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犬上御田鍬2023年08月21日 23:48

犬上御田鍬(いぬがみのみたすき) は飛鳥時代、推古・舒明期の官僚の官人である。「三田耜」とも書く。姓は君。冠位は大仁。

概要

614年(推古22年)6月、矢田部造(『旧辞本紀』には矢田部御嬬)とともに犬上御田鍬は第五次遣隋使として隋に渡る。翌年9月、百済使を伴って帰国する。 630年(舒明2年)8月、薬師恵日とともに第一次遣唐使の大使ととなり、翌年に唐に到着した。『旧唐書』によれば、皇帝の太宗は遠路をあわれみ、所司に歳貢させなくともよいと指示し、632年(舒明4年)8月、帰路に唐の送使高表仁、新羅の送使、先に渡海していた「学問僧霊雲・僧旻」らとともに新羅経由で帰国した。来日した高表仁は王子と礼を争い、朝命を述べずに帰国したとされる。日本側にはこの記録はない。王子は山背大兄王との説がある。

史料1 『日本書紀』巻第廿二 推古廿二年夏五月

  • 廿二年夏五月五日、藥獵也。六月丁卯朔己卯、遣犬上君御田鍬・矢田部造闕名於大唐。秋八月、大臣臥病。爲大臣而男女幷一千人出家。 廿三年秋九月、犬上君御田鍬・矢田部造、至自大唐。百濟使、則從犬上君而來朝。十一月己丑朔庚寅、饗百濟客。癸卯、高麗僧慧慈歸于國。

史料2 『日本書紀』 巻第二十二 推古31年7月条

  • (原文) 是時、大唐學問者僧惠齋・惠光・及醫惠日・福因等並從智洗爾等來之。於是、惠日等共奏聞曰「留于唐國學者皆學以成業、應喚。且其大唐國者法式備定之珍國也、常須達。

史料3 『日本書紀』卷第廿三 舒明二年秋八月

  • (原文)秋八月癸巳朔丁酉、以大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日、遣於大唐。庚子、饗高麗百濟客於朝。九月癸亥朔丙寅、高麗・百濟客歸于國。是月、田部連等、至自掖玖。

史料4 『日本書紀』日本書紀卷第廿三 四年秋八月 孝德四年秋八月条

  • (原文) 四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二,白藤礼幸(1992)『続日本紀』岩波書店

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