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藤原不比等2023年11月19日 10:36

藤原不比等(ふじわらふひと、659年- 720年)は飛鳥時代から奈良時代初期の政治家である。「藤原史」とも書く。 諡号は淡海公。

概要

659年(斉明天皇五年)生まれる。父は藤原鎌足(第二子)、母は与志古の娘の与志古娘(車持夫人)。「興福寺縁起」は、鏡王女を不比等の母とする。鏡王女は天智天皇の妃であっつたが、その後に藤原鎌足の正妻になったので、不比等はご落胤との説がある。 幼時は山科の田辺史大隅の家に養われたといわれ、不比等(史)の名はそれに由来する。 藤原鎌足が亡くなる直前に中臣から藤原氏に改姓した際に不比等は継承する。

経歴

壬申の乱の歳は数え14歳であったため関与はせず、近江朝への処罰の対象や天武朝への功績の対象にもならなかった。 697年、不比等の娘宮子が文武天皇の妃となったため、不比等は天皇家の外戚としてその後の藤原氏隆盛の権力基盤を得た。697年(文武天皇元年)持統天皇の譲位により即位した草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立をはかったと言われる。698年(文武天皇2年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗ることとされ、不比等の従兄弟らは中臣姓のままとされた。 文武の死直前の707年(慶雲四年)4月には、歴代の朝廷に奉仕した功により食封五千戸を賜る。 710年、平城京遷都では実質的に采配を振るったとされる。同時期に藤原氏の氏寺の山階寺を奈良市(現在地)に移転させ、興福寺と改称した。 720年、63歳で死去する。

功績

律令体制の確立に力を入れ、大宝律令制定に参画する。平城京遷都を推し進め、更に大宝律令の改訂を主宰し、養老律令を完成させた。草壁皇子と持統から元正に至る4代の天皇に仕え、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に貢献したとされる。

参考文献

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