Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

松林山古墳2023年11月25日 01:07

松林山古墳(しょうりんざんこふんふん)は静岡県磐田市にある前方後円墳である。

概要

東海地方を代表する前期古墳である。磐田原台地の東南部の縁、御厨古墳群の最大規模の古墳である。御厨古墳群では松林山古墳、稲荷山古墳、秋葉山古墳、高根山古墳、御厨堂山古墳の5基が国の史跡に指定されている。前方部の一部が削平されている。墳丘の外側に周濠が巡る。

調査

昭和6年の発掘調査で、「卑弥呼の鏡」ともいわれる、三角縁神獣鏡、中国製の内行花文鏡などが発掘され、ヤマト王権との密接な関係が示された。内部主体は後円部の地下約3mに天井石の面を置く、割石小口積みの竪穴式石室である。主体部の主軸は、古墳の長軸と直交している。石室の天井石の上に20cmの厚さに粘土がおおっていた。石室の大きさは内法で長さ7.9m、幅は南端で0.05m、北端で1.3m、天井の高さは1.6mである。現在は埋め戻されており見学不可である。未盗掘状態で発掘調査がなされたことによって、多数の副葬品が出土し、前期大型古墳の副葬品の組み合わせが明らかとなった点で重要視されている。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段、後円部:2段
  • 墳長 116m
  • 後円部 径65m 高10.8m
  • 外表施設
    • 円筒埴輪 円筒
    • 葺石 あり(10~20cmの丸礫)
  • 主体部
    • 室・槨 竪穴式石槨

出土品

  • 【鏡】中国:内行花文鏡1・二神二獣鏡1、ボウ製:内行花文鏡1・四獣鏡1。
  • 【玉類】碧玉:勾玉2・管玉50。
  • 【装身具】釧:貝2(水字貝)、その他装身具:巴形銅器、石製腕飾類:碧玉製石釧2。-【石製模造品】琴柱形:碧玉製(全長7.7cm)。
  • 【武器・刀剣類】鉄剣:①2②10、鉄刀:②大刀2・直刀片、鉄鉾:②12。
  • 【武器・鏃】銅鏃:80。【武具】革綴短甲 1。
  • 【農工具】農具:鎌、工具:?・鑿・斧。

指定

  • 2001年(平成13年)3月26日、国の史跡に指定

所在地等

  • 名称: 松林山古墳
  • 年代: 四世紀代
  • 被葬者: 太田川流域に基盤をもっていた首長の墓と考えられる(
  • 所在地:静岡県磐田市新貝
  • 交通: 東海旅客鉄道東海道本線 御厨駅から徒歩7分

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社

心合寺山古墳2023年11月23日 23:23

心合寺山古墳(しおんじやまこふん)は古墳時代中期に造られた中河内では最大の前方後円墳である。

概要

平成13年から平成17年にかけて整備工事を行い、発掘調査でわかったことを元に、墳丘や埴輪列を復元史跡公園として整備され、墳丘の平坦部には円筒埴輪(レプリカ)が並べて立てられる。 出土した副葬品等は、古墳の脇にある八尾市立しおんじやま古墳学習館で展示する。 埋葬施設は、後円部に3つの「粘土槨(ねんどかく)」、前方部の「方形壇(ほうけいだん)」の下に木棺がありました。後円部の粘土槨のひとつである西槨から、甲冑、鳳鏡、刀剣類などの副葬品が出土する。生駒山地の麓に等高線に沿うように築かれて、周濠は南側と北側の2か所で堤を造って区切られているため、その東西で水位の異なる珍しいつくりである。

調査

埴輪列は中段の葺石裾から3.5m外側に位置する。合計24本の円筒埴輪、普通円筒埴輪10本、大型円筒埴輪1本の配列で並べられ、その列の外側に盾型埴輪1本が立ててあった。この盾形埴輪は、樹立した状態で出土したもので、線刻模様のある盾の面を外側に向けている。大型前方後円墳の埴輪列の原位置での出土例は全国的にもなく、埴輪の配列を考える上で、貴重な資料となる。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段、後円部:2段
  • 墳長 140m
  • 後円部 径47m 高11.1m
  • 前方部 幅70m 長76m 高10.3m
  • 外表施設
  • 埴輪
    • 草摺
    • 壺形
    • 葺石 あり

主体部

  • 棺 長持形石棺(縄掛突起採集)

出土品

  • 鉄斧 後円部で採集
  • 青銅鏡 鳥の模様で飾られた
  • 甲冑、
  • 大刀、
  • 勾玉

指定

  • 昭和41年2月25日 国指定文化財

所在地等

  • 名称: 心合寺山古
  • 年代: 5世紀後半(古墳時代中期)
  • 被葬者: 地域一帯を治めた豪族の墓
  • 所在地:大阪府八尾市大竹5丁目143-2
  • 交通: 近鉄「服部川」駅から徒歩約20分/近鉄バス「大竹」から徒歩約5分

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社

角塚古墳2023年11月14日 22:39

角塚古墳(つのづかこふん)は岩手県胆沢郡胆沢町に所在する前方後円墳である。

概要

岩手県では唯一の前方後円墳である。日本の最北端に位置する前方後円墳となる。 北上川の中流域、北上盆地のやや南寄りで、西から合流する胆沢[いさわ]川が形成した扇状地に、角塚古墳が築かれた。古墳は、前方部が短く狭い特色ある形態をとっており、周濠、埴輪等の状況からみて6世紀の前半に属するものと考えられている。 1940年代に後円部東南隅を畑地とするため削平された。1940年代後半は前方部に教員住宅が建築された(前方部の旧状は不明)。

調査

昭和10年代より地元の研究者が埴輪の出土に注目しており、昭和20年代には広く学会に紹介された。圃場整備事業が計画されたため、胆沢町教育委員会が昭和49、50年の2年次にわたり調査を実施し、その輪郭を公表した。埋葬施設は墳頂部の平面下に設けられたと推測されるが、これまでに手がかりはない。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段?、後円部:3段
  • 墳長 46m
  • 後円部 径30.4m 高4.9m
  • 前方部 幅20.4m 長14.1m 

出土品

出土品は、胆沢郷土資料館(胆沢文化創造センター内)に展示される。

  • 出土埴輪は県文化財(角塚古墳出土埴輪)
    • 円筒埴輪 - 円筒・朝顔形(?)Ⅴ式 形象埴輪
    • 蓋、
    • 馬・
    • 水鳥
  • 女子
  • 細美豆良人物
  • 椅子 家
  • 葺石 あり

指定

  • 1985年 国指定史跡

所在地等

  • 名称: 角塚古墳
  • 年代: 6世紀前半
  • 被葬者: 在地か他所から来たか不明であるが、一帯を支配した有力者である。
  • 所在地:岩手県奥州市胆沢区南都田字塚田
  • 交通: JR水沢駅 徒歩1時間8分。4.8km/JR水沢駅から車で約15分

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社

キトラ古墳2023年11月12日 08:06

キトラ古墳(きとらこふん)は日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳である。

概要

二段築成の円墳である。円墳としてはそれほど大きなものではない。石室の天井には本格的天文図、壁には四神や十二支の美しい絵が描かれる。

調査

1983年11月7日、石室内の彩色壁画のひとつである四神の一つの玄武が発見されて、社会や学会から注目された。

壁画

キトラ古墳壁画は、石室内部に塗った漆喰の上に繊細な筆づかいで描かれたもので、本格的な天文図や、四神像の全て、動物の頭と人間の体をもった十二支像などが確認されている。学術上、価値の高い文化財である。高松塚古墳では、盗掘により南壁の朱雀が失われていたため、我が国で四神の図像が全て揃うのはキトラ古墳壁画のみである。盗掘者は副葬品をすべて持ち出し、さらに天文図の中央に描かれた太陽の金箔まで剥がしていた。当初はキトラ古墳には壁面の四神(東の青竜・南の朱雀・西の白虎・北の玄武) / 十二支図と天井の天文図しか残っていないと考えられていた。

規模

  • 形状 円墳
  • 直径 - 上段9.4m、テラス状の下段 13.8m
  • 高さ - 3.3m 上段高2.4 m 下段 0.9m

出土品

被葬者が納められていた木棺の部材や飾金具、副葬品である刀装具、玉類などが出土した。木棺は漆塗りで、金銅製鐶座金具、金銅製六花形飾金具、銀環付金銅製六花形飾金具などの飾金具が取り付けられていた。大刀に関連するものとして金線で直線とS字文を象嵌した鉄地銀張金象嵌帯執金具や、刀装具、刀身の断片がある。銀装の大刀は全面を黒漆で仕上げたもので、正倉院の大刀にも匹敵する優美なものであった。玉類では琥珀玉やガラス小玉、径1㎜ほどのガラス粒がある。

  • 金銅製鐶座金具 飛鳥時代 7~8世紀
  • 金銅製六花形飾金具
  • 漆塗木棺片
    • 石室に納められていた木棺の破片である。ヒノキ材の上に黒漆を塗り、さらにその上に水銀朱を塗布する。
  • 銀製鞘尻金具 刀身 銀製鞘口金具
    • 大刀の鞘金具と刀身部分の破片である。刀身の表面には木鞘の木質が残り、その一部に黒漆が付着する。
  • ガラス小玉
    • 直径4㎜前後の小形のガラス玉で、20点出土する。色調は淡青色、黄色、青紺色、淡緑色の4種類である。
  • 銀鐶付六花形飾金具
  • 琥珀玉
    • ほぼ球形に研磨された琥珀製の玉で、直径1㎝ほどのものが4点、直径1.5㎝ほどのものが2点、計6点が出土する。
  • 銀装把
  • 土師器小皿
    • 盗掘時に灯明皿として使用されたものとみられる。キトラ古墳の盗掘時期は、鎌倉時代と考えられる。

築造時期

  • 7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測される。
    • 理由は壁画に唐の影響が高松塚古墳ほどは顕著ではないことである。遣唐使が日本に帰国した704年以前の築造と見られる。

被葬者

  • 天武天皇の皇子の高市皇子(43歳没)、刑部皇子(40歳台没)、高官であった百済王昌成、右大臣の阿部御主人(69歳没)など、いろいろな人物が推定されている。金や銀を使った副葬品や豪華な装飾をほどこしたと推測できる木棺などから、かなり身分の高い人物が想定されている。石室内からは被葬者の人骨と歯牙が発見され、分析により50~60歳代の男性1体分と判明した。年齢では阿部御主人が有利である。
  • 2014年のNHK BS放送では猪熊兼勝名誉教授説と白石太一郎教授説が紹介された。はキトラ古墳は高松塚古墳の約2分の1の大きさである。大きいほうがより高い身分を表しているとすれば、キトラの被葬者は高松塚の被葬者より身分は下の位置と窺われる。 すると皇族の高市皇子より豪族の阿倍御主人のほうが納得しやすい。

猪熊兼勝名誉教授説

猪熊は国立奈良文化財研究所の研究者として長年にわたり奈良の古墳を研究してきた人物で、1998年のキトラ古墳調査団の団長も務めた。その推定理由は3つである。

  • 1 聖なるゾーン
    • 藤原京の南の一定の方角、すなわち「聖なるゾーン」に皇族の墓が並んでいる。猪熊説では「聖なるゾーン」に位置する皇族の古墳を藤原宮から順に天武持統陵、文武陵、刑部皇子陵、河嶋皇子陵、草壁皇子陵、そしてキトラ古墳をつなげると一つの記号が浮かび上がると猪熊氏はいう。その記号とはまさしく北斗七星のかたちだと指摘する。
  • 2 天皇中心の世界観
    • 天文図の神々は皇室の礼服に限って使われており、天井の天文図の表現を猪熊氏は天皇中心の世界観とする。
  • 3 壬申の乱の皇子
    • キトラ古墳天文図のほぼ中心に描かれた北斗七星の六星に「吉野の盟約」に賛同した六皇子(草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子)が相当する。

白石太一郎教授説

白石太一郎は、被葬者は豪族で右大臣の阿倍御主人と推定している。岸俊男なども賛同する。 推定理由は次の通りである。

  • 1 所在地の名称「大字・阿部山」
    • キトラ古墳のある付近は「阿部山」という大字であり(直近のバス停も「阿部山」)、阿部山の地名が阿倍氏を被葬者と示唆する(阿倍氏が眠っている小山のような墳墓なので「阿部山」と言い習わされてきた)。
  • 2 陰陽道とのつながり
    • 安倍清明の先祖とされる右大臣・阿倍御主人は星座などに精通している陰陽道の元祖である。 キトラから東へ6キロほどに安倍文殊院がある。ここは阿倍氏の氏寺であるが、平安時代にこの寺で生まれたのが安倍晴明である。そしてその陰陽道の祖が阿倍御主人で、彼は陰陽道を司る立場にあったと指摘する。
  • 3 海外事情への精通
    • 阿倍御主人は、竹取物語のかぐや姫に求められた「火鼠の皮衣」を唐人・王慶に依頼して入手するなど、キトラ古墳と類似の古墳が存在する海外の事情に精通していた。キトラ古墳の四神図・十二支図は中国文化を凝縮したものであるだけでなく、その天文図の緯度はキトラより北の北緯37.6度で百済の都などの緯度に相当している。
  • 4 火葬でないこと
    • キトラ古墳に棺が置かれていたことが明らかになっている一方で、自らの考えで703年に火葬に付された持統天皇の太政大臣であった高市皇子は696年に火葬に付されていたとすればキトラ古墳の被葬者ではありえない。
  • 5横穴式石室
    •  豪族・安倍(阿倍)氏は、阿倍内麻呂(安倍倉梯麻呂)の墓に比定される安倍文殊院西古墳のような精緻な伝統的横穴式石室を作っていた。
  • 6 天文図の表現
    • 天文図は古代中国思想の表現と解釈できる。海外事情に詳しい阿倍御主人がふさわしい。

指定

  • 平成12年、特別史跡に指定
  • 平成30年、重要文化財に指定
  • 令和元年、壁画5面が国宝に指定

アクセス等

  • 所在地:奈良県高市郡明日香村阿部山67
  • 交通: 近鉄吉野線 壺阪山駅より徒歩15分

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
  3. NHK BS放送「飛鳥の大宇宙~キトラに眠るのは誰だ」2014年11月20日(木) 午前08:00 - 午前08:59

佐良山古墳群2023年10月30日 23:14

佐良山古墳群(さらやまこふんぐん)は、岡山県津山市佐良山地区にある170基以上の古墳の総称である。

概要

岡山県北部の津山盆地の南西部に佐良山古墳群は位置する。

調査

近藤義郎による古墳時代後期の墓制、家父長制社会の研究の原点として知られる。昭和26年の最初の調査以降、2023年までに28基が発掘された。平成30年から令和2年にかけて津山南道路の工事に伴い、佐良山古墳の支群である桑山古墳群の13基を発掘した。

桑山古墳群

桑山古墳群は桑山古墳群の1号墳から5号墳、桑山南古墳群の1号から3号、5号墳、細畝古墳群の1から3号墳、高尾北ヤシキ古墳で構成される。円墳5基と箱式石棺墓1基、土器棺墓1基がある。桑山1・2号墳は岡山県北部で最古級の横穴式石室である。 桑山南古墳群は円墳5基と箱式石棺墓2基、土坑墓4基で構成される。桑山南1号墳の横穴式石室には陶棺2基が据えられていた。石室の入り口付近の石材近くから鈴付高杯が出土した。祭司や葬送儀礼に使われた可能性がある。細畝古墳群は円墳3基、箱式石棺墓2基で構成される。細畝1号墳からは美作地域で最古段階の陶棺、細畝3号墳からは県内で3例目の特殊扁壺が出土した。

  • 桑山1号墳 導入期の片袖式横穴式石室である。桑山1号墳は、径約19 mの円墳である。周溝からは須恵器、円筒埴輪、石見型埴輪が出土した。周溝の北西側には土橋状に掘り残した部分が認められた。埋葬施設は南西に開口する全長6.3 mの片袖式の横穴式石室で、閉塞は板石閉塞である。石室内は攪乱を受けていたが、須恵器、大刀、石突、鉄鏃、馬具、玉類が出土した。板石閉塞。大型提瓶、把手付高杯が出土。
    • 須恵器
    • 大刀
    • 石突
    • 鉄鏃
    • 馬具
    • 玉類
    • 円筒埴輪
    • 石見型埴輪
  • 桑山2号墳 導入期の両袖式横穴式石室。桑山2号墳は、径約13 mの円墳である。周溝からは円筒埴輪、石見型埴輪が出土した。埋葬施設は南西に開口する全長3.68 mの両袖式の横穴式石室で、塊石と板石を用いて閉塞していた。石室は大きく攪乱を受けていたが、床面の礫床は良好に遺存しており、その上から須恵器、素環頭大刀、鉄鏃、馬具、刀子、耳環が出土した。
    • 須恵器
    • 素環頭大刀
    • 鉄鏃
    • 馬具
    • 刀子
    • 耳環
    • 円筒埴輪
    • 石見型埴輪
  • 桑山3号墳
    • 直径約10mの円墳で、横穴式石室をもつ1・2号墳より斜面のやや上方に位置している。埋葬施設は箱式石棺と木棺の二つが検出された。土層の観察墳丘を構築する初期段階で箱式石棺が、墳丘の完成後に木棺が埋葬されたことが分かっている。箱式石棺は、長さ約95cm、幅約30cmと小ぶりあり、棺内からは約50個の多様な玉を連ねた首飾りを着けた3~4歳前後の小児人骨が出土した。その脇には鹿角製の把を装着した鉄刀が二振り、足下には19本の鉄鏃が置かれていた。岡山県内全体をみても、子どもの埋葬でこれほど多量の武器類をもつ例は少なく貴重である。  木棺は長さ約3.2m以上、幅約1.2m以上の穴のに納められ、棺の長さは約2mと推定される。棺の大きさからこちらは大人の埋葬と思われる。箱式石棺とは異なり遺物は全く出土しない。
    • 土師器
    • 須恵器
    • 鹿角装短刀
    • 鉄鏃
    • 刀子
    • 玉類
    • 円筒埴輪
    • 人骨
  • 桑山4号墳 桑山4号墳は、径約10 mの円墳である。周溝の北西側には土橋状に掘り残した部分が認められた。埋葬施設は2基の竪穴式石室である。どちらの石室も天井石は失われていたが、床面は良好な状態であった。竪穴式石室1では木棺痕跡と棺台が認められ、須恵器、土師器、刀子、玉類が出土した。竪穴式石室2では礫床の上から須恵器、大刀、鉄鏃、刀子が出土した。
    • 土師器
    • 須恵器
    • 大刀
    • 鉄鏃
    • 刀子
    • 玉類
  • 桑山5号墳 桑山5号墳は、径約10.5 mの円墳であると考えられる。周溝からは円筒埴輪、朝顔形埴輪が出土した。周溝の北西側には土橋状に掘り残した部分が認められた。埋葬施設は南西に開口する全長約7.0 mの片袖式の横穴式石室である。天井石は失われていたが、床面は良好に遺存していた。石室内からは、装飾壺や鈴付高杯などを含む多量の須恵器、土師器、大刀、鉄鏃、馬具、刀子、釘、玉類などが出土した。
    • 土師器
    • 須恵器
    • 大刀
    • 鉄鏃
    • 弓飾金具(両頭金具)
    • 馬具
    • 刀子
    • 玉類
    • 円筒埴輪
    • 朝顔形埴輪
  • 桑山南1号墳 1号墳は径約14 m、残存高約3mの円墳で、南東に開口する全長約6.5 m、高さ約1.7 mの横穴式石室をもつ。片袖式の横穴式石室には、棺として陶棺2基が埋葬されていた。副葬品には多数の土器、武器、馬具、工具、装身具などがある。6世紀末頃に築造され、7世紀の中葉頃まで追葬している。 銀象嵌装大刀は陶棺内から、鈴付高杯は石室床面から出土した。
    • 須恵器
    • 土師器
    • 大刀
    • 鉄鏃
    • 馬具
    • 弓飾金具
    • 刀子
    • 耳環
    • 玉類
    • 陶棺
  • 桑山南2号墳 2号墳は6世紀中葉頃に築造された径8~9mの円墳で、全長約2.1 m、幅約0.5 mの竪穴式石室をもつ。石室内は一部攪乱を受けていたものの、原位置を保つと考えられる遺物が出土した。石室内から鉄鐸出土。墳丘上から子持器台が出土。
    • 須恵器
    • 鉄鏃
    • 弓飾金具
    • 鉄鐸
    • 玉類
  • 桑山南3号墳 3号墳は、7世紀前半から中葉頃に築造された径約12 m、残存高約4.5 mの円墳である。東に開口する無袖式の横穴式石室の規模は、全長約6.3 m、高さ約1.6 mを測る。棺には陶棺、「箱式石棺」と想定される仕切石のほか、木棺が想定される。 棺は陶棺2基、「箱式石棺」1基、木棺1基。石室内から鉄鐸・子持器台出土。
    • 須恵器
    • 土師器
    • 大刀
    • 鉄鏃
    • 馬具
    • 刀子
    • 鉄釘
    • 鉄鐸
    • 耳環
    • 玉類
    • 陶棺
  • 桑山南4号墳 4号墳は、調査区内に明確な墳端や周溝が確認されなかった。
  • 桑山南5号墳 5号墳は径約9m、残存高約2mの円墳で、6世紀中葉頃に築造された。埋葬主体は竪穴式石室で、攪乱により天井石や壁体の約半分が失われたていたものの、その規模は全長約2.2 m、幅約0.7 mである。礫敷である床面から人骨が出土した。  2・5号墳とほぼ同時期の箱式石棺墓2基と土坑墓4基が検出されたほか、中世の土坑墓が10 基確認された。
    • 須恵器
    • 鉄鏃
    • 刀子
    • 人骨
  • 細畝1号墳 1号墳は南に開口する横穴式石室をもつ径10.5 m、残存高約2mの円墳である。石室は無袖式で、その規模は全長約6.5 m、高さ約1.9 mを測る。棺には陶棺1基と箱式石棺がある。6世紀末葉頃築造され、7世紀中葉頃まで追葬している。
    • 須恵器
    • 土師器
    • 鉄鏃
    • 刀子
    • 耳環
    • 玉類
    • 陶棺
  • 細畝2号墳 2号墳は径約9m、残存高約2mの円墳で、北東に開口する横穴式石室がある。石室は無袖式で、その規模は全長6.05 m、残存高約1.25 mである。棺には木棺と陶棺があるが、陶棺についてはその出土状況から棺として利用していたのかは明らかでない。7世紀前葉頃に築造され、7世紀前半から中葉頃まで追葬が行われた。
    • 須恵器
    • 鉄鏃
    • 鑷子状鉄製品
    • 刀子
    • 鉄釘
    • 玉類
    • 陶棺
  • 細畝3号墳 3号墳は径約13 m、残存高約2mの円墳で、大規模に破壊された片袖式の横穴式石室をもつ。土器や金属器、玉類など多数の遺物が出土した。6世紀後半頃に築造され、7世紀中葉頃まで追葬が行われていた。  1号墳に先行する箱式石棺墓1基や時期不明の箱式石棺墓が検出されている。
    • 須恵器
    • 土師器
    • 大刀
    • 鉄鏃
    • 馬具
    • 刀子
    • 耳環
    • 玉類
    • 特殊扁壺

近藤義郎による群衆墓の出現理論

  • 古墳時代後期になると製塩、製鉄、農業の生産力が向上し家族の経済力が高まる
  • 家族は家父長制を基盤として豪族から自立する
  • 大和政権はこれを歓迎し家父長が古墳を作ることを容認する。それまでの貴族や豪族に加え、有力農民も古墳を築くようになったことを示す遺跡とされている。

新発見

2023年9月9日、岡山県古代吉備文化財センターは古墳時代後期とみられる小型古墳と住居跡を発見したと発表した。古墳は直径約10mの円墳で、墳頂部の竪穴式石室1基(長さ188cm、幅30~50cm)に、須恵器のふたと刀子とみられる鉄器が各1点出土した。

指定

アクセス

  • 名称:佐良山古墳群
  • 年代: 古墳時代後期から飛鳥時代
  • 所在地:岡山県津山市高尾1582
  • 交 通: JR佐良山駅(同市高尾)から北に1・2キロ

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 津山市(1952)『佐良山古墳群の研究』
  3. 近藤義郎(1983)『前方後円墳の時代』岩波書店
  4. 佐良山古墳群 新たに古墳と住居跡、山陽新聞、2023年09月09日

蘇我稲目2023年10月24日 23:57

蘇我稲目(そがのいなめ、? - 570年)は古墳時代の豪族で中央の政治家である。

概要

大和国高市郡曾我(現、奈良県橿原市曽我町)を本拠とする豪族であったとする説がある(通説)。ほかに大和国葛上郡(御所市一帯)に比定する説、河内国石川郡(大阪府富田林市東半・南河内郡一帯)を本願地に比定する説がある。 蘇我稲目は葛城氏の女性を妻に迎え、後継者に馬子を得た。 稲目は、欽明大王の命により吉備に派遣され、白猪屯倉や児嶋屯倉などの設置・管理にあたった。娘を欽明・用明の妃とした。

仏教伝来

仏教伝来では崇仏派の代表として、大連の物部尾輿と連の中臣鎌子と争う。自邸を向原寺と称した。 百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。天皇は仏像を礼拝するの可否を群臣に求めると、蘇我稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背けるだろうか」と述べる。反対派の物部尾輿と連の中臣鎌子は「蕃神を礼拝すると国神の怒りをまねく」と反対した。

韓国出自説

蘇我氏は朝鮮半島の百済から渡来したのではないかという仮説がなされる。蘇我氏の祖先系譜では蘇我石川宿祢に続く3代の名前が満智・韓子・高麗と、朝鮮三国に関わり名であったことを理由とする。高麗の子が稲目とされる。しかし満智に始まる3代は系譜上で加えられた架空の人物とする説がある。蘇我石川宿祢から高麗までの4代の系譜は、河内国石川地域を本拠とした蘇我倉氏(後の石川氏)が作り出した祖先系譜との説がある。

大臣就任

大臣には宣化2年2月に就任したとされる。

日本書紀 巻第十八 宣化天皇

  • (原文 二年二月)又以蘇我稻目宿禰爲大臣、阿倍大麻呂臣爲大夫。
  • (大意)蘇我稲目を大臣とし、阿倍麻呂を大夫とした。稲目の記事の初見である。
  • (原文 二年五月)蘇我大臣稻目宿禰、宜遣尾張連、運尾張國屯倉之穀。
  • (大意)蘇我稲目は尾張連を派遣し、尾張の屯倉の穀を運ばせよと(大王は)勅した。

日本書紀 巻第十九八 欽明天皇

  • (原文 二年十二月二月)尊皇后曰皇太后、大伴金村大連・物部尾輿大連爲大連、及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣、並如故。

参考文献

  • 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  • 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店

太子塚古墳2023年10月15日 01:49

太子塚古墳(たいしづかこふん)は群馬県高崎市箕郷和田山地区に所在した古墳時代中期末(5世紀末)築造、全長24mの帆立貝式古墳である。

概要

榛名山東南の麓の山麓にある丘陵の先端にある5世紀末の古墳である。墳丘が残存せず、調査により直径20mの後円部と幅11mの後円部を持つ帆立貝式古墳と判明した。 古墳の大きさに対して、埴輪の数が極めて多い。

規模

遺構

遺物

  • 馬形埴輪
  • 鹿形埴輪
  • 盾持人埴輪
  • 弾琴男男子埴輪
  • 戟をもつ盾持人埴輪
  • 矢が刺さったシカの埴輪
  • 円筒埴輪

被葬者

築造

5世紀末

指定

  • 名称: 太子塚古墳
  • 所在地: 群馬県高崎市箕郷和田山地区
  • 交通:

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社