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持衰2023年11月30日 13:26

持衰(じさい)は日本古代において船の乗組員の運命を背負う役目である。

概要

「持」は斎戒を守ること、「衰」は麻布の喪服とされる。倭人が魏に朝貢に行く際の船に乗る際に航海の安全を担う人物と考えられている。当時の準構造船による航海はかなり危険なもであった。持衰は『魏志倭人伝』に登場する。 倭人伝によれば航海の同行者の中から一人を定めて持衰とする。持衰には以下の定めがあった。

  1. 頭髪を整えない。
  2. シラミが湧いてもそのまま放置する・
  3. 衣服は洗わず着替えず、汚れたままとする。
  4. 肉類を食べない。
  5. 女性を近づけない。(持衰は男性であったことが分かる)

持衰の待遇

倭人伝によれば、航海が無事に終わると、奴隷や財物などの褒美を与える。もし疫病が蔓延したり、航海に暴害(暴風雨など)があった場合は、持衰の謹慎が不十分であったとして責任をとらせてこれを殺そうとする。

関連語

類似語に「持斎」がある。読みが同じであり、期待される役割が似ている可能性がある。戒律をまもり、心身の清浄を保つこととされる。

遣唐使船の場合

後代になるが延喜式によると、遣唐使船に技手として、主神という神主、卜部という亀卜の役割が同船している。持衰と同様に、航海の安全を祈願する役割であろう。

魏志倭人伝

其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰、若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。

参考文献

  1. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店

万二千余里の意味2023年11月05日 22:00

東夷伝の里程(東潮)「「三国志」東夷伝の文化環境」

万二千余里の意味(まんにせんよりのいみ)は『魏志倭人伝』に書かれた萬二千餘里が観念的な数字であるという説である。

概要

『魏志倭人伝』には郡から女王國まで「萬二千餘里」と書かれている。郡とは帯方郡である。 つまり、帯方郡から女王卑弥呼のいる邪馬台国まで1万二千里あまりであると書かれている。この数字が正しいものとして、邪馬台国の位置を比定しようとする議論がさかんに行われてきた。いわゆる里程論である。しかし、1万二千里が果たして正しい数字であるかは疑問であるとする説がある。邪馬台国まで1万二千里が正しい数字でないとすれば、里程論はそもそも成り立たない議論となってしまう。そこで、「萬二千餘里」の妥当性を論じた松本清張の説と東潮の説を紹介する。

松本清張説

松本清張(2017)は、「帯方郡から倭までの万二千余里」はいいかげんな数字であるとする。例として『前漢書』西域伝「大宛国。王は貴山城に治む。長安を去る万二千五百五十里」と書かれ個所がある。五百五十里を端数(余里)とみれば「万二千余里」になる。また「鳥弋山離国、長安を去る万二千二百里。都護に属さず」、「安息国、王は番兜城に治む。長安を去る万一千六百里。都護に属さず」「大月氏国、王は氏城に治む。長安に去る万一千六百里。都護に属さず」「唐去国。長安を去る万二千三百里。都護に属さず」などの数字、四捨五入するとすべて「万二千余里」となる。これらは、いずれも都護に属さない(中国から見た)辺境の蛮地とされる国である。端数は一見正しく見せるための粉飾であるとする。すなわち「万二千里は首都から蛮地までの距離」を表す決まり文句のような数字となっている。

『三国史』の陳寿は『前漢書』の前例を踏襲し、帯方郡から遙かに遠い蛮国の女王国までの距離を一万二千余里としたのである。「東夷伝記載の里数はいずれも虚数であり、倭人伝の里数も虚数である」とした。

結論的に松本は「倭人伝は東夷伝の中の記事であるから、倭人伝だけを切り取って論じるべきではない。東夷伝諸国の記事を見渡しながら研究しなければならない」とし、さらに「これまでの諸学説の論議がいかに虚妄の数字を抱いて苦悩してきたか、その愚かさに唖然となるに違いない」と里程論を批判する。説得力のある議論といいえる。

九服説と東夷伝

東潮(2009)は帯方郡から邪馬台国までの「万二千里」は『周礼』の九服説によって書かれたと指摘する。すなわち京師からの地理観を郡治からの距離観におきかえる小天下観にもとづいて記述されたものであると指摘する。

九服説は「周礼‐夏官・職方氏」に書かれたものである。中国、古代の制度として千里四方の王畿を中心とし、外へ五百里ごとに一服とした九つの区域で表される世界観である。その証拠として、『三国志』東夷伝の冒頭に『尚書』禹貢篇五服,『周礼』夏官職方氏の「九服之制」にもとづく天下方万里説が展開されていることをあげる。

帯方郡から邪馬台国までを同様に、帯方郡を長安に置き換え、そこから最も遠い辺境の地として邪馬台国を位置づけた。 帯方郡から狗邪韓国までの「七千里」は六服の方七千里に対応するとし、狗邪韓国から「周旋五千里」を加算して、「万二千里」になったとする。蛮服の世界である。「周旋五千余里」は「方5 千里」に相当するとされる。整理すれば、帯方郡から狗邪韓国まで「七千里」、狗邪韓国から伊都国まで3500里、伊都国から邪馬台国まで、水行を除くと合計陸行一月(30日)となり、日に五十里(『唐六典』)として1500里となる。合計して1万二千余里である。(水行分は余里とする)『周礼』にいう蛮服の世界が描かれている。

以上のように、帯方郡から邪馬台国までの「万二千里」の記載は『周礼』に記載された中国古代の世界観に基づく観念的な数字となっている。

参考文献

  1. 松本清張(2017)『古代史疑』中央公論新社
  2. 東潮(2009)「「三国志」東夷伝の文化環境」 国立歴史民俗博物館研究報告 巻 151, pp. 7-62

陳寿2023年10月29日 12:09

陳寿(ちんじゅ,233-297,Chen shou,?寿)は中国の三国時代に蜀と西晋に仕えた歴史学者、官僚である。

概要

陳寿は巴西郡安漢県(現在の四川省南充市)を本籍とする蜀出身の人物であり、字は承祚(しょうそ)。蜀が滅んだ後は晋に官僚として仕えた。 学識の高い譙周に師事し儒学と史学を修め、蜀に仕えたとされる。譙周は歴史に明るく、師の教えにより、陳寿は史家としての能力を身につけた。 晋の張華に認められて陳寿は武帝期の西晋に仕官し、佐著作郎となり、ついで著作郎となった。

三国志

中国三国時代について書かれた紀伝体の史書『三国志』を編集した。後漢の混乱期から西晋による中国統一までを記載する。 陳寿の『三国志』は二十四史の中でも『史記』に次ぐ高い評価を受けている。 しかし、陳寿は晋の官僚であったため、晋にとって都合が悪い出来事は簡潔な形で記載される。 紀伝体であるが、本紀は魏書のみに設けられ、蜀書・呉書は総て列伝のみであることから、『三国志』は体裁上は「曹魏正統論を説く書」となる。曹魏を継承して成立した西晋の臣下である陳寿には、魏を正統ではないとすることはできなかった。蜀漢に贔屓する筆致であることは古くから指摘されており、その証拠として、劉備・劉禅に対する「先主」、「後主」の呼称である。一方で孫権を「権」と呼び捨てにしており、劉備父子の扱いを際立たせる。

参考文献

三国志2023年10月29日 09:54

三国志(さんごくし)は古代中国の国である魏・呉・蜀の三国の歴史書である。

概要

中国が魏・呉・蜀の三国に分かれていた時代を三国時代という。三国時代は西暦222年 から 西暦280年の58年間である。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)により漢王朝の動乱期から西晋による中国再統一(280年)までを指す。 三国時の前代は「漢」であり、後代は「西晋」である。

漢王朝

漢の末期は腐敗した役人により漢王朝は腐敗していた。張角は仙人から妖術の書を授かり、腐敗した漢王朝を倒すために黄巾の乱を起こした。漢王朝はこの乱を鎮めたが、討伐で活躍した豪族たちが力を握り、漢王朝は弱体化した。混乱の中から、3人の英雄が現れる。その時代が三国時代である。

霊帝に仕える宦官の曹騰の孫が曹操である。武術・舞踊・音曲・兵法など、様々な分野で類まれな才能を発揮する。改革的な政治を行い、人々は始皇帝の再来と称した。わずか5000の挙兵から、群雄割拠の時代を生き196年、後漢王朝最後の皇帝である献帝を、自らの根拠地の許(河北省許昌市)に迎え、天下の3分の1を手にした。彼の実際的な政治能力の高さがうかがえる。200年、「官渡の戦い」で自軍のほぼ十倍の袁紹の大軍を奇襲作戦で破り、軍事的に成功を収め、華北をほぼ平定した。2013年に献帝から魏公の称号を与えられ、さらに216年、魏王に封じられ、黄河流域の華北を支配した。220年正月、66歳で死去し、魏の武王という謚を送られた。子の曹丕が後漢の献帝から帝位を譲られ、魏王朝を創建した。父曹操には太祖武皇帝の諡号が与えられる。 「魏」(国)について書かれた部分を「魏志(又は魏書)」という。

呉の初代皇帝が孫権である。孫堅の次男で、孫策の弟である。漢時代の黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦する。200年、19歳で孫策の遺命を受けて家督を継いだ。家督を継いだ時点で、会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬江・廬陵の江東六郡を領有していた。五郡(廬江・会稽・廬陵・丹陽・豫章)が反旗を翻した。蜀と組み208年、そのとき最大の国であった魏を赤壁の戦いで破った。呉軍は2万の兵力で、80万の魏軍に対し、火船で奇襲して魏の水軍を焼き払う奇襲作戦を成功させた。209年には孫権は妹を劉備に嫁がせて関係を修復した。 210年、交州の南海・鬱林・交阯・日南・珠崖・?耳・蒼梧・九真・合浦の九郡を領有する。後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、諸侯の礼をとって呉王に封ぜられる。孫権が正式に呉の皇帝として即位したのは、229年であった。 呉の都を置いた建業は現在の江蘇省南京市である。孫権は252年に死去し、末子の孫亮が即位した。280年に司馬炎(武帝)の晋により呉は滅亡する。

黄巾の乱が起きると、義勇兵を挙げた劉備・張飛と出会い、張飛とともに劉備の護衛官を務め、簡雍・田豫らと各地を転戦する。赤壁の戦いに大功をたてた。劉備は江南の諸郡を平定したあと、関羽の功績を評価し、襄陽太守・盪寇将軍に任命した。関羽は長江の北の守備を任された。関羽と魯粛の会談により湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽を孫権領に、南郡・武陵、零陵が劉備領となる。211年に劉備は蜀に入り、その地の有力者劉璋に代わって支配権を収め、214年には成都を攻めて攻略した。219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首される。劉備は221年、成都で即位して正式に蜀(蜀漢)を建国して帝位(昭烈帝)につき、年号を章武とした。劉備による蜀の統治は10年ほどであった。次の皇帝に子の劉禅が即位する。劉備は死にあたって諸葛孔明に丞相としてその補佐を託したが、劉禅には皇帝としての統治力はなかった。263年、劉備の子の後主である劉禅が魏軍に降伏しては滅亡した。 陳寿によると、蜀は歴史を編纂する役人(史官)を(ほとんどの期間に)置いておらず、魏や呉に比べ蜀の歴史は伝わらなかった。

三国志

『三国志』は魏志(書)30巻、呉志(書)20巻、蜀志(書)15巻の三書全65巻からなる。名著と言われる。

三国志の版本

「三国志」の版本は数種類がある。-咸平本 - 北宋咸平五年(1002)刊行本 - 「静嘉堂文庫」に「呉志」のみ残る。「魏志」は現存せず。宋衢州州学刻元明逓修本 共二十五冊。

  • 紹興本 - 紹興年間(1131年-1162年)の刊行本。現存最古の刊行本。
  • 紹煕本 - 紹煕年間(1190年-1194年)に刊行された。宮内庁書陵部蔵南宋「紹煕本」。
  • 百衲本 - 「紹煕本」を元に張元済が刊行したとされる。1936年に商務印書館から出版された『百衲本二十四史』(影印本、全820冊)である。

参考文献

魏志2023年10月23日 21:43

魏志(ぎし)は中国の歴史書『「三国志』の中で、魏の国に関する史実を記した部分の通称である。 3世紀に成立した。

概要

30巻。「蜀志 」「呉志」とともに、晋の陳寿が著した著書である。「魏志」のの「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条が通称「魏志倭人伝」である。3世紀の日本の様子を知るための重要史料である。

参考文献

  1. 陳寿,裴松之,今鷹真(訳),井波律子(訳)(1992)『正史 三国志〈1〉魏書 1』筑摩書房
  2. 陳寿,裴松之,今鷹真(訳),井波律子(訳)(1993)『正史 三国志〈2〉魏書 2』筑摩書房
  3. 陳寿,裴松之,今鷹真(訳),井波律子(訳)(1993)『正史 三国志〈3〉魏書 3』筑摩書房
  4. 陳寿,裴松之,今鷹真(訳),井波律子(訳)(1993)『正史 三国志〈4〉魏書 1』筑摩書房

会稽東冶2023年10月15日 14:39

会稽東冶(かいけいとうや)は古代中国の会稽郡東冶県である。

概要

魏志倭人伝に「会稽」は2か所に登場する。倭国は「會稽東冶の東にある」と書かれる。 會稽とは漢書に現れる会稽郡であり、東冶県は冶県の前身である。 後漢の成立に冶県は分割され、東は東冶県に改名され、県西部は侯官県が設置された。 つまり會稽東冶の東とは会稽郡東冶県の東の意味である。 東冶県の県都は現在の福建省の省都である福州市である。 位置は、台湾の北、沖縄の西にある。 すなわち、三国志の筆者は倭国を現在の沖縄付近と理解していたことになる。

会稽東治

魏志倭人伝の版本には「会稽東治」とサンズイがついている。この場合は「会稽の東部地域の治所」と解釈され、現在の江蘇省蘇州市辺に理解される。その距離は580km北になり、会稽東治では鹿児島県鹿屋市付近が対応する。大きな違いである。 しかし、版本は会稽東冶の誤植である。理由は魏志倭人伝の版本は綿々と筆写されてきた手書き複製を宋代に印刷したものであるから、その時点かまたはその前の誤りが生じたものと思われる。また「東治」という地名はないこと、東にあるということから「東冶」は地名として出しているので、治所という曖昧な場所で示す理由はないこと、『三国志』には會稽と東冶はセットで登場することなどが挙げられる。

魏志倭人伝

  • (原文1)夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害
  • (大意1)
  • (原文2)計其道里、當在會稽東冶之東。

漢書地理志 地理志上

  • (原文1):東南曰揚州:其山曰會稽,藪曰具區,川曰三江,寖曰五湖;其利金、錫、竹箭;民二男五女;畜宜鳥獸,穀宜稻。
  • (原文2):會稽郡,戶二十二萬三千三十八,口百三萬二千六百四。縣二十六:吳,曲阿,烏傷,毗陵,餘暨,陽羨,諸暨,無錫,山陰,丹徒,餘姚,婁,上虞,海鹽,剡,由拳,大末,烏程,句章,餘杭,鄞,錢唐,鄮,富春,冶,回浦。

漢書地理志 地理志下

  • (原文3)其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,文身斷髮,以避蛟龍之害。後二十世,至句踐稱王,與吳王闔廬戰,敗之雋李。夫差立,句踐乘勝復伐吳,吳大破之,棲會稽,臣服請平。後用范蠡、大夫種計,遂伐滅吳,兼并其地。度淮與齊、晉諸侯會,致貢於周。周元王使使賜命為伯,諸侯畢賀。後五世為楚所滅,子孫分散,君服於楚。後十世,至閩君搖,佐諸侯平秦。漢興,復立搖為越王。是時,秦南海尉趙佗亦自王,傳國至武帝時,盡滅以為郡云。

三国志46巻・呉書・孫策伝

  • (原文4)虎等群盜,非有大志,此成禽耳。遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等

参考文献

不弥国2023年09月17日 22:14

不弥国

不弥国 (ふみこく)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。

概要
魏志倭人伝では奴國から不弥国まで「東行100里」を要すると書かれている。距離や方角は正しいとは限らないが、奴國から近い場所にあったと考えられる。
不弥国の位置には九州説でも近畿説でも諸説があり、定説はない。

不弥国比定の各説

No 比定地 提唱者 文献
1 宇美町 新井白石 古史通或問
2 宇美町 内藤湖南 卑彌呼考
3 宇美町 三宅米吉土
4 宇美町 和歌森太郎
5 太宰府 榎一雄
6 太宰府 白鳥庫吉
7 穂波 菅政友 漢籍倭人考
8 穂波 久米邦武
9 穂波 山尾幸久
10 穂波 鳥越憲三郎 倭人・倭国伝全釈
11 志賀島 田中卓 邪馬台国と稲荷山刀銘
12 宗像郡津屋崎 笠井新也

宇美説
宇美説は「フミ」と「ウミ」の呼称が類似していることが理由であるが、有力な集落遺跡や王墓は少ないが、宇美町の光正寺古墳は王墓の可能性があるが、盗掘が激しいため、位置づけが難しい。しかし高坏、管玉、内光花文鏡、土師器、鉄器、壺が出土している。 西谷正(2009)によれば宇美地方説では律令時代の粕屋郡が該当するが、国邑に比定できる大規模な拠点集落の遺跡は未発見とされる。

嘉穂説
穂波説は遠賀川中流域の穂波郡穂波郷(現飯塚市)である。江辻遺跡は福岡県糟屋郡粕屋町にある縄文時代から平安時代までの複合遺跡である。大型掘立柱建物が見つかっており、さらに銅剣、銅矛、鉄剣、銅弋が出土している。 古賀市の馬渡・束ヶ浦遺跡からは初期の青銅製武器の3点セットとして銅剣、銅矛、銅弋が出土している。旧粕屋郡全体の地域リーダーとの説がある(西谷正(2009))。また香住ヶ古墳からは三角縁神獣鏡が出s土している。二神二獣鏡の優れた作品とされる。本作と同伴の鏡は奈県桜井市からも出ている。王塚古墳は戸塚王塚古墳とも言われるが、粕谷地域にある前方後円墳である。 西谷正(2014)によれば比較的有力な比定地は立岩遺跡のある嘉穂地方説とされる。立岩遺跡では甕棺墓から前漢鏡6面、銅矛1本、鉄鉾を副葬しており、王墓にふさわしい。 糟屋地域では香住ヶ丘古墳をはじめ、3か所の古墳で三角縁神獣鏡を出土しているなど重要な位置にあった。

参考文献
+西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
+西谷正(2014)『卑弥呼の正体』小学館 +鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA +石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店 +新井白石(1906)「古史通或問」『新井白石全集 第三巻』国書刊行会 +菅政友(1907)「漢籍倭人考」『菅政友全集』国書刊行会