春秋二倍暦説 ― 2023年05月10日 23:16
春秋二倍暦説
(しゅんじゅうにばいれきせつ)は日本の古代においては春夏、秋冬の半年を各々1年と数える暦とされ、現代の1年は当時は2年となっていたという説である。
「二倍年暦説」、「一年二歳暦」、「春秋暦」とも言われる。
概要
文帝に命じられて[[裴松之:裴松之]]は三国時代の歴史書『三国志』の「注」を西暦429年に作成した(裴松之注『三国志』)。その中に「魏志東夷伝倭人条」が含まれる。そこに「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す(其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀)」と書かれている。これは倭人は正月も知らず、四季も知らない、春に耕し、秋に収穫することで年数を数えているという意味である。これを、春の耕作と秋の収穫をそれぞれ1サイクルとして、今の半年を一年として数えていたと解釈する説である。
春秋二倍暦説への反論(その1)
これには反論がある。すなわち「魏志東夷伝倭人条」の「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」の意味は「春に耕し秋に収穫することをもって(合計)一年としている」と解釈できるからである。春から秋にかけて別の年になる(改元する)とは書かれていない。したがって、春の耕作と秋の収穫が年の初めであるという解釈はできない。
半年暦、春秋二倍暦は根拠のない説となる。
別の論拠を上げる。仮に春秋二倍暦説が正しいとするならば、ある年は春夏だけ(1月から6月)の出来事だけを書き、次の年は秋冬の出来事(7月から12月)だけを記載していなければならない。しかし下記の表に示す通り、『日本書紀』の記事はそのようには書かれていないことが分かる。したがって、春秋二倍暦説は成り立たないといえる。
古代の春夏秋冬 『日本書紀』の記載から古代の四季と月とは次のように対応している。
月 | 季節 |
1月 | 春 |
2月 | 春 |
3月 | 春 |
4月 | 夏 |
5月 | 夏 |
6月 | 夏 |
7月 | 秋 |
8月 | 秋 |
9月 | 秋 |
10月 | 冬 |
11月 | 冬 |
12月 | 冬 |
春秋二倍暦説への反論(その2)
春秋二倍暦説が正しいとすれば『日本書紀』の記載には2年連続で同じ季節は現れないことになる。しかし『日本書紀』にはそのような規則性は見られない。例をあげよう。
以下のように、応神元年と応神2年の両方に春の記事がある。また応神13年と応神14年の両方に春の記事がある。また応神39年から応神41年の3年連続で春の記事がみられる。
春秋二倍暦説が正しいとすると、連続年で同じ季節は現れないから、このような記述にはならない。
2年連続または3年連続で同じ季節が現れることから、日本書紀の記述のおいて春秋二倍暦説は成立しないと考えられる。
応神紀の季節記載例
大王 | 年 | 季節 | 月 |
---|---|---|---|
応神 | 1年 | 春 | 1月 |
応神 | 2年 | 春 | 3月 |
応神 | 13年 | 春 | 3月 |
応神 | 14年 | 春 | 3月 |
応神 | 39年 | 春 | 2月 |
応神 | 40年 | 春 | 1月 |
応神 | 41年 | 春 | 2月 |
応神紀のは春しか記載がないので、他の季節の記載例をみておく。そこで雄略紀を参照する。 表のように雄略4年には春と秋が同じ年に登場する。2倍歴ならあり得ない事である。
雄略紀の季節記載例
大王 | 年 | 季節 | 月 |
---|---|---|---|
雄略 | 1年 | 春 | 31月 |
雄略 | 2年 | 秋 | 7月 |
雄略 | 2年 | 冬 | 10月 |
雄略 | 3年 | 夏 | 4月 |
雄略 | 4年 | 春 | 2月 |
雄略 | 4年 | 秋 | 8月 |
雄略 | 5年 | 春 | 2月 |
雄略 | 5年 | 夏 | 4月 |
雄略 | 5年 | 秋 | 7月 |
百濟記事との比較
応神紀に百濟記事との対応ができる記述が2か所ある。応神25年記事に百済の腆支王(日本書紀では「直支王」という)が薨去したとの記事がある。これは西暦414年である。
日本書紀の干支では294年であるからちょうど120年の違いがある。これは知られている2運の年代遡求である。また応神3年には百済の辰斯王が即位した記事がある。これは西暦で385年である。
応神3年は日本書紀の干支では272年である。百済を基準とした年数の差は113年である。
すなわち応神25年と応神3年と百済歴とは西暦で7年しかずれていない。「二倍年暦説」が正しければ、ここに44年のズレがなければならない。よって「二倍年暦説」は成立しないことは明らかである。
倭国における暦の採用
『日本書紀』に暦の文字が初めて登場するのは欽明十四年(553年)六月、暦博士を交代で来るようにとの記事である(原文:別勅「醫博士・易博士・曆博士等、宜依番上下。今上件色人、正當相代年月、宜付還使相代」)。しかし、このとき始めて倭国に渡来したとは読めないので、その前に暦博士が来ていた可能性もある。で翌年、欽明天皇十五年(554年)二月、求めに応じて百済から暦博士 固徳王保孫らが来日した(原文:別奉勅、貢易博士施德王道良・曆博士固德王保孫・醫博士奈率王有㥄陀・採藥師施德潘量豐・固德丁有陀・樂人施德三斤・季德己麻次・季德進奴・對德進陀。皆、依請代之。)。推古天皇十年(602年)十月、百済の僧観勒が来日し、暦本などを献上し陽胡史の祖玉陳が暦法を習い、大友村主高聡が天文・遁甲を習ったとされる。(『政事要略』(1002年)中の「儒伝に云う」には推古天皇十二年(604年)正月朔、始めて暦日を用いたとされるが、後代資料なので信憑性は薄い)。暦法を習ったと書かれるので、それ以前には暦法をマスターしていなかったと理解できる。
このとき百濟から伝わったのは、元嘉暦とみられる。それ以前は春耕秋収の自然の摂理によって、1年の経過は知っていた。暦法の公式の採用は持統天皇4年(690年)11月に、「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」と書かれるところである。『三代実録』貞観三年六月条には持統四年十二月に元嘉暦を使用開始し、次いで儀鳳暦を用いたと書かれる。『日本書紀』の持統十一年八月条と『続日本紀』文武元年(持統十一年)八月条とで朔日干支が異なるのは、『書紀』が元嘉暦を採用し、『続日本紀』が儀鳳暦を採用したことの証明となっている(坂本太郎他(1994)の注)。
参考文献
1.倉西裕子(2003) 『日本書紀の真実 紀年論を解く』講談社
2.宝賀寿男(2006)『「神武東征」の原像』青垣出版
3.高城修三(2000)『紀年を解読する 古事記・日本書紀の真実』ミネルヴァ書房
4.貝田禎造(1985)『古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く』六興出版
5. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
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