修羅 ― 2024年01月12日 00:02

修羅(しゅら)は巨石や巨木などの重量物を運ぶための木製のそりである。
概要
1978年(昭和53年)、大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳の周濠の底から大小二点の修羅と梃子棒が出土した。出土の事実は同年4月5日であったが、修羅発見の報道は考古学上の大発見として評判となり注目を集めた。4月15日(土)の現地説明会には、全国から12000人の見学者が集まった。大は長さ8.8m、小は2.9mである。出土した修羅は元興寺文化財研究所で14年間に及ぶポリエチレングリコール含浸法による保存処理が行われ、大型修羅と梃子棒は「大阪府立近つ飛鳥博物館に展示されている。小型修羅は藤井寺市立図書館の展示室に展示されている、大小二点ともV字形の二股橇状である。梃子棒は修羅を引く時に方向転換などのために用いたと推測される。松面古墳の修羅は古墳時代で2例目である。
材料
修羅(大)は全長8.8メートルという大型品で、アカガシの巨木の二股部分を利用して一木で造り出し、全体を丁寧に加工する。頭部と脚部には孔をあけ、修羅を引く綱を通したと考えられる。修羅(小)はクヌギの二股部分を利用しており、小型で加工は粗い。梃子棒はアカガシ製の丸木の棒である。
牽引実験
1978年(昭和53年)、朝日新聞社は厚生文化事業として修羅の復元に取り組み、それを使った牽引実験を行った。修羅は徳之島のカシの大木を使い、高知市の打刃物師が作った斧の一種のヨキを使って削り、発掘した修羅に近い形状とし、全体の形や綱を通す穴も実物と同じにした。牽引実験は、重量物運送会社や庭園材料会社が協力し、藤井寺市の東部を流れる大和川の河川敷で同年9月3日に行われ。多くの市民や中学生、自衛隊員など約400人が牽引の人手として協力し、14トンもある花崗岩を乗せて綱で曳く牽引実験が何通りも行われた。復元された修羅は、後に藤井寺市に寄贈され、現在は道明寺天満宮の境内に保管展示される。
出土例
- 修羅 - 三ツ塚古墳、大阪府藤井寺市、5世紀頃
- 修羅神 - 松面古墳、千葉県木更津市、古墳時代
参考文献
- 「古墳時代のそり、千葉にも 土木運搬「修羅」、大阪に続き2例目」朝日新聞、2019年5月4日
- 朝日新聞社 (1979)『修羅―発掘から復元まで』朝日新聞社
蘇我満智 ― 2024年01月11日 18:15
蘇我満智(そがの まち)は古墳時代の豪族である。 『古語拾遺』、『尊卑分脈』では「蘇我麻智」と表記される。
概要
日本書紀は蘇我氏の出自を伝えないが、『公卿補任』に「満智-韓子-高麗-稲目」の系譜を記す。また『尊卑分脈』は「彦太忍信命(孝元天皇の皇子)-屋主忍男武雄心命-武内宿禰-石川宿禰-蘇我麻智宿禰」の系譜を伝える。 両文献を合わせれば、「彦太忍信命-屋主忍男武雄心命-武内宿禰-石川宿禰-蘇我麻智-蘇我韓子-蘇我高麗-蘇我稲目」の系譜となる。もちろん、すべて正しいという保証はない。 太田亮(1942)はここから蘇我氏の系譜は武内宿繭を祖とするとした。
財政官
『古語拾遺』に「諸国貢朝年々盈ち溢れ、更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校せしめた」と書かれる。
蘇我満智は財政管理にたけていたため、朝廷において財務管理を行っていた可能性が想定されている。蘇我氏はこの時期から、朝廷で重要な地位を占め、帰化人を配下として、財政権を握ったと理解されている(阿部武彦(1964))。
古事記の記載
古事記には「蘇我石川宿禰は蘇我臣・川辺臣・由中医・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣等の祖先である」と書かれる。この意味を、阿部武彦(1964)は蘇我一族が分化してそれぞれの氏を称したと解釈している。蘇我氏から分れた氏族が朝廷の重臣として存在したことが権力掌握の源のひとつになったと主張する。そのほか帰化人を配下にして勢力を伸長したことについては関晃氏の研究から、是認できるものとされている。
渡来人説
蘇我満智を百済の権臣「木満致」と同一人とし、蘇我氏の出自を渡来人とする説がある。渡来人説を唱えるのは、奈良県文化財保存課の坂靖課長補佐(当時)である。「蘇我氏の出自を考古学的に検証すると、飛鳥の開発を主導した渡来人にたどりつく」とし、出身地を朝鮮半島南西部の全羅道地域との説を唱える。
日本書紀
- (原文)二年春正月丙午朔己酉、立瑞齒別皇子爲儲君。冬十月、都於磐余。當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓圓、此云豆夫羅大使主、共執國事。十一月、作磐余池。
- (大意)履中二年(401年)、磐余に宮廷を作り、蘇我満智は平群木菟、物部伊?弗、葛城円とともに政務をとった。
古事記
- (原文)蘇我石川宿禰は蘇我臣・川辺臣・由中医・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣等之祖也。
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 斎部広成、西宮一民(1985)『古語拾遺』岩波書店
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 坂靖(2018)『蘇我氏の古代学』新泉社
- 阿部武彦(1964)「蘇我氏とその同族についての一考察」北海道大学文学部紀要12,pp.123-135.
中依知遺跡群 ― 2023年12月24日 22:09

中依知遺跡群(なかえちいせきぐん)は神奈川県厚木市に所在する縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良・平安時代の複合遺跡である。
概要
中依知遺跡群は相模川と中津川に挟まれた中津原台地上と中津川に面する西側斜面に展開する遺跡群である。縄文時代の調査では、陥穴状土坑が発見され、狩猟場など当該期の土地利用の様子がみえる。古墳時代では、第1次調査で発見された2号から4号横穴墓の墓道の続きが発見され、その規模が推定できた。奈良・平安時代の調査では、第1次調査で発見された伝道と考えられる長大な道路状遺構の続きが捉えられ、更に西方へと延びていた。中世以降の調査では、低位段丘の東側台地上に5基の地下式坑が発見され、第1次調査で発見された地下式坑群の一部を成していた。また、地下式坑群の南西側に、同時期と考えられる土壙墓群の存在がほぼ明確となった。
調査
さがみ縦貫道路(国道 468 号線)・厚木秦野道路(国道 246 号線)の建設に伴う調査で、平成 13 年6月より行っている。平成 14 年度は約 15,000 ㎡の調査を行った。
古墳
第1~第3号墳と新たに第4・5号墳の調査を行った。調査を行った古墳はいずれも径 16~22mほどの円墳で古墳の中心に横穴式石室と呼ばれる埋葬施設を持つ。1~3号墳の石室から、鉄刀や鉄鏃などの武器類、ガラス玉・管玉・切子玉・勾玉や金銅製の耳環などの装身具、人骨片が発見された。
- 1号墳 周溝がある。第1号墳の周溝からは、珍しい把手付の土師器の壺が発見された。 石室の幅は90cmで部屋は天井まで1.4mと推定される。
- 3号墳 第3号墳からは、馬具の一部である飾金具や鉸具が出土した。管玉、水晶玉、鉄刀が見つかった。
- 4号墳 第4号墳からは、鉄刀・鉄鏃・人骨などが発見された。
横穴墓
国道 129 号線に近い傾斜面では、横穴墓と呼ばれる崖面を掘って造られる、古墳の横穴式石室に類似した施設が10基発見された。平面は馬蹄形である。入り口が狭く、奥壁が最も広い。玄室の床面積は8平米から12平米である。玄室の奥よりに棺座石を並べて区画する。 3号、6号では礫床の下に排水口が作られる。
- 第1号横穴墓 現在の市道 204 号線下に続いており、内部は道路建設時に破壊されていたが、開口部と開口の前面の前庭部と呼ばれる部分の調査を行った。7世紀の坏、鉄族や鉄刀が出土した。
- 第3号横穴墓 玄室奥壁はアーチ状で、高さ約1.7m、幅約2.5m。鉄鏃と玉類が出土した。
- 第4号横穴墓 人骨が3体以上検出された。埋葬された人が身につけていたガラス小玉が見つかる。鉄鏃と刀子が出土した。
- 第6号横穴墓 墓前域は3面を石積で覆われていた。入り口横にフラスコ型の壺が置かれていた。
- 第7号横穴墓
指定
アクセス等
- 名称:中依知遺跡群
- 所在地:神奈川県厚木市中依知天神
- 交通:東日本旅客鉄道相模線入谷駅から4km
参考文献
室宮山古墳 ― 2023年12月24日 15:20
室宮山古墳(むろみややまこふん)は奈良県御所市室にある古代の前方後円墳である。「室の大墓」と呼ばれる。
概要
奈良県御所市室の平野部に西向きに所在する。墳丘長238mの前方後円墳。奈良盆地西南部地域(葛城地域)において最大の規模である。大王墳に匹敵する規模・内容をもつ。葛城襲津彦の墓ともいわれ、三段築成の巨大な墳丘に葛城氏の勢力がしのばれる。 墳丘は3段築成で、外部施設として葺石、埴輪列の存在が確認されている。円筒・朝顔形Ⅲ式埴輪、形象埴輪靱・楯・短甲(三角板角綴形)・草摺・衣蓋、切妻造・四柱造、異形直弧文を線刻する埴輪が出土する。後円部墳頂に南北2つの埋葬施設がある。南側の埋葬施設は竜山石製の長持形石棺を内蔵する竪穴式石室で、激しい盗掘にあっていたが、銅鏡片、滑石製・碧玉製の玉類や滑石製模造品、琴柱形石製品などが出土した。竪穴式石室の天井石の上面に、直弧文を施した朱塗方形の柱の上に、鰹魚木をのせた入母屋造の屋根をのせた大型家形埴輪(高さ121㎝)と高坏(たかつき)形埴輪が樹立されていた。竪穴式石室を方形に取り囲む埴輪列では冑と盾を組み合わせた埴輪、盾形、靫形、草摺形埴輪が表面を外側に向けて配置されていた。 北側の埋葬施設の発掘調査は実施されていないが、竪穴式石室の天井石が露出している。朝鮮半島南部の伽耶地域で生産された船形や高坏形の陶質土器の破片が採集されている。
調査
1950年に後円部の埋葬施設の一部が破壊されたことから、発掘調査が行われた。
墳丘
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:3段、後円部:3段
- 墳長 238m
- 後円部 径105m 高25m
- 前方部 幅110m 長130m 高22m
外表施設
- 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅲ式
- 形象埴輪
- 靱・
- 楯・
- 短甲(三角板角綴形)・
- 草摺・
- 衣蓋、
- 切妻造・
- 四柱造、
- 異形直弧文を線刻する埴輪
葺石
- あり
主体部
- 室・槨 ①竪穴式石槨②竪穴式石槨?③(伝)粘土槨?④粘土槨
- 棺 ①長持形石棺②長持形石棺?③木棺(型式不明)④割竹形木棺
遺物
- 【鏡】中国:①ⅲ神獣鏡10数片③11(型式不明)。
- 【玉類】硬玉:
- 【石製模造品】
- 琴柱形:①ⅱ1、ⅲ1、
- 装身具:①ⅰ滑石製勾玉1、ⅱ滑石製勾玉58、①ⅲ臼玉75、
- 滑石製勾玉564 ③滑石製勾玉29、
- 農工具:①ⅲ刀子16、斧1、杵形1
- ③刀子 1、
- その他:①ⅲ棒状2、石状2、異形1。
- 【武器・刀剣類】鉄剣:①ⅱ7、鉄刀刀:①ⅱ1 ⑤破片出土(工事中に)。
- 【武器・鏃】その他の鉄鏃:⑤型式・数量不明。
- 【武具】革綴短甲:①ⅱ三角板1(細片で約1領分)、その他:⑤破片出土(工事中に)。-【農工具】農具:①斧1、工具:①ⅱ刀子3。
- 【土師器】①ⅲ数片。
- 【その他】①ⅲ銅器片1 ⑤漆塗製品。
築造時期
- 5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定
指定
- 1921年(大正10年)3月3日指定 宮山古墳
アクセス等
- 名称:室宮山古墳
- 所在地:〒639-2277 奈良県御所市室
- 交通:近鉄近鉄御所駅→奈良交通バス五條方面行きで6分、バス停:宮戸橋下車、徒歩5分
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 小笠原好彦(2019)『奈良の古代遺跡』吉川弘文館
弘法山古墳 ― 2023年12月24日 13:23
弘法山古墳(こうぼうやまこふん)は長野県松本市にある紀元3世紀後半の前方後方墳である。
概要
松本市市街から南東約3kmの丘陵上にある東日本で最古級の3世紀後半から4世紀中葉頃築造の前方後方墳である。中国製の半三角縁四獣鏡や鉄剣、鉄斧などの出土品は県宝に指定されている。埴輪の設置や周濠は検出されない。出土土器の形式から、3世紀中葉に遡るとする意見もある。3世紀中葉になるとすれば箸墓古墳と同時期になる。 本遺跡は弥生時代の集落形態及びその社会を知る上で重要であり、学史的にも著名である。
調査
昭和49年に松商学園が弘法山を買収し、学校用地造成に先立って発掘調査を開始したところ、これが単なる円墳ではなく、今まで松本平にはないとされてきた前方後円墳の可能性を考えた。 昭和49年5月から大正大学の斎藤忠教授を団長とする調査が行われた。埴輪は検出されず、葺石も明瞭ではなかった。墳丘は版築の手法が取られていた。墳丘は周囲の土を盛り上げたものである。前方部はかなり狭く小さい。河原石で築かれた石室が現れ、石室上から出土した多量の土器と完存していた副葬品のセットから、古墳は3世紀末(古墳時代初期)に造られたもので、長野県だけでなく東日本で最古(当時)であることが判明した。埴輪の樹立はなく、葺石もわずかに見られる程度であった。主体部は後方部中央にあり、主軸(前方部と後方部を結ぶ線)とほぼ直角となる。石室内法の長さは5.0m、幅は1.3m。深さは93センチメートルであった。石室内には黒土を入れて堅く締められており、天井石は見当たらなかった。
墳丘
- 形状 前方後方墳
- 墳長63m
- 後円部 径33m 高6m
- 前方部 幅22m 長30m 高2m
外表施設
- 葺石 あり
主体部
- 室・槨 竪穴式石槨
出土品
副葬品は「弘法山古墳出土品」として松本市立考古博物館で展示される。土器破片を接合・図上復元した個体は壷8、高坏10・器台2・坩(つぼ)・甕各2、手焙型(てあぶりがた)土器1の25点であった。古墳時代の土器としては最古式に属する。獣帯鏡(斜縁二神二獣鏡)は卑弥呼の鏡ともいわれている三角縁神獣鏡に先行する鏡式で、朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡から数面の出土があるところから同郡を抑えていた公孫氏が魏によって滅ぼされた景初2年(238)以前に帯方郡に入貢していた倭の首長たちが入手した鏡と想定されている。銘文から中国の官営工房で作られたことが分かる。 斜縁二神二獣鏡は東京国立博物館蔵の佐味田宝塚古墳出土品にもある。
遺物
- 【鏡】斜縁獣帯鏡。 舶載獣帯鏡
- 鏡1面、 、斜縁二神二獣鏡
- 【玉類】ガラス小玉。
- 【武器・刀剣類】鉄剣:1、鉄槍:2。
- 【武器・鏃】類 柳葉11・定角4
- 【農工具】工具:鉄斧1・やりがんな1。
- 銅鏃1、
- 鉄鏃 24点、
- 土器片 1000点
指定
- 昭和51年2月20日 国指定史跡
アクセス等
- 名称:弘法山古墳
- 築造時期: 3世紀後半から4世紀中葉頃に築造
- 入場料: なし
- 所在地: 〒390-0825 長野県松本市並柳2丁目1000番地
- 交通: JR松本駅から松本バスターミナルから「並柳団地線」に乗車。「弘法山入口」バス停で下車、徒歩約10分
展示
参考文献
- 斎藤忠(1978)『弘法山古墳』松本市教育委員会
- 大塚初重(2021)『邪馬台国をとらえなおす』吉川弘文館
森将軍塚古墳 ― 2023年12月12日 12:35

森将軍塚古墳(もりしょうぐんつかこふん)は長野県千曲市にある前方後円墳である。
概要
善光寺平の南域を流れる千曲川の右岸にあり、長野県善光寺平の盟主的古墳である。丘陵の頂部に造営された前方後円墳で、墳丘は丘尾を切断し、自然の尾根に若干の盛土を行う。 有明山(標高490m)の平地から比高差130mの尾根上に築かれる。最も古い記録は1883年(明治16年)に「屋代村の将軍塚」として報告されている。 後円部は円より楕円形もしくは隅丸長方形となり、むしろ前方後方墳に近い形である。 平面形は地位の制約を受けてくの字形に曲がっており、後円部の中心線と前方部の中心線とは12度ずれている。葺石は有明山から集めた石英班岩を用いて積み上げる。竪穴式石室の石英閃緑岩は3km離れている倉科地区から運ばれている。石室や古墳に敷かれた玉砂利は約3km離れた千曲川の河川敷から運ばれた。
森将軍とは
森将軍という人物ではなく、森地区にいた有力者という意味である。善光寺平には「将軍塚」と呼ばれる古墳が11基ある。科野の国で最初の王と考えられる。
調査
昭和41、42年の発掘調査では、墓壙の構造、墳丘の築成法などで特異な事実が判明している。後円部のほぼ中央にある割石小口積の竪穴式石室は、二重に築かれた石垣状の墓壙の中に設けられている。石室は全長7.7メートル、幅平均2メートル、深さ2.1メートルを数え、その四隅が丸く作られている。盗掘の残存品として三角縁神獣鏡片、硬玉製勾玉等が出ており、副葬品や石室の構造等からみて古墳時代前期の築造であり、典型的な畿内型古墳の一つである。昭和41年から東京教育大学が発掘調査を行い、盗掘を受けた竪穴式石室と多量の埴輪を検出した。この調査を受け、昭和46年、東日本での古墳時代前期の前方後円墳の様相を知る上で重要であるとして史跡指定された。 更埴市教育委員会は、昭和56年から整備を目的として、古墳の内容を確認するための発掘調査を実施した。また昭和59年から平成2年にかけて復元工事に合わせて古墳の解体調査や13基の小古墳の発掘調査を行った。
最大の竪穴式石室
森将軍塚古墳の石室は床の幅が広く、床面が平坦である。一般的な古墳では、床幅は棺の幅に合わせた1mぜんごであり、床面は棺の形に合わせたU字形に窪んでいる。森将軍塚古墳の棺は幅が広く、そこは平らであったと考えられる。しかし多数回の盗掘により、木棺の痕跡は残っていない。赤い顔料の「ベンガラ」を壁面に塗り、棺の周りには高価な「朱」が まかれていた。
塚堀り六兵衛
通称「塚堀り六兵衛」は北村六左衛門のことで、江戸時代の終わりに生まれ、明治41年(1908年)に72歳で亡くなった人物である。現在の長野県千曲市土口に住んでいた。古墳を盗掘しては掘り出した副葬品を売り、酒を買って飲んでいた。明治38年ごろに森将軍塚を掘りに行ったが「俺より偉い奴がいて先を越された、何も持ち出せなかった」と語ったという。石室の短辺側の壁に穴を開け内部に侵入したという。「米一升10銭の時代に、(盗掘した副葬品の)勾玉一個が15銭」というのでかなりの稼ぎ口であった。六左衛門は近所の子供に飴をやり、穴掘りを手伝わせていたといわれる。
規模
墳丘
- 形状 前方後円墳
- 築成 後円部:2段
- 墳長99m
- 後円部 径最小43m 高11m
- 前方部 幅30m 長41m 高4m
外表施設
主体部
- 室・槨 ①竪穴式石槨②竪穴式石槨③竪穴式石槨
- 棺 ①割竹形木棺?③割竹形木棺?
遺物
- 【鏡】中国:④三角縁神獣鏡(破片)1。
- 【玉類】硬玉:④勾玉1、碧玉:③管玉12④管玉5、ガラス:③小玉24。
- 【武器・刀剣類】鉄剣:④3(破片)、鉄刀:④2(破片)、鉄槍:④2(破片)。
- 【武器・鏃】類銅鏃:④柳葉3。
- 【その他の武器】④刀子2(破片)。【武器・その他】④刀子2(破片)。
- 【農工具】農具:④鎌1(破片)。【土師器】④小形坩・壺(破片)。
指定
- 1971年3月16日(昭和46年3月16日) 史跡名勝天然記念物「埴科古墳群」
展示
- 森将軍塚古墳館- 出土品等を保管する。
アクセス等
- 名称:森将軍塚古墳
- 所在地:〒387-0007 長野県千曲市屋代29-1 (科野の里歴史公園内)
- 交通:しなの鉄道「屋代高校駅」から「森将軍塚古墳」まで 徒歩48分(2.9km)
- 「屋代高校駅」から森将軍塚古墳館まで徒歩25分(1.8km)
- 森将軍塚古墳館からはマイクロバスあり。
参考文献
- 千曲市教育委員会(2005)『千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック』森将軍塚古墳館
- 更埴市教育委員会(1981)『森将軍塚古墳_第一次発掘調査概報』
- 更埴市教育委員会(1983)『森将軍塚古墳_第二次発掘調査概報』
神籠石論争 ― 2023年11月30日 23:26
神籠石論争(こうごいしろんそう)は神籠石の霊域説と城郭説が対立した論争である。
概要
1898年(明治31年)に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた」聖域として紹介した。それを契機として、福岡県女山(ぞやま)や山口県石城山(いわきさん)など類似例が発表され、喜田貞吉の霊域説と八木奬三郎の城郭説との論争が開始された。 1910年以降は霊域説に坪井正五郎・久米邦武、喜田貞吉が参加した。城郭説は白鳥庫吉、関野貞であった。
論拠
霊域説の根拠は神籠石は防御には向いておらず、列石内に式内社があることを根拠としていた。城郭説は朝鮮半島の古代山城や天智朝における朝鮮式山城との類似と列石上の土塁を根拠としていた。八木奬三郎は「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭説を述べた。
決着
1963年(昭和38年)の小野忠熈・鏡山猛・岡崎敬・斎藤忠・小田富士雄らによる佐賀県武雄市おつぼ山神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた新発見の土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ掘立柱の痕跡、木柵、壕の存在、列 石、水門、城 門が発見され、山城であることが確定的となった。
参考文献
- 宮小路賀宏(1987)「神籠石論争」(桜井清彦 『論争・学説 日本の考古学』6)雄山閣出版
最近のコメント