舎人親王 ― 2023年09月10日 07:38
舎人親王(とねりしんのう, 676年―735年)は奈良時代の皇族である。 『日本書紀』編纂の最高責任者とされる。「舎人皇子(とねりのみこ)」とも記される。 官位は一品・知太政官事、贈太政大臣。
概要
天武天皇の第3皇子で、母は天智天皇の娘の新田部皇女である。子に大炊(淳仁天皇)、船王、三原王(御原王)、池田王、貞代王がいる。 勅によって太安万侶とともに『日本書紀』の編集にあたった。 元正天皇、聖武天皇に皇親として仕え、奈良時代前半の皇親政治の中心として活動した。 『続日本紀』養老4年(720年)5月21日の条に「一品の舎人親王は、勅をうけて 日本紀の編纂に従事していたが、完成して記三十巻と系図一巻を奏上した」と記述される。これは『日本書紀』の完成を示す。 藤原不比等の没後は知太政官事として政務に携わり、729年(天平1年)に起きた長屋王の変のときは新田部親王らと王を窮問して王は自尽した。長屋王は舎人親王の甥にあたる。 舎人親王は天平7年11月14日(735年12月6日)に没した。第7子が淳仁天皇になると崇道尽敬皇帝の称号を贈られた。
万葉集
万葉集に3首が残される。117番は舎人娘子(とねりおとめ)に贈った歌である。
- 117番 「ますらをや 片恋せむと嘆けども 醜のますらを なほ恋ひにけり」
- 1706番 「ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手(ころもで)の 高屋の上に たなびくまでに」
- 4294番 「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰」
松尾寺
『日本書紀』編纂のときは舎人親王42歳の厄年であったため、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて「松尾寺」を建立したと1676年(延宝4年)に作成されたと「松尾寺縁起」に記載される。
東明寺
持統天皇8年(693年)に舎人親王が開基したと伝えられる。持統天皇が眼病に悩んだとき、平癒を祈る子息の舎人親王の夢枕に老翁姿の白鬚明神が現れ、 「霊山に登り霊井の水をすくいて母君の眼を洗うよう」にとのお告げに従い母の眼を洗ったところ、持統天皇の眼は治癒した。その感謝のため舎人親王の勅により、寺が建てられたという。
邸宅跡
舎人親王邸の有力候補地が平城京跡で発掘されたと2023年4月3日報道された。平城京の中心部に近い「左京三条三坊四坪」と呼ばれる区画で、5棟分の建物跡が見つかった奈良時代前半とみられる。。大型建物跡は推定で南北10m以上、東西20.2m。柱穴は一辺1.5m前後。屋根には瓦が使われていた可能性がある。五位以上の貴族の邸宅は1町であったが、左大臣・長屋王など大臣クラスは4町と広い。四町の宅地を班給されたのは三位以上の貴族だけである。軒丸瓦、柱の一部も出土した。
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 貴族邸宅の中心建物か奈良新聞, 2023年4月3日
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