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ソウル風納洞土城2023年07月19日 09:39

ソウル風納洞土城 (そうるふうのうどうどじょう、서울 풍납동토성)は韓国ソウル市にある古代の遺跡である。「風納洞遺跡」ともいう。日本語Wikipediaは「風納土城」とする。

概要

風納土城は韓国ソウル特別市の漢江東岸にある土城(土塁)址である。紀元前(BC)2世紀に築造されたとされる。魏の帯方郡の所在地「帯方郡治跡」に推定する説がある。 当初の名称は「光州風納里土城」であったが、2011年7月28日、「ソウル風納洞土城」に変更された。土塁は2段築成である。紀元前1世紀から紀元後3世紀中頃(原三国時代)には、土城域には3重環濠集落と竪穴建物があつた。百済時代には祭祀に関係する大型建物の遺構、竪穴建物等の多数の遺構が見つかった。大量の百済土器・瓦・鉄器、中国南朝の陶磁器が出土する。西側は漢江の洪水によりほぼ消失した。 風納土城は東壁1.5km、南壁200m、北壁300mがあり、周囲に約2.7kmが残る。周囲4kmを超え、敷地26万坪以上で朝鮮半島内の最大規模の遺跡である。炭素年代測定により、西暦前2世紀頃から築造され始めたことが明らかになっている。先史時代から三国時代に至る遺物が出土した。百済の成立以前から人が住んでいたことが分かる。

調査

1925年の大洪水の時に発見され、1964年の調査により間に焼土層をはさむ上下2層の包含層が確認された。1997年 のアパート工事をきっかけに多量の遺跡と遺物が発見され、発掘により土器、網、水車、指輪、瓦などが出土した。 2004年から2011年までの調査では、漢城百済時代(B.C.18~A.D.475)に築造された道路、大型廃棄場、建物址、住居址、竪穴遺構など543余りの遺構が確認された。とくに調査地域の北側一帯で住居址から長方形竪穴が多数確認された。長方形竪穴は木槨に推定される土層の状態や大甕が出土した。2004年7月26日~9月25日にかけての試掘調査では百済時代の木製井戸が発見された。百済時代の排水路は断面が「U」字形で、長11.2メートル、幅50センチ、深さは最大45センチである。入水部は南側にあり、入水部と北端部の床面の高低差は37センチある。入水部と中間の一部では暗渠になっており、上部・内部からは大甕・軟質の蓋が見つかった。2006年10月の調査で道路遺構が発見された。砂土と川石で均された道路(全長123m)と、道路に沿って道路脇に設けられた排水施設がみつかった。割石を路面に敷き、中央が少し高い。小砂利を約20センチの厚さに敷き、道路の中央を小高く敷きつめ、側面に雨水が自然に流れるようにしている。 道路が発見された所はソウル風納洞197番地。長さ41メートル、幅8メートルの南北道路と長さ22メートル、幅5メートルの東西道路である。

遺構

  • 排水施設
  • 竪穴遺構
  • 土塁
  • 道路遺構

遺物

  • 馬頭 - 供物と見られる12頭
  • 水車
  • 指輪
  • 大型廃棄場
  • 風納里式無文土器
  • 新羅式土器
  • 網につける錘
  • 糸車
  • 紡錘車

指定

アクセス等

  • 名称:風納洞土城
  • 所在地: ソウル特別市 松坡区 風納洞 72-1(서울특별시 송파구 풍납동 72-1)
  • 交通:地下鉄5号線千戸(チョノ、Cheonho)駅 10番出口 徒歩3分

参考文献

  1. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社

帯方郡2023年07月18日 00:30

帯方郡(;たいほうぐん)は、中国の漢帝国が朝鮮半島に設置した古代中国の直轄地の一つである。

概要

後漢末期の混乱期に遼東地方は台頭してきた公孫氏の支配下となり、楽浪郡は公孫氏の支配下に入った。公孫氏は3世紀の初頭、楽浪郡南部の荒れ地を分割し、新たに帯方郡を設置した。公孫氏は238年魏に滅ぼされ、帯方郡は魏の支配下となった。314年に帯方郡は高句麗により滅ぼされた。

公孫氏

中国東北部の遼東太守となった公孫度は、南半分を支配し帯方郡とした。238年に魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵に襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めにより公孫淵とその子・公孫脩は滅びた。魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ楽浪郡および帯方郡を支配した。楽浪郡は魏の直轄地となった。

卑弥呼の使節

邪馬台国の女王卑弥呼が帯方郡に使いをよこして魏に朝貢したのは239年であった。公孫氏が滅亡した翌年であるから、卑弥呼は当時の国際情勢をタイミングよく把握していたと思われる。

比定場所

帯方郡の郡治址の比定地には2説がある。位置のヒントは『漢書』地理志である。含資県の注に「帯水は西、帯方に至りて海に至る」と記載されている。この川がどこであるかが問題である。大同江の支流の載寧江説と漢江説がある。載寧江説なら現北朝鮮の黄海北道となり、遺跡は「智塔里遺跡」が候補となる。漢江説なら現在のソウル付近となり、遺跡は「ソウル風納洞遺跡」となる。 1915年、朝鮮総督府の調査で「現在の朝鮮民主主義人民共和国」黄海道鳳山郡文井面(沙里院)の古墳の内部で、積まれたレンガに「帯方太守張撫夷」の文字が発見された。帯方郡治は沙里院付近の説も有力とする説がある。しかしこれは張撫夷の故郷の可能性があり、帯方郡治があった証明にはならないとされている。智塔里遺跡は現在の平壌の南、大同江の南岸である。ソウル風納洞遺跡は現在のソウル漢江の東である。智塔里遺跡が楽浪郡郡治址とすると、帯方郡との距離があまりないことになる。 現時点では帯方郡の位置は確定していない。

遺跡

参考文献

  1. 鳥越憲三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
  2. 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
  3. 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  4. 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』2講談社学術文庫,pp.75-76
  5. 伊藤一彦(2020)「7世紀以前の中国・朝鮮関係史」経済志林87巻3,4号、pp.163-190
  6. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社

新羅琴2023年07月08日 01:12

新羅琴(しらぎこと、しらきこと)は、新羅楽で用いられる12弦の琴である。

概要

長さ約5尺(約1.5m)で、各弦に琴柱を立てる。正倉院奈良時代の新羅琴の実物3面が残るが、ほぼ完全な形は2つだけで、南倉に1個の残欠がある。朝鮮では伽耶琴と呼ばれる楽器である。『国家珍宝帳』によると、「金鏤新羅琴」が2面あったが、一時貸し出したあと、別の新羅琴、「金泥絵形(金泥絵木形)」と「金薄輪草形鳳形」の2面が代納された(823年・弘仁14年)。

伽耶琴

大加耶末期の王の嘉実王(嘉悉王、嘉室王)のもとで楽師の于勒により開発・演奏され、後に伽耶国が新羅に統合されたことに伴い、于勒とその弟子たちによって改良・完成され受け継がれたとされる。伽倻琴は宮廷音楽に採用され,新羅楽のなかで発達した。素材は桐で、伽椰琴の丸い上板は空を、平たい下板は地を象徴し、下から見ると中が空いている。これは天と地の間の空間を意味する。

正倉院

  • 新羅琴金泥絵木形
  • 新羅琴金薄輪草形鳳形
  • 新羅琴金薄輪草形鳳形琴柱

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂

新羅2023年07月08日 01:09

新羅(しらぎ)は古代の朝鮮半島南部の国である。

概要

三韓の一つの辰韓の地を統一した斯盧国がルーツである。4世紀ごろから金氏が王位を独占し、356年に統一して新羅が成立した。都は現在の慶州であろ、新羅では金城と称した。 三国時代の新羅は高句麗・百済と抗争となった。668年まで唐と連合して百済、高句麗を滅ぼし、さらに朝鮮半島支配を狙った唐軍を676年に撃退し、半島の大同江以南を統一した。 新羅は三韓の中でじゃ最も劣勢であったが、6世紀に入ると急速に台頭した。法興王(在位514~540)は517年、律令を公布、軍事制度・十七等官位制の整備、仏教の公認、年号の制定などの改革を一気に断行し、南朝の梁に遣使し、さらに金官国(南加羅)を併合した。 武烈王(在位654~661)・文武王(在位661~681)の二代の王は唐と連合して高句麗・百済を滅ぼし、新羅の統一を推進した。武烈王は即位前に高句麗・倭・唐を直接見て回り動乱の東アジア情勢を把握した上で、唐と結ぶ決意をした。 9世紀には唐の衰退とともに新羅も衰え。宮廷の仏教保護による寺院造営が続いて財政を圧迫し、骨品制で上位を占める世襲貴族が退廃的な生活と共に政争に明け暮れるようになったためとされる。935年10月、新羅の敬順王は高麗に帰順することを決意した。太子は「戦わずして千年の国家を手放すことは出来ない」と強く反対したが「新羅には戦う力は既に無い、負け戦と知りながら民百姓の血を流すわけにはいかない」と語り、高麗への降伏を決め、新羅は滅亡した。

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂

武寧王陵2023年05月26日 22:11

武寧王陵(ねいおうりょう, 무령왕릉)は、大韓民国忠清南道公州市にある古墳で、松山里古墳群の中で7番目に発見された古墳である。百済第25代王の武寧王とその王妃の陵である

概要

武寧王は第25代の百済の王で、501年に殺害された兄の東城王の後を継ぎ40歳で即位した。松山里古墳の五号墳、六号墳の天井から水漏れがあったため、1971年6月29日から修理工事を始めた。地面の下から石炭の混じる硬い土層に当たり、煉瓦の角を掘り当てた。ほり下げると1971年 7月7日に初めて発掘された。盗掘されていない完全な状態で発掘された。

遺構

塼(せん)という百済式の煉瓦を積み上げた「塼築墓」である。羨道は幅1m、長さ2.9m、高さ1.45mのトンネルである。壁や天井の隙間から木の根が垂れ下がり、床面を蔽う。玄室は東西2.7m、南北4.2m、高さ2.93mである。煉瓦の紋様から副葬品の種類や配置まで、中国の南朝・梁の形式を完全に踏襲していた。東側に王の棺、西側に王妃の棺が置かれていた。武寧王と王妃の木棺は、コウヤマキという日本の九州にしか自生しない木材で作られていた。コウヤマキは日本では仏壇や墓の花として使われ、日本人にとって、コウヤマキは神聖な木とされている。武寧王の棺材は、樹齢300年以上の巨木で、コウヤマキの高さは30メートル、直径は1メートルほどであったと考えられる。コウヤマキは木質が非常に硬く湿気に強く最高の管材とされる。 棺の形や装飾からみると、これらの棺は百済で加工されたと考えられる。玄室の壁面には第6号分と同じような形の小窓とその下に蓮の花のような窓の形になったものを北の壁に1つ、東・西壁にそれぞれ2つを作って、小窓の中に灯りが入る。

遺物

武寧王陵から出土した遺物は108種、2,906点である。

  • 棺 身部はほとんど腐り、蓋のみ残る。厚さ5cmのコウヤマキの板5枚を連結させて屋根型のアーチを作る。棺の内法は長さ2.32m、幅60cm、推定高さ70cmとみられる。
  • 金製冠飾 国宝第154号 高さ30.7cm。金板を鏨で切り、忍冬唐草文様を透かし彫りにし、冠飾の前面には丸い形の小さな歩揺が金糸によって吊り下げられている。
  • 金製飛燕形笄 王の頭の位置で鏡の上に乗っていた。
  • 石獣

墓誌石

王と王妃の墓誌石2枚があった。53cm×41cm、厚さ5cm。青灰色の閃緑岩。墓誌石により、武寧王陵は三国時代の王陵の中で身元を確認できる唯一の墓となった。墓誌石に刻まれた武霊王陵の死亡年月は『三国史記』の記載と同じである。 (原文)

  • 寧東大将軍百済斯
  • 麻王年六十ニ歳癸
  • 卯年五月丙戌七
  • 日壬辰崩到乙巳年八月
  • 癸酉朔十二日甲申安厝
  • 登冠大墓立志如左 (大意) 寧東大将軍の百済の斯麻王、年は六十ニ歳、癸卯年(523年)五月七日に亡くなり、乙巳年(525年)8月12日、登冠大墓に安置された。よって左のように文書を作成する。

博物館・展示館

武寧王陵と宋山里古墳の周辺に、出土した文物を展示する博物館・展示館が作られた。

  • 国立公州博物館
  • 熊津百済歴史館
  • 宋山里古墳模型館

類例

指定

アクセス

  • 名称:武寧王陵
  • 所在地:大韓民国忠清南道 公州市 王陵路 37-2
  • 交 通:公州市外バスターミナルからタクシーで10分

参考文献

  1. 金元龍(1979)『武寧王陵』近藤出版社