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聖明王2024年01月01日 10:16

聖明王(せいめいおう、성왕、?- 554年7月)は百済の第26代の王である。『日本書紀』には聖明王または「聖王」「明王」と書かれる。

概要

在位は523年から554年である。武寧王の子である。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明禯である。西暦475年、高句麗の長寿王は3万の兵士を率いて百済の都である漢城を攻撃する。 百済は攻撃を防ぎきれず、都を「熊津」に移した。 その後、523年5月に即位した聖王を『三国史記』は「才知と決断力に優れる」と書く。 524年に梁から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封される。 538年に聖明王は首都を熊津(現在の忠清南道公州市)から泗?0;(忠清南道扶余郡)に移した。中央集権国家の確立と中国南朝文化を導入する新都の造営を目指し、国号を南扶余とした。 中央統制と地方の統治組織を構築し、政治運営では貴族の発言権を弱めて、王中心の国運営体制を確立ようとした。聖王は国の精神的支柱を強化するため、仏教を振興し、外交は中国の梁との関係を重んじた。当時の中国は北に北魏と西魏があり、南に梁があった。しかし稜は内部対立から557年に滅び、陳となった。

仏教公伝

『日本書紀』第十九巻・552年(欽明十三年)十月記事に聖明王はこの法は、最もすぐれたた教えである。経典は難しく分かりにくいが、幸福や果報をもたらし悟りに導くものとなる。仏教はインドから中国、朝鮮まで広まっている。すばらしい仏教を、日本でも広めてほしいと上表文を提出し、倭国に経典と仏像を送ったとされる。いわゆる仏教公伝であるが、百済側の史料では549年となる。使者は姫氏怒唎斯致契、姫氏達率らを遣わして釈迦仏の金銅像を一体、幡蓋、経典(經論)を奉ったとされる。ただしこの上表文は後世の偽作とされている(飯田武郷『日本書紀通釈』)。

戦死

554年に世子時代の王子の昌(後の威徳王)が周囲の忠告を無視して、大伽耶、倭と連合して新羅と闘った。新羅と管山城(忠清北道沃川郡)での戦闘中に、関山城の戦いで孤立した王子を救援しようとして出陣したが、狗川(忠清北道沃川郡)で新羅の伏兵(新羅の奴婢出身の兵士といわれる)に襲われて戦死した。王の死に衝撃を受けた百済軍は4人の将軍と3万人の兵士が戦死したとされ、大敗北を喫した。少ない兵で救援に向かったのは無謀な行動であった。百済と新羅の同盟関係は決裂し、聖王が梁や日本との同盟関係も危機となる。百済内部では王権は弱まり、馬韓系の貴族を中心とした政治体制が確立した。

陵墓

陵山里古墳群が陵墓と考えられる。古墳は盗掘されており、被葬者は分からない。最も古い古墳は2号墳、被葬者は聖王(聖明王)と考えられている。古墳は盗掘されており、被葬者は分からなくなっている。

日本書紀 第十九巻・欽明

  • (原文 )冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姬氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮拜功德云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國流通畿內。果佛所記我法東流。」*参考文献
  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 森浩一(2022)『敗者の古代史』KADOKAWA
  4. 角田春雄(1978)「日本書紀の仏教伝来について」印度學佛教學研究 26(2) pp.725~729

石皿2024年01月01日 12:11

石皿/東京国立博物館

石皿(いしざら)は扁平な礫を平らに浅く窪ませた石器である。

概要

縄文時代に多く見られ、径20cmから40cmの円形または楕円形が多い。 石材は安山岩が多いが、花崗岩、綠泥片岩、砂岩、玄武岩もある。 旧石器時代にも少数が見られるが、局部磨製石器である。 縄文時代前期に窪みのある石皿が登場し、中部以東に波及する。 西日本では縄文時代後期以降に多くなる。

研究史

坪井正五郎は穀類加工用の石器と紹介した。後藤守一の堅果加工具説から、縄文時代の植物食を支える重要な道具とされてきた。有光教一は「鞍型のすりうす」と呼び、穀類の調理器具としての用途を重視した。 上條信彦は縄文時代の加工技術の解明は狩猟・採集社会の実態を知るうえでも重要であるとした。凹部を形成するものを石皿とし、凹部がないものを台石とした。石と下石の組み合わせを示唆する最も古い例は、種子島に所在する三角山Ⅰ遺跡とする。福島県田地ヶ岡遺跡では、1つの下石に対して、上石を使い分けた少なくとも2 種類の作業があったとする。磨石と石皿として単純化されていた上石と下石について、使用痕の違いによって大きく三つの組み合わせが存在するとし、上石と下石の対応関係に一定の規則性がることを指摘した。

用途

磨石や凹石を上石とし、食品その他の打ち割り、粉砕、磨り潰しなどに用いた。 石皿と磨石を道具として使い、クリ、クルミ、ドングリなどの木の実を粉にする。 岩野原遺跡(新潟)では、石皿の窪みの中に塊となった炭化物が詰まった小型品がみつかり、団子ないしクッキー状の食物の加工台となっていた。

世界の事例

ガンダーラに化粧皿(Toilet Tray)」と呼ばれる紀元前1世紀~紀元1世紀の石皿がある。皿を区分し、間に凹面に浮彫装飾を施す。シリア・ルメイラ遺跡では磨石を台石の上で 前後に動かしムギを挽いた。古代エジプト統一王朝では石材を加工して器を作る技術が発達し、石製皿も作られた。韓半島では磨石・石皿がセットで出土している。磨石と石皿は、新石器時代の初期から、ドングリなどの堅果類に用いられ、農耕が普及してからは穀物にも用いられた。

日本の事例

  • 石皿 - 原遺跡、岡山市北区御津宇垣、縄文時代後期~晩期
  • 石皿 - 地蔵田遺跡、秋田県秋田市、縄文時代
  • 石皿 - 丸尾遺跡、広島県呉市蒲刈町大浦、縄文時代後期

参考文献

  1. 田中琢・佐原信(2011)『日本考古学事典』三省堂
  2. 安達厚三(1983)「石皿」『縄文文化の研究』7,道具と技術、雄山閣出版
  3. 有光教一(1953)「朝鮮石器時代の磨臼」『史林』35-4、
  4. 上條信彦(2014)「縄文時代石皿・台石類、磨石・敲石類の検討」人文社会論叢. 人文科学篇(31)、pp.15-39

管玉2024年01月01日 15:59

管玉/唐津市久里小学校出土/東京国立博物館

管玉(くだたま)は円筒形で管状で縦軸方向に貫通した孔がある玉である。

概要

貫通孔に紐をとおして装身具にする。長さ1cmから4cm、径2mmから8mmが多い。 穿孔は両端からが多いが、片側だけの場合もある。管玉だけを多数つなげ(連条)、または勾玉を1個ないし数個入れて、首飾り(頚飾)、腕輪、手玉などの装身具に用いる。弥生時代には専門の玉作工人がいた。管玉は縄文時代晩期から弥生時代前期に朝鮮半島から伝わった。 東北北部から北海道南部にかけての地域では、まず太形管玉を志向する段階があり、その後に細形管玉を志向する段階になったとされる。

来歴

中国では新石器時代から石製が骨角製の管玉が多い。日本では管骨を模したと見られる石製品が縄文時代に見られる。弥生時代は碧玉、鉄石英製で、長さ1~2cm、径0.3cm程度の小形が多い。古墳時代には全体的に大形化し、長さ3cm、径0.5~1cm程度が多い。北海道では縄文時代に土坑墓の副葬品として見つかる例が多い。菜畑遺跡では縄文系管玉と朝鮮半島産の管玉が共伴する。弥生時代には中国遼寧省系統の管玉を碧玉・鉄石英・水晶・滑石・ガラスなどの多様な素材で作る。古墳時代には碧玉・緑色凝灰岩製が多い。

製作工程

箕田拓郎(2015)は鳥取倉吉市の東前遺跡の分析で、管玉の製作工程を明らかにした。溝をつけて石を分割する方法を、施溝分割技法という。

  1. 荒削り段階では施溝分割と打撃を施す。
  2. 形割段階では施溝分割を繰り返して角柱状の素材を作る。
  3. 側面調整では押圧剥離により素材を調整する。
  4. 研磨段階では多角柱状にする。主として八角系の柱にする。
  5. 穿孔段階では石針を用いて孔をあける。孔部に回転痕があるものが残る。

素材

縄文時代に石製、鳥骨製のものがある。、古墳時代中期には滑石、凝灰岩が用いられた。後期は瑪瑙、水晶、ガラス玉を用いる。奈良時代は正倉院宝物に金銅、サンゴ、めのう製管玉がある。

出土例

  • 碧玉管玉 - 大和国奈良市富雄町丸山古墳出土品、古墳時代・4世紀、京都国立博物館
  • 管玉 - 常呂川河口遺跡、北海道北見市、縄文時代

参考文献

  1. 高橋健児(1911)『鏡と剣と玉』富山房
  2. 藤田富士夫(1922)『玉とヒスイ:環日本海の交流をめぐって』同朋舎出版
  3. 根岸洋(2021)「宇鉄遺跡出土の碧玉製管玉に関する基礎的研究」青森県立郷土館研究紀要
  4. 箕田拓郎(2015)「鳥取県倉吉市東前遺跡における管玉製作」