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2024年01月13日 12:01

(すずり)は墨を水を用いて摺るための道具である。

概要

『和名抄』では、「研」と書き、読みは須美須利(スミスリ)とする。 日本で本格的に硯を使い始めるのは7世紀以降とされる。7世紀前半の出土例としては、御供田遺跡(福岡)の獣脚円面硯、向野山窯跡群(福岡)の硯4個、隼上り瓦窯(京都府宇治市)の陶硯(飛鳥時代初期)、陶邑窯跡群(大阪府堺市)の陶硯など約20点がある。 7世紀後半の出土例として太宰府跡(福岡)、飛鳥京跡(奈良)藤原京跡、石上遺跡などがある。

弥生時代の硯

『魏志倭人伝』の「伊都国」の王都とされる三雲・井原遺跡で、国内最古級と見られる硯の破片とされるものの出土を、糸島市教育委員会は2016年3月1日に発表した。弥生時代のものとされる。破片は長さ6cm、幅4.3cm、厚さ6m。糸島市市教育委員会はすずりは1~2世紀ごろに楽浪郡で作られたとみている。弥生時代では固形の墨はまだなく、粒状の墨を硯と研石ですりつぶし、水に溶いて使ったと考えられている。

国学院大学の柳田康雄客員教授(考古学)の調査で、下稗田遺跡(福岡県行橋市)で出土した石器は硯の可能性があると発表された。3点にくぼみがあり、くぼみは筆記に使っていた炭粒をすった跡とされる。最古級とみられる1点は上端が4cm、下端が6.3cm、高さ8cm、厚さ1cmの台形である。弥生時代中期前半ごろのものと見られている。

福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄は2020年2月1日、弥生時代の田和山遺跡(松江市)の石製品に、文字(漢字)が墨で書かれていた可能性があると発表した。墨をすりつぶした使用痕などから石製品を国産の硯と判断した。松江市埋蔵文化財調査室で石製品を赤外線により撮影したが、墨書は確認できなかった。しかし、田和山遺跡製品の黒い線は、奈良県立橿原考古学研究所の研究者らによる科学的な分析により、油性マーカーによる後世の付着物である可能性が指摘されている。

高知県立埋蔵文化財センターと高知県四万十市教育委員会は30日までに、県内の3つの遺跡から見つかった出土品のうち6点が、弥生時代の硯の可能性があると発表した。 四万十市の古津賀遺跡群の4点(弥生中期末から後期)や、南国市の祈年遺跡、香美市の伏原遺跡で発見され、いずれも縦横5センチ程度の板状の板である。中央にくぼみがあることや薄さなどから国学院大の柳田康雄客員教授(考古学)はすずりと判断した

古墳時代の硯

また6世紀末ごろの須恵器の硯は静岡県沼津市 宮原1号墳で須恵器の硯が出土している。柳田康雄教授は、西新町遺跡から出土した古墳時代初期の砥石を硯と指摘した。しかし、福岡大の古澤義久准教授(東北アジア考古学)らのグループは、江戸時代の砥石とする見解を発表している。

奈良時代の硯

正倉院の青斑石硯は須恵器の風字硯である。道明寺天満宮(大阪)では、菅原道真が愛用したとされる青白磁円硯が伝わる。白釉がかかる直径27センチの大型で円形の硯である。もとは20本の脚があったとされるが、現在は失われている。中国唐の官窯で焼かれたとされる。平城京などでは、須恵器の杯の蓋の裏を硯として使用したり、杯の身を硯に使用するなど、転用硯が多い。

墨の歴史

紀元前では木炭の粉や石墨(黒炭)の粉を水と漆で溶いた液が用いられていた。漢代に漆で丸く固めた「墨丸」や硯、松を燃やした煤(松煙)が使われるた。三国時代には膠で固めた扁平な墨が作られるようになった。宋代には油を燃やした煤(油煙)による油煙墨が作られはじめた。

考察

硯は単独で使われるものではないが、同時に使われる筆は残りにくい。硯と判定されたものも、全体の形状が分からないので、硯であるかどうか判定は難しい。窪みがあること、厚さだけで硯と判定すべきものであろうか。やはり硯と共に墨の成分や文字が検出されないと硯と断定するのは難しいのではないか。

出土例

  • 硯 -三雲・井原遺跡、福岡県糸島市、弥生時代
  • 硯 - 市野谷宮尻遺跡、千葉県流山市、古墳時代

参考文献

  1. 奈良文化財研究所(1983)「陶硯関係文献目録」『埋蔵文化財ニュース』41
  2. 杉本宏(1987)「飛鳥時代初期の陶硯--宇治隼上り瓦窯跡出土陶硯硯」『考古学雑誌』73巻2号、日本考古学会、pp.129~156
  3. 九州北部で最古級すずり片山産経新聞、2016.3.1
  4. 東日本最古の「墨書土器」が展示流山市,平成16年8月11日
  5. 紀元前後、国内最古の字?田和山遺跡の石製品に黒い線朝日新聞、2020年2月2日
  6. 静岡県沼津市 宮原1号墳出土、東京国立博物館
  7. 古墳時代のすずり出土 福岡市の比恵遺跡群」西日本新聞、2018/2/17
  8. 3世紀すずりに江戸時代説、福岡 近世の砥石と類似」静岡新聞、2022.12.17
  9. 道明寺天満宮と国宝伝菅公遺品藤井寺市、2023年02月10日

三雲・井原遺跡2024年01月13日 22:54

三雲・井原遺跡(みくも・いわらいせき,Mikumo / Ihara Ruins)は福岡県糸島市にある弥生時代の遺跡である。

概要

三雲・井原遺跡は福岡県糸島市に所在する。糸島市は平成22年1月に前原市、二丈町と志摩町が合併して誕生した。糸島市は北と西に玄界灘があり、南は標高982mの井原山、標高954.5mの雷山、羽金山、女嶽、浮嶽がある。糸島市の平野の大半は江戸時代の干拓事業によって形成された新しい平野である。三雲・井原遺跡は瑞梅寺川と川原川に挟まれた標高30~ 44mの肥沃な扇状地に広がる。

三雲・井原遺跡は『魏志倭人伝』に記載される「伊都国」の中心集落とされる弥生時代の大規模遺跡である。江戸時代末期に発見された甕棺墓遺跡である三雲南小路遺跡を含む。遺跡の面積は約60ヘクタールとも言われ、弥生時代において最大級である。魏志倭人伝に記される伊都国の王墓とするのが通説である。

調査

本格的な調査は昭和49年度の三雲地区圃場整備事業に伴うもので、福岡県教育委員会が実施した。その結果、長らく不明であった三雲南小路遺跡(1号甕棺)を再確認するとともに、2号甕棺を発見し、大量の銅鏡が出土した。平成6年度からは前原市教育委員会が担当し、三雲南小路王墓の範囲の確定、井原鑓溝地区における有力者層の墓群の確認、方形区画溝の確認、三雲番上地区の楽浪系土器を含む土器溜まりの規模を確認した。

三雲・井原遺跡の集落変遷

集落の変遷は4期に分かれる。

  • 第1期 稲作開始期
    • 弥生早期から弥生前期末である。第1期では遺跡北部の加賀石地区で集落が形成された。 住居跡と甕棺墓が検出されている。
  • 第2期 集落の発展期
    • 弥生中期初頭から中頃である。遺跡西部の下西地区に展開するが住居はまだ少ない。
  • 第3期 王都の成立
    • 弥生中期中期から後半である。遺跡の北部から南西部まで居住地が広がる。首長の居館があった可能性がある。
  • 第4期 衰退終焉期
    • 弥生末期から古墳時代初頭である。居住域は南北900、東西700mに広がる。

遺構

  • 掘立柱建物  11例
  • 竪穴建物   207軒
  • 柱穴
  • 土坑
  • 大溝 上面幅3.6m、底幅2~2.4m、深さ1m 断面逆台形
  • 居館 方形区画溝 王などが居住する首長居館があった可能性

出土

  • ガラス小玉
  • 碧玉製管玉
  • 鉄鎌
  • 鉄鏃
  • 短冊形鉄斧
  • 器台
  • 楽浪系土器
  • 鋤先口縁壺
  • 複合口縁壺
  • 無頸壺
  • 布留甕
  • 脚付きの鉢
  • 板状鉄製品
  • 石庖丁
  • 板石硯片
  • 紡錘車
  • 軽石製の浮子

楽浪系土器

 土器溜りから楽浪系土器が48点出土した。『魏志』倭人伝の記述と併せると、楽浪郡や帯方郡からの使者が継続的に居住したこと示すものと考えられている。楽浪系土器は北部九州や山陰の遺跡からは1~数点出土するが、三雲南小路遺跡の出土数がかなり多いことは、 伊都国にあった一大率と関連すると想定できる。

遺跡規模

  • 南北 1500m
  • 東西 750m
  • 面積 60ha

参考文献

  1. 糸島氏教育委員会(2018)「三雲・井原遺跡Ⅹ」糸島市文化財調査報告書 第17集
  2. 糸島氏教育委員会(2019)「三雲・井原遺跡ⅩⅠ」糸島市文化財調査報告書 第18集
  3. 福岡県教育委員会(1983)「三雲遺跡 Ⅳ」福岡県文化財調査報告書第65集
  4. 福岡県教育委員会(1982)「三雲遺跡 Ⅲ」福岡県文化財調査報告書第63集
  5. 福岡県教育委員会(1980)「三雲遺跡 Ⅰ」福岡県文化財調査報告書第58集