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登呂遺跡2024年01月04日 18:30

登呂遺跡(とろたいせき,Toro Ruins)は静岡県静岡市にある弥生時代の集落遺跡である。

概要

JR静岡駅南口から南東約2kmにあり、約2000年前の弥生時代の遺跡として知られる。 安倍川と蓼科川が作る扇状地の先端部に位置する。標高6m前後の南北に伸びる微高地に立地する。遺跡周辺には扇状地の伏水流の湧出があり、遺跡全体が湿地帯の様相を示し、木製遺物の保存に適した条件を作り出した。

調査

1943年、住友金属が軍需工業用地として埋立工事中に水田跡や弥生時代後期のものと思われる丸木舟・住居跡・水田跡、木製品、土器などを発見した。しかし、出土記録や出土品の大半は戦災で焼失した(参考文献1)。 1947年、本格的な調査として、建築・地理・自然科学等の研究者も含んだ学際的な発掘調査が4年間にわたって実施された。登呂遺跡調査会(委員長・今井登志喜東京大学教授)が結成された。調査メンバーは八幡一郎(東京大学人類学教室講師)の他、今井登志喜(東京大学)、大場磐雄(國學院大学)、駒井和愛(東京大学)、杉原荘介(文部省 昭和23年~明治大学)、島村孝三郎(東亜考古学会)などで、人類学・地質学・動植物学・建築学・農業経済学などの各分野の研究者が加わって、日本で初めて遺跡の総合的・学際的研究が行われた(参考文献1)。 高床式倉庫の復元が試みられた。高さ4.3mの8本柱の建物である。板敷の上に立てられた柱は根元から1.2mの部分が地中に埋まり、地上1.45mの位置に小動物の侵入を防ぐネズミ返しをつける。倉庫の床は4m×2.5mで壁は校倉造である。屋根は切妻で萱と杉の皮を使う。

出土

竪穴式住居跡12、高床倉庫跡2、約1万2,000坪(400a)の水田跡、水路跡の存在が明らかにされ、多数の土器・木器類、装飾品、衣類が見つかっている。竪穴式住居の跡は隅丸の方形で、炉跡、礎板を伴う柱跡のほかに板羽目、外柵も残存し、この時代の住居跡として典型的な形式と判明した。居住域と生産域(水田域)は水路(区画溝1)と付随する土手により明確に区画されていた。 畦畔遺構はほぼ集落跡の南方に存するもので各所に杭や矢板の痕跡が残存している。

遺構(弥生後期)

  • 住居17
  • 掘立柱建物7
  • 区画溝

弥生後期(後葉から末)

  • 給排水路
  • 土手
  • 畦畔
  • 暗渠

弥生後期前半

  • 中央水路
  • 分岐水路
  • 畦畔

遺物弥生後期(前葉から中葉)

  • 土器
  • 石器
  • 銅釧
  • 編み物
  • 建築材
  • 立木株
  • 建築材
  • 木製容器

遺物弥生

  • 矢板
  • 土器
  • 石器
  • 銅釧
  • 田下駄

ネズミ返し

八幡一郎の主な業績の一つとして、「ネズミ返し」の推定がある。出土された用途不明の木製品を、八幡は高床倉庫へのネズミ等の侵入を防ぐ「ネズミ返し」と考えた。別の弥生時代の遺跡の発掘調査の結果から、八幡氏の推定が正しかったと確かめられている。

水田

集落の東南に水田があり、幅250m、長さ400m、約8万平方メートルの広さに50枚の水田が確認された。畦畔遺構はほぼ集落跡の南方に存するもので各所に杭や矢板の痕跡が残存している。

規模

  • 南北
  • 東西
  • 面積

指定

  • 1952年3月29日 指定、史跡名勝天然記念物

再調査

登呂遺跡の発掘後、他の遺跡の発掘が続き、弥生時代の集落像に疑問がつくようになり、再確認の必要性が生じた。1999年から5ヵ年計画で最発掘が行われた。登呂遺跡は4期に分かれることが判明した(参考文献2)。

  • Ⅰ期 後1世紀。居住域と水田が現れる。
  • Ⅱ期 洪水で壊滅する。住居は5軒、倉庫3棟、祭殿1棟がある。水田域には中央水路が走り、堰を作り水田に給排水する(参考文献2)。
  • Ⅲ期 水田が再び作られる。再び洪水で壊滅する。
  • Ⅳ期 居住域は作られず、水田のみとなる。200メートル上流にある鷹ノ道遺跡がこのときの居住域であった可能性がある。登呂遺跡の水田の軸と鷹ノ道遺跡の住居軸と水田区画と水路の走行が一致している(参考文献2)。

田下駄

戦後すぐの登呂遺跡の発掘調査において出土した木製品に、木製の田下駄は調査区域の水田跡から計13点が出土した。保存状態の良かった1点は平らな板状の「横型板状田下駄」で、材質は杉と推定された。4カ所にひもを通したとみられる穴が開いている。穴の間隔は前後で異なり、かかと側の方が狭い足の形状に合わせた構造である。 弥生時代に作られたと考えられていた下駄が木材の年代測定の結果、飛鳥から平安時代の下駄だった可能性が高まっていると報道されている(登呂博物館 企画展「登呂博今昔ものがたり」)。田下駄は市報54(2000)

年代測定

春成は「考古学の資料では珍しくもたくさん測ったのが1960年代後半の静岡県の登呂遺跡であるが、紀元前1~3世 紀の 間に入ってほしいのに、紀元前後800年間くらいの中に10点くらいの試料が分散してしまった。杉原荘介は古い値を皆除いて、自分の考えに合っているものだけを採用したという。しかし、遺跡で出てきた木炭のかけらを測定するにしても,その木炭自体は直径1mの木の中心部分か、一番外側なのかで、全然違う数字が出てくるので、ひょっとしたら登呂遺跡の10点 ほど出てきた数字は、それらを検証すればそれなりにもっともらしい数字であったかもしれない」と語る。

展示施設

参考文献

  1. 児玉祥一(2009)「日本の遺跡と遺産 1」岩崎書店
  2. 藤尾慎一郎(2015)「弥生時代の歴史」講談社
  3. 八幡 一郎「用途不明の木製品を「ネズミ返し」と推定」登呂遺跡博物館
  4. 岡村渉(2002)「静岡県登呂遺跡の最発掘調査」日本考古学9 巻 13 号
  5. 岡村道雄(2001)「総合討論:考古学における編年と年代」第四紀研究40(6),pp.535-543

海進2024年01月04日 21:09

海進(かいしん)は地球の気候変動や地殻変動などの原因で海岸線が陸地側に移動することである。

概要

海進の逆を海退といい、海岸線が海側に移動し、陸地が広がることである。 海進と海退は層序学における基本的な概念の1つとされる。 海退により陸地となった場所の地層は、下位に泥岩、細かい粘土やシルト層、上位に砂岩・礫岩など上層に向かい粗粒化する。 縄文海進とは縄文早期中葉以降に海進が進み、海岸地域の内陸深くまで海岸線が移動した。ことである。大規模な海退や海進は地球規模で同時に進行する。 氷期では氷が陸地にとどまり、海に流れないので海退が起こる。また間氷期では氷が陸地から海に流れるため海進が起こるとされる。しかし、海進時の氷床融解により海水量が増大し、海の地盤が重みで沈み、海洋底のマントルが陸側に移動して陸域が隆起し、さらに海進が進むという説もある。 海岸線が最も陸側へ移動した時期を最大海進期あるいは海進最盛期と呼ばれる。 地球史では、海進と海退は何度もぁつた。白亜紀の海進と白亜紀末期の海退は,典型的な例とされる。

出土例

参考文献

  1. 田中琢・佐原信(2011)『日本考古学事典』三省堂
  2. 前田保夫(1970)『縄文の海と森』蒼樹書房閣
  3. 斎藤文紀(1989)「海進・海退,海水準変動と堆積相」堆積学研究会報31号,pp.49-54
  4. 松本達郎(1979)「海進・海退と海面変化」地学雑誌88(3),pp.12-22

鼉龍鏡2024年01月04日 23:03

鼉龍鏡/甲斐銚子塚古墳/東京国立博物館

鼉龍鏡(だりゅうきょう)は中国製の画文帯環状乳神獣鏡をまね、棒状の巨を口にくわえ後ろに反り返る姿勢を取る胴長の獣とその上に乗る神像を合体して一つの頭部とした図像をもつ4世紀の仿製鏡である。

概要

神像と蟠龍が頭を共有しているのが特徴である。鼉龍は『山海経』などに記述される、川や湖に棲んでいると考えられている怪物を表す。柳井茶臼山古墳出土のものは外区に菱形と雲を組み合せた菱雲文を配す。

中国文献

後漢『説文解字』によれば、「水蟲なり。蜥蜴に似たり。長さ丈ばかり」と書かれる。鼉龍鏡の図像とは関係がない。 『陸璣雲』には、蜥蜴に似たて、長さ丈ばかりその甲は鎧のごとし、皮は固く厚い(鼉似蜥蜴,長丈餘,其甲如鎧,皮堅厚,可冒鼓)。また「鼉龍」は揚子江鰐の別称とする。

出土例

  • 鼉龍鏡 - 富雄丸山古墳、奈良県奈良市、古墳時代
  • 鼉龍鏡 - 出土地不明、古墳時代、東京国立博物館、
  • 鼉龍鏡 - 柳井茶臼山古墳、山口県柳井市、古墳時代・4世紀
  • 半円方形帯四乳鼉龍鏡 - 北和城南古墳出土、奈良県北部、古墳時代 4世紀
  • 鼉龍鏡 - 石奈坂1号墳、千葉県市原市、古墳時代中期
  • ?龍鏡(変形神獣鏡) - 大塚陵墓参考地、奈良県北葛城郡広陵町、古墳時代、宮内庁

参考文献

  1. 田中琢・佐原信(2011)『日本考古学事典』三省堂
  2. 車崎正彦(1993)「鼉龍鏡考」『翔古論聚』久保哲三先生追悼論文集刊行会、真陽社