Bing

楊貴氏墓誌2024年01月22日 08:35

楊貴氏墓誌(やぎしぼし)は奈良時代の学者・官僚・政治家の吉備真備の母の墓誌である。

概要

日本古代の墓誌の数少ない例であるが、墓誌の所在は不明となっており、拓本のみが残されている。22.1cm×28.0cmで、源八という農民が1728年に大和国宇智郡大沢村(現奈良県五條市)の山麓で最初に発見したとされる。

出土状況

狩谷棭斎『古京遺文』(1818年)によれば、亨保13年(1728年)大和国宇智郡大沢村で出土されたとされる。)大和国宇智郡牧野村大字大沢小字三本松東北隅の延見寺址から村民源八が発掘したとされる。伊藤東涯は農夫平右衛門が発掘し、壺1(4から5升入り、瓦12枚、うち1枚刻字塡)したとされる。付近の蓮華寺に墓誌を納めた。その翌年から村は大凶作が続いたため、村の長老たちは凶作の原因は、墓誌を掘り起こしたことであるとし、蓮華寺に納められた墓誌を元の場所に埋め戻した。延享5年(1748年)に大阪道修町泉屋嘉兵衛所有となった土地から再発掘し、再び蓮華寺に納める。出土地点に碑を建てた。墓誌が蓮華寺にある間、宝暦4年(1754年)に小林金芝、寛政7年(1785年)に立原翠軒が拓本を取った。文化11年(1814年)に再び途中に埋設した。小林金芝は文化14年(1817年)、4 月に模刻を作った。その頃、五条代官所主善館教授の儒者荒井鳴門をその次第を書き起こし、狩谷棭斎に報告し、『古京遺文』に収録された。嘉永2年(1849年)、埋設地が路傍であるとして発掘し、現在地に埋め替えしたとされる。明治20年前後に山田孝雄が現地を発掘調査したが、口径1尺ほどの瓦瓶のみがあり、墓誌は行方不明になったとされる。

拓本の文字

  • 従五位上守右衛
  • 士督行中宮亮
  • 下道朝臣真備葬
  • 亡妣揚貴氏之墓
  • 天平十一年八月十
  • 二日記
  • 歳次己卯
    • (大意)
    • 従五位上、右衛士督兼中宮亮の下道朝臣真備が亡き母の楊貴氏を葬る墓。
    • 739年(天平十一年)八月十二日に記す。
    • (検討)
    • 739年には吉備真備は外従五位上であったから、矛盾はない。

楊貴氏

楊貴氏とは、墓誌文面から母の出身氏と考えられ八木氏のこととされている。永く中国 にいた真備が中国風に母を敬慕して八木を好字にしたと考えられている。八木氏は土佐古代の名族に八木氏があるが関係があるのかは不明。阿曽村邦昭(2018)によれば、大和郡宇智郡に住んでいた阿曇族に属する八木造の一族とする。元の本拠は九州北部であったとする。とすれば当時の慣習から、吉備真備は大沢村(現奈良県五條市大沢町)で生まれたと考えられる。

行方不明の経過と偽作説

地元の蓮華寺という寺に墓誌を納めたところ、明治三〇年(1897年)までに五回以上の発掘と埋め戻しがされ、行方不明になったとされる。

偽作説

近江昌司は文体から歳次己卯」が疑問である、さらに全体の文形にも問題が生じているとする。東野治之は文字が?の焼成後に刻まれていること、末尾四字が後刻とみられ、これを除くと文字の配置に不均衡が生ずることなどから、?出土後の偽作とする説があるとする。 私見では、(瓦)を焼いた後にこのような整った文字を刻めるものなのだろうかという疑問がある。書体は奈良時代のものとしても不自然さはない。吉備真備は唐で書を残しているので、能書家であったから、吉備真備の書の可能性もある。 伊藤東涯は偽作する動機は無いと考えられる。出土地の付近には蓮華寺があり、全体の話に不自然さは無い。

拓本

拓本は現在、東京国立博物館に「南都宇智楊貴氏墓志銘他三種拓本」として保管されている、 江戸時代後期の儒学者、漢詩人の市河寛斎(1749~1820)が採取したものである。

慰霊碑

出土地とされている場所は五條市立五條西中学校の付近で、1814年(文化11年)と大正末年(20世紀前葉)に建碑された墓碑が立ち、毎年9月12日(もと旧暦8月12日)に地元の人々により清掃と慰霊祭が行われる。

アクセス等

  • 名称:楊貴氏墓誌
  • 所在地:〒637-0077 奈良県五條市大澤町
  • 交通:西日本旅客鉄道 大和二見駅 より徒歩53分(3.4km)

参考文献

  1. 岸俊男(1960)「楊貴氏の墓誌」(『日本歴史』一五〇号『日本古代政治史研究』塙書房
  2. 伊藤純(2020)「楊貴氏墓誌発見の周辺」奈良学研究22、pp.51-66
  3. 近江昌司(2020)「楊貴氏墓誌の研究」(『日本歴史』211号
  4. 阿曽村邦昭(2018)『吉備真備』文芸社

八尾市歴史民俗資料館2024年01月22日 13:04

八尾市立歴史民俗資料館(やおしりつれきしみんぞくしりょうかん)は大阪府八尾市内の文化財を紹介する資料館である。

概要

1987年(昭和62年)11月に高安古墳群がある八尾市東部の高安山麓に開館した。 八尾市内の文化財を調査研究し、収集保存を図るとともに、展示を通して広く公開する施設である。八尾市内には80を超える遺跡が残る。八尾市は市域の約2/3が遺跡範囲に指定され、全国的にも例をみないほどの遺跡が密集した地域となっている。常設展は3つのコーナーから構成される。「八尾市を日本史及び東南アジア史の関連からみつめる」が基本コンセプトである。企画展コーナーでは考古・染織(河内木綿)・民俗の面から企画展を行う。 企画展の例として「戦国時代の八尾」「八尾 まちとくらしのうつりかわり」「恩智遺跡」などがある。特別展は年1会開催され、令和5年は「女の装い」であった。

展示

  • 常設展 - 「大和川流域と高安山-その歴史と文化-」
    • 「掘り起こされた八尾の歴史」
      • 八尾市内の80を超える遺跡の調査からみる八尾市の歴史
    • 「写真と資料でみる八尾の風景」
    • 「大和川付替えと河内木綿」

考古資料

  • 金銅装圭頭大刀
  • 恩智遺跡出土弥生土器 森田山古墳(服部川支群)から出土

アクセス等

  • 名称:八尾市立歴史民俗資料館
  • 開館時間:9:00-17:00(入館は16:30まで)
  • 休館日:毎週火曜(祝休日の場合は開館)
  • 所在地:〒581-0862  大阪府八尾市千塚3-180-1
  • 観覧料:有料一般220円(中学生以下無料) ※特別展は別料金330円。
  • 交通: 近鉄大阪線「河内山本駅」で信貴線(信貴山口行き)に乗り換え、次の「服部川駅」で下車 北へ徒歩約8分

参考文献

竪穴式住居2024年01月22日 21:25

竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ, pit dwelling)は地面に穴を掘り、周囲に柱を立て、木で柱を立て、土や葦をかぶせて住居にしたものである。 「竪穴住居」ともいう。'竪穴式住居の建物は、「竪穴式建物」という。

概要

日本では旧石器時代から中世までの間で使われた住居様式である。旧石器時代後期に竪穴式住居が誕生したと考えられている。縄文時代には人々は定住して狩猟採集生活を営むようになり、竪穴式住居は増加した。地面を円形や方形に数十センチメートル掘り下げ、半地下式の住居とした。北陸地方や東北地方では、1辺が20mもの超大型竪穴式竪穴式建物の跡が見つかっており、集落全体で使った作業場との説が有力である。

住居の構成

床面積は概ね20~30平方メートルで、4~5人の家族が住んでいた。 内部に数本の柱、炉、かまど、貯蔵穴、溝、工房などの付属施設をもつ。竪穴住居の頂部には、排煙や換気のための「換気口」がある。家の中に石囲い炉が1箇所程度設けられた。 弥生時代中期までは円形で、弥生時代後期から方形になる。

床の作り方

床は土間のままであるため住居内は、何もしなければ湿度は90%以上となり、住みにくい。 床には草やワラなどを平らに編んだむしろ状の敷物や動物の毛皮などが敷いていたと考えられる。縄文時代中期から晩期(紀元前3500年~紀元前1000年頃)になると、中部・関東地方では床に石を敷いた「敷石住居」が登場する。

遺物の残存

屋根材や柱材などの有機物は分解されてしまうため、完全な状態で発見されることはない。竪穴住居跡の中からは、土器や石器などの分解や変質しにくい遺物が数多く発見されるが、鉄器・木器などの出土件数はあまり多くない。

建物構造

半地下式の構造であり、縄文時代から平安時代までの長い間、住居の構造としては最も一般的に使用されている。高床式倉庫などの掘立柱建物では建物の周囲をすべて木材などの部材で造らなければならないが、半地下式にすることによって、壁にあたる部分の部材量が少なくてすむ。壁に外気に接しない部分があるため、外気温の変化による影響を受けにくい。このため、竪穴住居の中の温度や湿度は年間を通じてもあまり大きく変わらない。しかし、内部には数本の柱穴のほか、炉、かまど、貯蔵穴、溝、工房などの付属施設や、時代や地域によっては埋甕、石棒、石壇などの宗教的遺構が付随する例もある。

雨水対策

床が下がっているため、そのままでは雨水が浸入する。当時の竪穴住居の壁の部分に、壁が崩れないように板材などを使用していたと推察される。斜めの屋根との間に棚状のスペースがあったと考えられる。 このため大雨でなければ内部まで雨水が侵入することはない。内部に溝など排水施設が作られることがある。

井戸尻遺跡の例

井戸尻遺跡の集落は「男性の家」「女性の家」「若者の家」の3種類があった。大きめの住居に女性と子どもが5~6人。隣りの住居に男性2~3人。別の、ひとまわり小さな簡素な小屋に、まだ独り立ちをしていない若者が2~3人。合計で10人くらいが1つの集落である。子どもは女性の家で育てられる。 囲炉裏と祭壇、土器や石器、生活用具(木のお椀やざる)、食べ物(栗や干した魚、肉)、生活道具(縄や衣類を編むための植物の繊維)があった。

  1. 石野博信(2006)『古代住居のはなし』吉川弘文館

伊興遺跡公園展示館2024年01月22日 22:20

伊興遺跡公園展示館(いおきいせきこうえん)は1993年(平成5年)に開園した竪穴住居のある公園である。

概要

1989年(平成元年)から公園整備のための発掘調査を行ったところ、竪穴住居をはじめとした様々な遺構が発見された。出土品の量の多さに驚いて、足立区は土地を買い上げ、保存区域として保護されることになった。 展示館には、祭祀用の遺物や古式須恵器、子持勾玉、玉類・石製品が展示されており、野外に、当時の暮らしを再現した竪穴式住居と方形周溝墓が再現されている。稲作はすでに始まっていたが、ムラの周りで取れる食料に多くを頼っていた。シカなどの獣骨や魚骨、桃などの種子や花粉が出土する。現在も遺跡公園の下には、調査することのできなかった多くの遺構・遺物が眠っている。公園内には方形周溝墓といわれる古墳の前身の墓も発見され、公園内に復元展示されている。

展示

  • 竪穴住居
  • 須恵器
  • 子持勾玉
  • 土師器
  • 石製品
  • 玉類
  • 騎馬木簡(東京都指定文化財)
  • 舟の形代(祭祀用のミニチュア舟)
  • 滑石製石製模造品

アクセス等

  • 名称:伊興遺跡公園展示館
  • 開館時間:10:00から16:00まで
  • 入場料:無料
  • 所在地: 121-0801足立区東伊興四丁目9番1号
  • 交 通:竹の塚駅西口よりバス新里循環「北寺町」下車徒歩約7分

参考文献