国

邪馬台国に行くには投馬国から水行10日、陸行1ヵ月とされる。瀬戸内海から東に行けば、難波津(難波三津之浦)に到達する。弥生時代に船着きがあったとの確証はないが、あったとすれば有力候補となる。

そのほかの弥生時代の港

  • 御津 石村智(2017)によれば、播磨国御津に港があったという。揖保川の河口部にあり、権現山51号墳、輿塚古墳は港の目印として築かれたとする。
  • 志高遺跡 京都府舞鶴市志高遺跡の堤防状遺構は弥生時代中期の船着場と見られる。50 m前後の堤防状遺構の中央部に陸橋がついたT字形の遺構で、川に面する部分を貼り石で護岸されている。日本海側屈指の河川である由良川に面し、由良川沿岸の水上交通の拠点としてもうけられた船着場であろう。弥生時代後期の丹後地域に多くのガラス製品、鉄製品を入手している。これらは海上交通を利用した交易で得られたものであった。

参考文献

  1. 石村智(2017)『よみがえる古代の港』吉川弘文館
  2. 千田稔(1974)『埋もれた港』学生社
  3. 森浩一(1986)『日本の古代3』中央公論社
  4. 長崎県教育委員会(1999)『原の辻遺跡』(船着場付近水路等状況調査)

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