一支国 ― 2023年07月08日 17:15
一支国(いきこく)は、『魏志倭人伝』に記載された3世紀中頃の国のひとつである。
概要
『魏志倭人伝』には「一大国」と書かれるが、『梁書』(巻54、諸夷伝・倭)、『北史』、『魏略逸文』は「一支国」と書くため、一支国の誤りとみられる。 『古事記』の「伊伎国」、『国造本紀』の「伊吉島」である。対馬国から末廬国に至る道程に存在するため、壱岐島には間違いない。
王の存在
『魏志倭人伝』に王がいたという記述はないが、考古学の証拠から王はいたと見られている。原の辻遺跡は一支国の王都である。また環濠集落がある。壱岐島内には原の辻遺跡に匹敵する規模・内容を持つ遺跡は存在しない。 発掘調査により日本最古の船着き場の跡や当時の「一支国」が交易と交流によって栄えていたことを示す住居跡などが確認されている。また様々な地域の土器や中国の貨幣や三翼鏃(さんよくぞく)をはじめ、日本唯一の人面石やココヤシで作った笛が出土している。
「一大国」と「一支国」
「一支国」と「一大国」とは字画が似ているから誤植である可能性は高い。岩波本は「一支国」の誤植とするも、本文は「一大国」に作る。『梁書』(巻54、諸夷伝・倭)、『北史』、『魏略逸文』には「一支国」で一致して書かれていることは、オリジナル原本は「一支国」だったと考える方が合理的である。 誤植でなく「一大国」が正しいとする説もある。倭名抄や延喜式によれば、壱岐島は石田郡と壱伎郡に二分されており、石田郡に石田、物部、特通、箟原、治津の鄕があった。石田を一大と聞き取った可能性があるとする説がある。この説では『魏略逸文』や『梁書』の記載を説明できない。
一支国の成立
西谷正(2002)は弥生時代前期末から中期始めに成立したとする。根拠は原の辻遺跡の石田大原地区から細形銅剣、銅矛や多紐細文鏡が出土したことである。一支国の首長墓であるとみる。一支国は対馬国と異なり、沿岸部と内陸部とが共同体を形成していた。天ケ原遺跡では航海祭祀遺跡が出土しており、高地性集落が見られる。
比定場所
現在の長崎県壱岐市である。拠点集落(国邑)は「原の辻遺跡」であり、衛星集落がカラカミ遺跡、車出遺跡である。原の辻遺跡は三重の環濠で囲まれていた。また「原の辻遺跡」付近に古代の船着き場があった。中国の使者はこの船着き場を利用した可能性が考えられる。
魏志倭人伝
- 大意
- 対馬国から瀚海という海を渡って千餘里で一大国(一支国)に至る。官を(対馬国と同じ)卑狗といい、副官を卑奴母離という。四方は300里ばかりである。竹が多く、木は林のようになっている。家は3000ほどある、田はあるが、耕地が不足しているため、南北に渡り穀物を購入する。 対馬は「戸」であるが、一支国では「家」である。特に意味の違いはないようである。対馬とは異なり、田地が少しあると記載する。
- 『倭人伝』原文
- 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
遺跡
展示施設
参考文献
- 鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
- 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
- 西谷正(2002)「首長墓から王墓へ」毎日新聞2002年8月2日、夕刊
- 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
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