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中原高句麗2023年08月19日 23:27

中原高句麗碑(ちゅうげんこうくりひ,중원 고구려비)は朝鮮半島で発見された高句麗碑である。 韓国では現在、「忠州高句麗碑」と呼ぶ。

概要

1978年に大韓民国忠清北道中原郡(現在の忠州市。1995年改称)中央塔面龍田里で発見された碑石 忠州高句麗雨は1979年2月末、、檀国大学博物館学術調査団によって発見された。 発見された当時の行政区域は中原郡でああったため中原高句麗費と命名された。その後、中原郡が忠州市に統合されたため、韓国では現在、忠州高麗雨費と呼ぶ。 当時は文字のない「白碑」と考えられていた。ところが拓本をとったところ文字があらわれ、学術研究の末に高句麗碑であることが確認された。 磨耗が激しい後面及び右面は判読不能である。 前面計391字分のうち,約244字が判読されている。右側面は7字分が判読されている。 2000年の精密調査により裏面で一部の文字の痕跡を確認した。四面碑であったとされている。広開土王碑は純中国式漢文で書かれているのに対し、中原高句麗碑は征服地の新羅の民に読ませるため、新羅語の制約を受けた表記法になっている。

大意

高句麗と新羅との関係を兄弟になぞらえながら、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」と位置づけている。 高句麗が寐錦以下の官に衣服を下賜したこと、すなわち王以下が高句麗の衣服を受け入れ、新羅を東夷と呼ぶ、高句麗が新羅の領土内に軍事責任者である幢主を置いたこと、新羅領内で300人を徴発し高句麗軍官の指揮下に置いたことなど、新羅が高句麗に従属したこと、などが記され、朝鮮半島内に勢力を拡大した長寿王の時代に高句麗が新羅を従属させていたことを示す資料である。

立碑目的

高句麗は続々と新羅の領土を侵略していた時代のため、高句麗にはこのような権威があるということを新羅の人達に読ませたいという目的で書かれたと言われる。

素材

花コウ岩を使った四角石柱形である。 高さ2.03m、幅は55cm、厚さは33cmである。

発見場所

大韓民国忠清北道中央塔面龍田里

書体

釈文

展示

  • 名称:中州高句麗碑展示館
  • 目的:高句麗の威光を示すために建てられた忠州高句麗碑(国宝第205号)を保存する展示館
  • 所在地:忠清北道忠州市中央塔面龍田里280-17
  • 休館日:月曜日、旧正月、秋夕

指定

  • 1981年3月18日、大韓民国国宝第205号に指定された

参考文献

  1. 中原高句麗碑拓本,九州国立博物館

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