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四神2024年01月11日 15:08

四神(ししん)は中国の戦国時代に成立した4つの霊獣である。 「四獣」、「四象」、「四霊」ともいう。

概要

古代中国において東西南北の方位を象徴する動物である。 東に青龍、西に白虎、北に玄武、南に朱雀を配置する。

来歴

四神は中国の神話で、天の四方の方角を司るとされる。四神をそれぞれ方角や季節に対応させる。方角と動物との関係は、星座の形に由来するとされる。 中国の戦国時代(前403年~前221年まで)に基本形が生まれ、前漢末から器物や墓室の装飾に四神図像が登場し、新から後漢の銅鏡に採用された。方格規矩鏡として類型化される。 高句麗では5世紀から6世紀頃に人物風俗図に四神が現れ、その後、四神図だけが壁一面に描かれるようになる。四神が描かれた古墳として有名なものに江西三墓がある。石の壁面に直接四神が描かれる。日本の植民地期に2回にわたり写された模写図が韓国中央博物館に展示される。

日本の四神

「朱雀・青龍・玄武・白虎」で、天の四方を守護する。土地選定の目安に四神を用いる思想は日本に輸入された。例えば平安京は四神に対応される。高松塚古墳の壁画、キトラ古墳壁画、楽浪郡遺跡の古墳壁画、薬師寺本尊の台座に四神が描かれる。 四神は日本と朝鮮に伝わったが、4世紀の仿製鏡では四神の姿を正確に描いていない。 四神が正確に表現されるのは高句麗と百済の古墳壁画では6世紀になってから、日本では7世紀末のキトラ古墳と高松塚古墳からである。

出土例

  • 四神 - キトラ古墳、石室、 奈良県高市郡明日香村、7世紀末~8世紀初頭
  • 四神 - 高松塚古墳、石室、奈良県高市郡明日香村、7世紀末から8世紀初
  • 四神 - 新沢千塚126号墳出土漆盤、奈良県橿原市、5世紀(古墳時代中期)
  • 四神 - 竹原古墳、福岡市、6世紀後半

参考文献

蘇我満智2024年01月11日 18:15

蘇我満智(そがの まち)は古墳時代の豪族である。 『古語拾遺』、『尊卑分脈』では「蘇我麻智」と表記される。

概要

日本書紀は蘇我氏の出自を伝えないが、『公卿補任』に「満智-韓子-高麗-稲目」の系譜を記す。また『尊卑分脈』は「彦太忍信命(孝元天皇の皇子)-屋主忍男武雄心命-武内宿禰-石川宿禰-蘇我麻智宿禰」の系譜を伝える。 両文献を合わせれば、「彦太忍信命-屋主忍男武雄心命-武内宿禰-石川宿禰-蘇我麻智-蘇我韓子-蘇我高麗-蘇我稲目」の系譜となる。もちろん、すべて正しいという保証はない。 太田亮(1942)はここから蘇我氏の系譜は武内宿繭を祖とするとした。

財政官

『古語拾遺』に「諸国貢朝年々盈ち溢れ、更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校せしめた」と書かれる。

蘇我満智は財政管理にたけていたため、朝廷において財務管理を行っていた可能性が想定されている。蘇我氏はこの時期から、朝廷で重要な地位を占め、帰化人を配下として、財政権を握ったと理解されている(阿部武彦(1964))。

古事記の記載

古事記には「蘇我石川宿禰は蘇我臣・川辺臣・由中医・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣等の祖先である」と書かれる。この意味を、阿部武彦(1964)は蘇我一族が分化してそれぞれの氏を称したと解釈している。蘇我氏から分れた氏族が朝廷の重臣として存在したことが権力掌握の源のひとつになったと主張する。そのほか帰化人を配下にして勢力を伸長したことについては関晃氏の研究から、是認できるものとされている。

渡来人説

蘇我満智を百済の権臣「木満致」と同一人とし、蘇我氏の出自を渡来人とする説がある。渡来人説を唱えるのは、奈良県文化財保存課の坂靖課長補佐(当時)である。「蘇我氏の出自を考古学的に検証すると、飛鳥の開発を主導した渡来人にたどりつく」とし、出身地を朝鮮半島南西部の全羅道地域との説を唱える。

日本書紀

  • (原文)二年春正月丙午朔己酉、立瑞齒別皇子爲儲君。冬十月、都於磐余。當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓圓、此云豆夫羅大使主、共執國事。十一月、作磐余池。
    • (大意)履中二年(401年)、磐余に宮廷を作り、蘇我満智は平群木菟、物部伊?弗、葛城円とともに政務をとった。

古事記

  • (原文)蘇我石川宿禰は蘇我臣・川辺臣・由中医・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣等之祖也。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 斎部広成、西宮一民(1985)『古語拾遺』岩波書店
  3. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  4. 坂靖(2018)『蘇我氏の古代学』新泉社
  5. 阿部武彦(1964)「蘇我氏とその同族についての一考察」北海道大学文学部紀要12,pp.123-135.

彩文土器2024年01月11日 19:05

彩文土器(さいもんどき)は顔料で文様等を描いた素焼きの土器である。

概要

顔料を用いて面に文様を描いた土器の総称である。 全面または広範囲に塗りつぶしたものは塗彩という。赤色で塗る場合は「丹塗り」と呼ぶが区別は曖昧である。 土器では焼成前に描くものと、焼成後に描くものとがある。 北部九州の弥生先Ⅰ期・Ⅲ期や近畿・東海・関東のⅤ期では焼成前に塗る。そのほか各地のⅠ期では焼成後に塗る。水洗いすると前者は落ちにくく、後者は落ちにくい。 釉薬をかけた陶器は彩文土器に含めない。彩色顔料で具象文や幾何学文を描いている。

海外彩文土器

彩文土器はメソポタミアやインドにも見られる。原始農耕文化の発生とともに発達し、世界各地に分布する。中国では「彩陶」とよぶ。 素焼きの土器で、酸化鉄による赤色や黒色、白色などで模様や動物を描く。

出土例

  • 彩文土器壺 - 藤崎遺跡、福岡県福岡市早良区、弥生時代前期
  • 彩文土器壺 - 大渕遺跡、愛媛県松山市太山寺町、縄文時代晩期
    • 朝鮮半島の慶尚南道泗川郡からの出土例と似る。丹塗りの壷の頸部から肩部にかけて『八つ手の葉』状に施文される。

参考文献

  1. 末長雅雄(1943)「大和唐古弥生式遺跡の研究」京都帝国大学文学部考古学研究報告. 第16冊、桑名文星堂
  2. 工藤善通(1986)「赤彩紋」『弥生文化の研究』3 (弥生土器 1)、雄山閣出版