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ヤマト政権2025年08月17日 00:05

ヤマト政権(やまとせいけん)は弥生時代から古墳時代にかけて日本列島に出現した政治的体制である。

概要

カタカナの「ヤマト政権」と漢字の「大和政権」とをかき分けるのは、両者は別物という認識が前提にあると考えられる。 「ヤマト政権」は考古学的・文献史的資料の両方ともが断片的であり、後世の「大和政権」という呼称や枠組みと混同されやすいところが問題となる。

ヤマト政権の定義

主に3世紀半ば~4世紀初頭に奈良盆地を中心に形成された政治勢力を「ヤマト政権」という。魏志倭人伝の記す邪馬台国の時期(3世紀前半~中頃)と部分的に重なる可能性があるが、「大和政権」と同一視できるかは様々な立場がある。地域的にはどちらも奈良盆地およびその周辺(大和地方)を拠点としている。6世紀頃までは日本列島の王統は血筋では繋がっていないという見解が、専門家の間では主流のようである。河内、吉備、筑紫なども政治的・婚姻的関係を結び、ゆるやかな同盟圏を形成していたと見られている。

ヤマト政権の成立時期

ヤマト政権の成立時期にはいくつかの説がある。

  1. 第一説は前方後円墳が成立した古墳時代の開始をヤマト政権の成立とする考え方である。
  2. 第二説は『日本書紀』の記述から崇神が大王に就任した時期とする。

前方後円墳開始期説

前方後円墳が成立した時期は3世紀半ばであり、箸墓古墳を最初の前方後円墳とする。 その根拠は、以下の通りである。 ①奈良南部で始まった前方後円墳を模範(規格)として同じ規格の古墳が全国に広まったことである。同じ規格の古墳が広まったことは、ヤマト政権の影響力が全国に及んだことを示す。 ②3世紀、4世紀の鏡の配布は近畿を中心として、全国レベルで広がっていることである。③近畿地方を中心に巨大な古墳が築造されたことから、この地域に中央政権が存在が存在したことは確実視されている。

都出比呂志(1993)は3世紀半ばは律令国家の前段階の初期国家形成時期であり、前方後円墳の分布は5世紀において北は岩手、南は鹿児島(唐仁古墳群)に広がっていると指摘する。前方後円墳の成立直後の四世紀において、すでに前方後円墳を築造する少数の首長が散在的に存在していたと都出比呂志(1993)は指摘する。「古墳の築造が一元的な規範の下に、身分的表現として営造されたと理解」しているとする。

鏡の分配

岡村秀典(1999)の研究によれば、紀元前には九州の中国鏡(漢鏡)が圧倒的であるが、紀元後150年までに九州の中国鏡(漢鏡)と近畿の出土数が同程度となり、二世紀半ば以降になると四国東部から近畿に集中するようになる。 鏡は地域間外交で使用される贈与品であり、祭祀権威(レガリア)の象徴でもあったため、その中心地移動は畿内優位を裏付ける。例証として、古墳時代前期の代表的な前方後円墳である椿井大塚山古墳からは32面以上の三角縁神獣鏡が発見されている。全国の古墳から出土した同笵鏡が集中していることから、分配者はヤマト政権の中枢部にいる人物とみられる。主たる分配権を近畿地域の首長が握ったことになる。奴国や伊都国の出土品の質量の豊富さは、1世紀における畿内では対抗できない。3世紀中頃には三角縁神獣鏡の分布は畿内中心になった。これは、政治的中心地が移動したことを示す。

崇神期説

崇神期説の根拠は主に文献『日本書紀』である。根拠は吉村武彦(2010)によれば、次の通りである。 ①古代では王の居住する宮が政権中枢であり、前方後円墳ではない。 ②崇神を日本書紀では「御肇国天皇」、古事記では「所知初国」と書く。第10代ではあるが、初代の大王という伝承があったであろう。 ③初代から第九代までの大王(天皇)は「欠史(闕史)八代」であり、名前は「ヤマトネコ」など4世紀の名前としてはふさわしくない。つまり実在しなかった。 ④崇神陵とされる行燈山古墳は4世紀前半の建設であり、規模からしても王陵である。 ⑤前方後円墳の構成要素は近畿地方独自の発祥ではない。吉備、東瀬戸内海、九州、山陰の影響を受けて統合した形式である。 ⑥ヤマト政権の発祥は4世紀半ばであり、邪馬台国とは関係が無い。

ヤマト政権と九州政権の権力移行

2世紀末頃までは九州政権(北部九州)が日本列島で最大の勢力であった。これは『漢書』の記載や遺跡の副葬品の内容から確認できる。『後漢書』記載の「倭の奴国が来朝した」として、中国皇帝は奴国を倭国の代表と認めている。これは現在の九州の福岡県にあった政権(王権)とみられる。 このように1世紀においてはヤマト政権の成立前であり、これは九州政権であったとみられる。しかし、3世紀になると考古学的には鏡(特に三角縁神獣鏡)や鉄資源の分布が、2世紀末から3世紀にかけて九州中心から畿内中心に変化している。これは、いわゆる「倭国乱」がその変曲点(ターニングポイント)とみてよいだろう。 山尾幸久(1986)は「ヤマト政権は、おそらくキビ政権との連携のもと、対外関係においてツクシ政権を統御する立場に立った」とのべるのは、前述のような文献的記載と考古学的な証拠とを根拠としている。

逆転の根拠と理由

第一に軍事的かつ政治的同盟が拡大したことである。有力豪族連合(ヤマト政権の前段階)は河内・吉備・東海など広域の豪族と連合して、九州の単地域勢力を上回った。第二に鉄資源ルートの掌握である。3世紀から4世紀にかけて鉄は朝鮮半島南部から対馬・北九州経由で入るが、畿内勢力が内陸交通や瀬戸内海航路を押さえることで九州を経由しないで鉄を畿内に直接もたらした可能性がある。第三に外交ネットワークが変化したことである。渡来系技術者(鍛冶や土木技術者)が畿内に集住し、軍事力が強化され、大型土木(古墳)が可能となった。第四に鏡の配布圏が変化したことである。1世紀から2世紀では九州北部に中国鏡(漢鏡)が集中している。

大和の表記の登場時期

「大和」の国名は、8世紀初頭から前半の『古事記』『日本書紀』では使用されていない。7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなく、「倭(ヤマト)」として表わされた。701年の大宝律令施行では国名(郡・里〈後の郷〉名を含む)は二文字とすることになり、日本の名称は「大倭」とされた。8世紀中ごろに施行された『養老令』以後には「大和」国と使用されるようになった。それでも「倭」は、中国において日本の総称として用いられていた。

参考文献

  1. 山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
  2. 岡村秀典(1999)『三角部縁神獣鏡の時代』吉川弘文館
  3. 都出比呂志(1993)「前方後円墳体制と民族形成」待兼山論叢. 史学篇 27,pp.1-26
  4. 西嶋定生(1961)「古墳と大和政権」『岡山史学』第10号、(『日本国家の起源』〈現代のエスプリ〉2,至文堂、1964年)に再録)
  5. 吉村武彦(2010)『ヤマト王権』岩波書店