亀塚古墳 ― 2024年02月15日 10:38
亀塚古墳(かめづかこふん)は東京都狛江市にある帆立貝式古墳である。
概要
亀塚古墳は江戸時代は「大塚」と呼ばれるように、狛江古墳群で最大の古墳である。現在、丘の一部に徳富蘇峰が揮毫した「狛江亀塚」石碑が立てられている。
調査
1951年(昭和26年)に狛江市は國學院大學・大場磐雄教授の指導で発掘調査を行った。墳丘に円筒埴輪が巡り、前方部に馬や人物の埴輪がたっていた。埋葬施設は木炭槨が2基、前方部から石棺1基が検出された。副葬品には金銅製冠や中国の後漢時代の鏡である神人歌舞画像鏡(径20.1cm、厚約1.0cm、鈕径3.5cm)が検出された。神人歌舞画像鏡はトヅカ古墳(京都府京田辺市、京都国立博物館蔵)、番塚古墳 (福岡県京都郡苅田町、九州国立博物館蔵)でも出土している。 馬具のものと思われる金銅製毛彫飾板は高句麗の古墳壁画に似た人物、龍、麒麟が描かれており、大場教授は被葬者は渡来系氏族説を唱えた。
規模
- 形状 前方後円墳
- 全長 483m
- 後円部 径36m
- 後円部 高さ6.9m
外表施設
遺構
- 木炭槨
- 石棺
遺物
- 神人歌舞画像鏡 - 東京国立博物館蔵
- 金銅製毛彫飾板
- 鈴釧
- 武器、
築造時期
5世紀末~6世紀初頭
指定
アクセス等
- 名称:亀塚古墳
- 所在地:〒201-0013 東京都狛江市元和泉一丁目21番12号
- 交通:狛江駅から徒歩10分、550m
参考文献
宮谷古墳 ― 2024年02月12日 12:43
宮谷古墳(みやだにこふん)は徳島県徳島市にある古墳時代の前方後円墳である。
概要
宮谷古墳は徳島市の西側の丘陵裾にあり、阿波史跡公園の南側にある。徳島県で最古の前方後円墳と想定されている。後円部は削平されており、前方部と周辺部は畑に利用された。開墾のため後円部は削平されている。 近隣の積石塚は墳丘裾で円筒埴輪列が確認されているため4世紀後半と考えられている。
調査
1988年から1989年にかけて発掘調査され、1989年(平成元年)のトレンチ調査で、 竪穴式石槨があり、その木棺中に鉄剣、管玉、ガラス小玉、直径7.3cmの小型重圏文鏡、ヤリガンナが検出された。前方部斜面から三角縁神獣鏡3面が出土した。徳島県内では初の三角縁神獣鏡であった。墳頂部から壺型土器が大量に出土した。出土土器から4世紀前半と考えられている。 前方部と後円部の比率が1:1となること、古墳の縁の葺石を石垣状に積み上げること、前方部は尾根の上側に位置し、埋葬施設は古墳の主軸に斜行して東西を向くこと、平面形は纒向型前方後円墳に近い。後円部中央に墳丘の主軸と平行する東西方向の竪穴式石槨がある。
規模
墳丘
- 形状 前方後円墳
- 墳長 40m
- 後円部 径25m 高2.4m
- 前方部 幅11m 長15m 高1.6m
外表施設
- 形象埴輪 布留式土器(壺形など)
- 葺石 あり(結晶片岩割石)
- 【造出】なし。
- 【周濠】なし。
- 【周堤】あり
遺構
- 主体部 室・槨 竪穴式石槨
遺物
- 【鏡】中国:三角縁神獣鏡 3面。
- 鉄剣、
- 管玉、
- ガラス小玉、
- 小型重圏文鏡、
- ヤリガンナ
築造時期
- 4世紀前半
展示
- 徳島市立考古資料館
指定
アクセス等
- 名称:宮谷古墳
- 所在地: 〒779-3127 徳島県徳島市国府町西矢野
- 交通:JR徳島線 府中駅から徒歩40分から50分、2.8km。
参考文献
- 徳島市教育委員会(1993)「徳島市埋蔵文化財発掘調査概要3」
鴨都波1号墳 ― 2024年02月10日 12:01
鴨都波1号墳(かもつばいちごうふん)は奈良県御所市にある古墳時代の方墳である。
概要
葛城山麓から伸びる低い丘陵の東端の標高99mから101m、葛城山系から流れる柳田川と金剛山麓から流れる葛城川の合流地点の河岸段丘上に所在する。鴨都波1号は南北20m、東西16mの方墳である。周囲を幅約4mの周濠が巡る。埴輪、葺石はない。昭和28年から発掘調査が行われた。主体部は盗掘されておらず、木棺が出土した。規模に比べて豊富な副葬品を有する古墳である。三角縁神獣鏡が3面出土した。鏡は背(文様面)を上にして並べていた。古墳時代前期の時期における小型の古墳で短甲を副葬する例はヤマトに限られるため、他地域との武力での優越性を示すものといえる。被葬者の歯や棺材の遺存状態は良好であった。靫や槍・剣の装具などの漆塗り製品もみつかり、経済力の豊かさが見られる。葛城氏につながる勢力の中心人物と見られる。
遺構
主体部はコウヤマキ製の長さ4.3mの木棺を粘土槨で覆う。棺内は水銀朱とベンガラにより赤く塗られる。被葬者は頭を北にして仰向けで埋葬されていた。
遺物
- 三角縁神獣鏡 3面
- 三角縁吾有好道三神三獣鏡
- 三角縁二神龍虎画像鏡
- 三角縁三神三獣鏡
- 杖状木製品
- 紡錘車形石製品
- 硬玉製勾玉
- 碧玉製管玉
- ガラス小玉
- 鉄刀
- 鉄鏃
- 板状鉄斧、
- 袋状鉄斧
- 釶
指定
展示
時期
- 古墳時代前期中葉(4世紀中葉)
アクセス
- 名称:鴨都波1号墳
- 所在地:奈良県御所市三室20番地
- 交 通: 近鉄御所線「御所駅」から徒歩約7分
参考文献
- 御所市教育委員会(2002)「鴨都波16次発掘調査報告」+
殿山横穴遺跡群 ― 2024年01月21日 15:44
殿山横穴遺跡群(とのやまおうけつぼいせきぐん)は東京都世田谷区にある古墳時代の横穴墓遺跡である。
概要
武蔵野台地縁、野川に面した台地に立地し、武蔵野と立川の間の崖面に位置する。多摩川左岸の国分寺崖線斜面、標高22m 付近に立地している。台地上部は殿山遺跡・大蔵館跡、さらに古墳時代終末期の群集墳である殿山古墳群が存在する。崖線部の地質は表土下に関東ローム層で覆われ、約8m以深に固結シルトが堆積する。
調査
東京外郭環状道路(外環道)の東名ジャンクション(仮称)建設予定地に、古墳時代の横穴墓群が見つかり、2015年8月から東京都スポーツ文化事業団が発掘調査を行った。調査は平成27年6月22日から平成27年10月20日にかけて行われた。横穴墓は両袖を持つ羽子板形11、袖を持たない撥形3、不明1で、撥形では玄室奥に棺台を持つもの1基がある。 横穴は全部で17基あり、内部からは葬られた「人骨」とともに、鉄の刀などの武器や首飾りなどの装飾品が出土した。遺物は、須恵器2 点、土師器1点と出土は僅かであったが、ガラス小玉506点、切子玉15点などが出土し、鉄製品では鉄刀12 本などのほか、鞘に付帯する足金具とみられる鉄製品、弓に付帯する両頭金具、鑷子状の鉄製品、銅製品では耳環13 点などが出土した。盗掘被害に遭っていないため、副葬品の保存状態が良好であった。
見学会
発掘調査の状況を地域住民を対象に平成27年9月26日(土)に見学会を開催した。参加者数は607名であった。
遺構
- 横穴墓
- 玄室
- 羨道
出土
- 須恵器
- 土師器
- 玉類 - 勾玉・管玉・切子玉・棗玉・ガラス小玉・土玉(丸玉)
- 鉄製品〔直刀、両頭金具、刀子、鑷子状鉄製品〕
- 銅製品〔耳環〕
- 鉄鏃
アクセス等
- 名称:殿山横穴遺跡群
- 所在地:世田谷区大蔵5丁目20番地先
- 交通:成城学園前 から南に徒歩24分 1.8km
参考文献
西岩田遺跡 ― 2024年01月20日 00:05
西岩田遺跡(にしいわたいせき)は、大阪府東大阪市にある古墳時代の遺跡である。
概要
西岩田遺跡は河内平野のほぼ中央に所在する。弥生時代中期以前は河内潟の満潮時汀線より下位にあった。すなわち古墳時代より前には、河内湖より水面下にあった。弥生中期末以後の海水面の低下と旧大和川による急激な沖積作用とによって陸となり、河内湖の水域と広い千潟を前面にのでむ微高地上に集落が形成され、5世紀頃から人が住むようになった。西岩田遺跡は古墳時代には水辺の集落遺跡であった。木製農具の出土より西岩田周辺で農業が行われていたことは確実といえるが、南の集落に比較すると半農半漁であり、水上交通の拠点となっていた。2022年6月23日に現地見学会を実施した。
調査
1960年代に発見され、昭和46年には中央南幹線下水管渠築造に伴って西岩田遺跡で最初の発掘調査が実施された。出土土器のなかで近畿地方の古墳時代初頭の土器型式(庄内式から布留式古段階)と吉備地方の同じ頃の上器型式(酒津式)とが同じ地層より出土することが注目された。庄内式の甕にみられる胴部内面をヘラで削る技法は吉備地方からの影響であることが証明された。1971年(昭和46年)調査では古墳前期の井戸や奈良時代の掘立柱建物などが検出された。1982年(昭和57年)の発掘調査では、古墳時代前期の溝、奈良時代の柱穴などを検出した。横幅7.2m、奥行3.6mの掘立柱建物が検出された。奈良時代以前の建物とみられる。その下層から古墳時代中期から後期の遺物が発見された。須恵器が多く、特に高坏が多く出土した。そのほか高坏に載せる蓋、坏身、壺、甕、製塩土器、石製臼玉が出土した。その下層から籠目土器、船の櫂、有頭棒(杵や機織りに使う)、横鍬(田を均すために使う)、大型木製品(用途不明)が出土した。 2023年4月、3世紀前半の木製仮面が出土した。国内3例目である。
遺構
- 竪穴建物
- 倉庫
- 掘立柱建物
- 土壙-
- 溝
- 井戸
遺物
- 土師器
- 須恵器
- 瓦器片
- 古瓦片
- 摺鉢片
- 石製臼玉
- 製塩土器
指定
時期
アクセス
- 名称:西岩田遺跡
- 所在地:大阪府東大阪市西岩田3丁目/4丁目
- 交 通:近鉄奈良線 若江岩田駅 徒歩16分
参考文献
- 瓜生堂遺跡調査会(1976)「西岩田・瓜生堂遺跡 試掘調査報告書Ⅰ」
修羅 ― 2024年01月12日 00:02

修羅(しゅら)は巨石や巨木などの重量物を運ぶための木製のそりである。
概要
1978年(昭和53年)、大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳の周濠の底から大小二点の修羅と梃子棒が出土した。出土の事実は同年4月5日であったが、修羅発見の報道は考古学上の大発見として評判となり注目を集めた。4月15日(土)の現地説明会には、全国から12000人の見学者が集まった。大は長さ8.8m、小は2.9mである。出土した修羅は元興寺文化財研究所で14年間に及ぶポリエチレングリコール含浸法による保存処理が行われ、大型修羅と梃子棒は「大阪府立近つ飛鳥博物館に展示されている。小型修羅は藤井寺市立図書館の展示室に展示されている、大小二点ともV字形の二股橇状である。梃子棒は修羅を引く時に方向転換などのために用いたと推測される。松面古墳の修羅は古墳時代で2例目である。
材料
修羅(大)は全長8.8メートルという大型品で、アカガシの巨木の二股部分を利用して一木で造り出し、全体を丁寧に加工する。頭部と脚部には孔をあけ、修羅を引く綱を通したと考えられる。修羅(小)はクヌギの二股部分を利用しており、小型で加工は粗い。梃子棒はアカガシ製の丸木の棒である。
牽引実験
1978年(昭和53年)、朝日新聞社は厚生文化事業として修羅の復元に取り組み、それを使った牽引実験を行った。修羅は徳之島のカシの大木を使い、高知市の打刃物師が作った斧の一種のヨキを使って削り、発掘した修羅に近い形状とし、全体の形や綱を通す穴も実物と同じにした。牽引実験は、重量物運送会社や庭園材料会社が協力し、藤井寺市の東部を流れる大和川の河川敷で同年9月3日に行われ。多くの市民や中学生、自衛隊員など約400人が牽引の人手として協力し、14トンもある花崗岩を乗せて綱で曳く牽引実験が何通りも行われた。復元された修羅は、後に藤井寺市に寄贈され、現在は道明寺天満宮の境内に保管展示される。
出土例
- 修羅 - 三ツ塚古墳、大阪府藤井寺市、5世紀頃
- 修羅神 - 松面古墳、千葉県木更津市、古墳時代
参考文献
- 「古墳時代のそり、千葉にも 土木運搬「修羅」、大阪に続き2例目」朝日新聞、2019年5月4日
- 朝日新聞社 (1979)『修羅―発掘から復元まで』朝日新聞社
蘇我満智 ― 2024年01月11日 18:15
蘇我満智(そがの まち)は古墳時代の豪族である。 『古語拾遺』、『尊卑分脈』では「蘇我麻智」と表記される。
概要
日本書紀は蘇我氏の出自を伝えないが、『公卿補任』に「満智-韓子-高麗-稲目」の系譜を記す。また『尊卑分脈』は「彦太忍信命(孝元天皇の皇子)-屋主忍男武雄心命-武内宿禰-石川宿禰-蘇我麻智宿禰」の系譜を伝える。 両文献を合わせれば、「彦太忍信命-屋主忍男武雄心命-武内宿禰-石川宿禰-蘇我麻智-蘇我韓子-蘇我高麗-蘇我稲目」の系譜となる。もちろん、すべて正しいという保証はない。 太田亮(1942)はここから蘇我氏の系譜は武内宿繭を祖とするとした。
財政官
『古語拾遺』に「諸国貢朝年々盈ち溢れ、更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校せしめた」と書かれる。
蘇我満智は財政管理にたけていたため、朝廷において財務管理を行っていた可能性が想定されている。蘇我氏はこの時期から、朝廷で重要な地位を占め、帰化人を配下として、財政権を握ったと理解されている(阿部武彦(1964))。
古事記の記載
古事記には「蘇我石川宿禰は蘇我臣・川辺臣・由中医・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣等の祖先である」と書かれる。この意味を、阿部武彦(1964)は蘇我一族が分化してそれぞれの氏を称したと解釈している。蘇我氏から分れた氏族が朝廷の重臣として存在したことが権力掌握の源のひとつになったと主張する。そのほか帰化人を配下にして勢力を伸長したことについては関晃氏の研究から、是認できるものとされている。
渡来人説
蘇我満智を百済の権臣「木満致」と同一人とし、蘇我氏の出自を渡来人とする説がある。渡来人説を唱えるのは、奈良県文化財保存課の坂靖課長補佐(当時)である。「蘇我氏の出自を考古学的に検証すると、飛鳥の開発を主導した渡来人にたどりつく」とし、出身地を朝鮮半島南西部の全羅道地域との説を唱える。
日本書紀
- (原文)二年春正月丙午朔己酉、立瑞齒別皇子爲儲君。冬十月、都於磐余。當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓圓、此云豆夫羅大使主、共執國事。十一月、作磐余池。
- (大意)履中二年(401年)、磐余に宮廷を作り、蘇我満智は平群木菟、物部伊?弗、葛城円とともに政務をとった。
古事記
- (原文)蘇我石川宿禰は蘇我臣・川辺臣・由中医・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣等之祖也。
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 斎部広成、西宮一民(1985)『古語拾遺』岩波書店
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 坂靖(2018)『蘇我氏の古代学』新泉社
- 阿部武彦(1964)「蘇我氏とその同族についての一考察」北海道大学文学部紀要12,pp.123-135.
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