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法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘2023年06月03日 12:58

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘(ほうりゅうじ こんどう しゃかさんぞんぞう こうはいめい)は、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂にある本尊・釈迦三尊の光背裏面に刻されている銘文である。釈迦三尊像は国宝である。

概要

196文字の銘文である。196字を14行、各行14字で鏨彫りする。銘文に造像の年紀や聖徳太子の没年月日などが書かれる。、造像の施主・動機・祈願・仏師のすべてを記している仏像としては日本最古である。太子の命日を伝える最古の史料である。『日本書紀』に推古天皇29年(621年)2月5日とあるが、今日では本銘文の内容が太子の没年月日として定着する。 法隆寺金堂釈迦三尊像光背が本文中に書かれる聖徳太子死没の翌年の623年(癸未)に作られたものであるかは、異論が提出されている。7世紀後半や8世紀説もある。

623年刻字の否定説

以下の論拠がある。

  1. 「法興」という年号は存在しない(福山敏男(1935))
  2. 「法皇」の語は、後世に天皇号が成立した以後のものである(福山敏男(1935))
  3. 「仏師」の語は、和製語で、その使用は正倉院文書によると天平6年(734年)以後

東野の反論

1989年の移動調査により、光背や三尊像が後代の作とすることは否定された。 すると銘文が「追刻」であるかが問題となる。つまり「上宮法皇」の記載が623年に存在するのか、という疑問である。しかし東野は次の反論を行った。

  1. 「上宮法皇」は天皇号の成立がなくともあり得るとする。
  2. 「仏師」の記載例は奈良時代以降とする見解もあるが、史料的限界から断定できない。
  3. 現物調査では釈迦三尊像と同時に作られたと考えられる。 東野は刻銘の字画内に鍍金が存在するかどうか、字画の周囲にメクレが存在するかを検討した。鍍金が存在すれば、銘は造像の製作過程で入れらたと判断できる。東野は2000年3月に法隆寺で調査した。その結果、光背裏面に全面に点々と鍍金があることを確認した。刻銘のある部分には周囲にそれ以外とは異なる平滑さが認められる。平滑な部分は光背製作過程で意図的に製作されたと考えられる。拓本の採取過程で生じたものではないとした。 光背は製作当初から現在の銘文を入れるように計画されていたことを示す。釈迦三尊像と銘文は一体のものである。

昭和資材帳調査

1989年の昭和資材帳調査で、釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框から「辛巳年八月九月作□□□□」の墨書が発見された。この下框材は建造物の扉を転用したものとみられ、釈迦三尊像の完成が623年であることから、この墨書の「辛巳年」は621年に比定されている。 森岡隆(2005)は、「当初から像と台座が一具であったことを示すもの」とする。

光背銘

  • (原文)
    • 法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼
    • 前太后崩。明年正月廿二日、上宮法
    • 皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並
    • 著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
    • 懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
    • 像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
    • 住世間。若是定業、以背世者、往登浄
    • 土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
    • 即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
    • 如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
    • 具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
    • 出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
    • 彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
    • 同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造
  • 大意
    • 法興31年(621年)12月、聖徳太子の生母である穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年(法興32年、622年)正月12日、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、同年に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。

指定

参考文献

  1. 東野裕之(2004)『日本古代金石文の研究』岩波書店
  2. 福山敏男(1935)「法隆寺の金石文に関する二、三の問題」『夢殿』13号
  3. 書学書道史学会 (編)、森岡隆(2005)『日本・中国・朝鮮/書道史年表事典』萱原書房,p.275

江田船山古墳大刀銘2023年06月03日 12:57

江田船山古墳大刀銘/東京国立博物館

江田船山古墳大刀銘(えだふなやまこふんたちめい)は江田船山古墳から出土した大刀に刻まれた銘文である。東京国立博物館に保管展示されている。

概要

75文字の銘をもつ銀象嵌銘大刀である。全長90.6センチメートル、5世紀後半に日本で書かれた現存する最古の金石文であり、獲加多支鹵大王は雄略天皇に比定する説が通説となっている。刀は練りを80回、打ちに打った三寸の刀など、治天下、八十練、十振など日本独特の表現がある。埼玉古墳群・稲荷山古墳の獲加多支鹵大王と同じ文字が刻まれる。大王が刀を持つ者の政治力・軍事権を認めたと解釈されている。

発見の経緯

1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳から横口式家型石棺が検出され刃渡り85.3センチメートルの大刀と銀象嵌の銘文が発見された。大正末期に日本刀の研師により研磨されたが、研磨により失われた文字が生じた。

原文

  • 台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利)弖、
  • 八月中、用大鐵釜、并四尺廷刀、八十練、□(九)十振、
  • 三寸上好□(刊)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、
  • 得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、
  • 書者張安也

大意

天下を治めていた獲加多支鹵大王の世に、典曹に奉事していた人の名前は无利弖(ムリテ)。八月中、大鉄釜を使って、四尺(1m強)の刀を作った。刀は練りに練り、打ちに打った立派な刀である。この刀を持つ者は、長寿して子孫も繁栄し、さらにその治めている土地や財産は失わない。刀を作った者は伊太和、文字を書いた者は張安である。

治天下

稲荷山鉄剣銘に「佐治天下」と共通しており、倭国が早い段階から独自の中華意識を形成した証拠とされる。しかし、中国では「治天下」は「王」を対象とする語であることは栗原朋信により指摘されている。大刀銘の「治天下」は皇帝の臣下の王の統治を示すものとの意図が垣間見えるため、独自の中華意識との証拠にはならないとの指摘がある。

獲加多支鹵大王

稲荷山鉄剣銘に刻まれる獲加多支鹵大王と同一とみられる。本作には年紀の記載がないため、雄略天皇の時代とは特定できない、「大王世」という表現は過去の治世を振り返る用語とされる(東野治之(2004),p.103)。大刀銘の製作時点では大王は没していたとみるべきとされる。

指定

昭和40年に国宝に指定された。

参考文献

  1. 東野治之(2004)『日本古代金石文の研究』岩波書店
  2. 栗原朋信(1978)『上代日本対外関係の研究』吉川弘文館

稲荷山古墳金錯銘鉄剣2023年06月03日 12:55

稲荷山古墳金錯銘鉄剣/埼玉県立史跡の博物館

稲荷山古墳金錯銘鉄剣(いなりやまこふんきんそめいてっけん)は稲荷山古墳から出土した大刀に刻まれた銘文である。さきたま史跡の博物館で保管展示されている。

概要

1968年(昭和43年)、埼玉県行田市の稲荷山古墳で発掘された鉄剣は当時は赤サビで文字は完全に消えた状態であった。10の間、鉄剣は当時新設されたばかりのさきたま資料館(現さきたま史跡の博物館)に一般公開され、当初はただの展示物のひとつであった。 20世紀日本考古学の最大の収穫とされる。古墳時代の刀剣に記された銘文としては最も長文であり、内容は日本の国の成り立ちに関係することが含まれる。その歴史的価値が極めて高いことから、1983年に国宝に指定された。

発見の経緯

当初は、愛宕山古墳を発掘する予定であったが、この古墳が完璧な形なので、 掘り起こすのはもったいないということとなり、急遽、稲荷山古墳に変更された。 昭和43年の発掘調で墳頂部を掘りおこすと、2基の埋葬施設が発見された。 鏡や装身具、馬具、武器等、豪華な副葬品とともに「金錯銘鉄剣」が発見された。 後日となる、昭和53年(1978)5月中旬、サビ防止のために鉄剣が奈良の元興寺文化財研究所に送られた。 同年7月27日、保存処理を専門とする同研究所女子研究員の大崎敏子氏が、サビの中に わずかに輝く金色の光を発見した。 同年9月11日、工業用のレントゲン装置を使って、鉄剣にエックス線をあてて写真撮影をすると、 鉄剣の両面から115文字が浮かび上がった。同年9月12日、文字の写ったフィルムを奈良文化財研究所に送り、 銘文の解読が行われた。 解読が終了したあと9月19日に埼玉県教育委員会による記者発表が行われた。 修復の結果、金象嵌の115文字が見えた。剣身の中央に切っ先から柄つかに向かって、 表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が刻まれている。 文字の発見後は、錆を丹念に落とす作業が続けられ、金文字が甦った。現在、現物はチッソガスで 密封したケースに納められ、資料館に展示されている。

「よみがえった銘文」

読売新聞、昭和53年7月27日に、モルタル造りの鉄器処理作業室で研究員大崎敏子(28)は、サビ果た鉄剣を樹脂液に浸して固める前にブラシで土ぼこりを取り除いている最中、キラッと光るものを見つけた。カッターの先で慎重にサビを落とすと、長さ3ミリほどの細い金色の筋がみえた。「これは鉄ではない」と直感した。

原文

  • 辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、
  • 其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
  • 其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、
  • 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

大意

    • 辛亥年7月中、記す。ヲワケの臣上祖の名はオホヒコ。其の児の名はタカリのスクネ。其の児の名はテヨカリワケ。其の児の名はタカヒシワケ。其の児の名はタサキワケ。其の児の名はハテヒ。
    • 其の児の名はカサヒヨ。其の児の名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺が、シキの宮に在る時、吾は天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記すものである。

補足

辛亥年は471年が定説である。 当時の日本では「○○人」という名称で大王に仕える役職を示していたと考えられている。「杖刀人」は「刀剣で武装した人」という意味であり、軍事官僚と考えらる。「首」は「かしら」の意味で、「杖刀人首」とは「護衛隊長」の役職を指す。この銘文は日本古代史の確実な基準点となった。「其の児の名」は前の人物の子供と解釈されるが、『海部氏系図』が親子関係だけでなく、国造や祝の地位を継承した族長を「児〇〇」と記しているため、必ずしも血縁者とは限らないという説がある。

金象嵌の材質

昭和55年の蛍光X線分析では金線の金の含有費は72%から73%で残りは銀とされた。鞘木と柄木の材質は桧の可能性が高いとみられる。 2000年、2001年の1字ごとの蛍光X線分析では、成分比の異なる2つの部分が明らかになった。第一は金70%、銀30% の材料と第二は金90%、銀10%の材料であった。そのほか金99%が3か所あった(野中仁・田中英司(2011))。

江田船山古墳の大刀

以前に熊本の江田船山古墳から発掘された大刀にも同じような銘が記載されていたが、こちらは文字の一部が欠けており判読できなかった。 肝心の大王名の部分の字画が相当欠落していた。この銘文は、かつては「治天下??□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文が発見されたことにより、「獲□□□鹵大王」 を「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となった。稲荷山古墳の鉄剣が出たことから、同じワカタケル大王と推定されている。

指定

  • 1981年6月9日(昭和56.06.09) ? 重要文化財
  • 1983年6月6日(昭和58.06.06) ? 国宝

参考文献

  1. 東野治之(2004)『日本古代金石文の研究』岩波書店
  2. 高橋一夫(2005)『鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』(新泉社)
  3. 野中仁・田中英司(2011)「国宝金錯銘剣の貸出と最新分析」埼玉県立史跡の博物館紀要5,pp,131-138
  4. よみがえる古代の大和「謎の五世紀-雄略天皇と埼玉稲荷山古墳の国宝・金錯銘鉄剣」東京新聞、2013年9月15日

隅田八幡鏡2023年06月03日 12:49

国立国会図書館デジタルコレクション、紀伊國名所圖會 [初]・2編6巻, 3編6巻. 三編(二之巻)

隅田八幡鏡(すだはちまんきょう)は和歌山県の隅田八幡神社が所蔵する古代の銅鏡である。「隅田八幡神社人物画像鏡」ともいう。

概要

国宝である。古代の日本語を知るための重要な資料とされている。断片的ではあるが、同時代資料として当時の政治や社会の様相を探る上で重要な史料である。現物は東京国立博物館に寄託されている。

原文

  • (原文)癸未年八月日十大王与(年)男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻念長寿(奉)、遣開中費直・穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此竟
  • (銘文大意) 癸未年八月に日十大王は男弟王が意柴沙加宮にあるとき、斯麻は長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わし、白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。

年号

癸未年は鏡を製作した年とみられる。443年説と503年説とがある。どちらも倭の五王時代となる。考古学的年代観から503年説が有力との説があるが、443年を押す説もある。

  • 443年は古墳時代中期で、宋から「安東将軍倭国王」を正式に任命された年となる。倭王は「済」である。
  • 503年は倭王武が「征東大将軍」の称号を得た翌年である。武寧王の在位年代にはまるのは503年であろう。
  • 坂本太郎・井上光貞他(1994)は癸未年を443年とする説が有力であるとする。

「開中費直」とは

日本書紀が引く百済本紀中に登場する「加不至費直(河内直)」と同一人物との見解がある。「開中」は、(参考文献1) カフチ説、(参考文献2) 「開中」は百済地名で、『日本書紀』の「辟中」などであろうとする説がある。費直はもともと百済で使用されていた呼称であり、郡の長で王に仕えるリーダーであったとされる。

斯麻

斯麻は武寧王陵の発掘の墓誌銘に「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸兎年五月丙戊朔七日壬辰崩」と書かれている。)癸未年は523年である。『日本書紀』武烈四年、この年に嶋王が即位し、武寧王といったとの記事がある。百済新撰にも武寧王を斯麻王というと書かれる。したがって斯麻は武寧王と考えても矛盾はない。開中費直と今州利は武寧王が派遣した人物とみることができる。

男弟王

男弟王を笹山晴生他(2020)は503年の解釈であれば、即位前の継体大王と解釈している。しかし坂本太郎・井上光貞他(1994)は男弟王を継体に充てるのは音韻学から、無理があるとする。すなわち男弟は「Wöötö」(またはwötö)の発音と推定されるので、男大迹の読み「wöfödö」とは異なるとする。503年としても、即位前の継体が忍坂宮にいたとする記録はない。癸未年を443年とすると、継体大王とは結びつかない。

意柴沙加宮

笹山晴生・五味文彦(2020)は「忍坂宮」とする。『日本書紀』・『古事記』に忍坂が現れるのは、忍坂大中姬命だけである。坂本太郎・井上光貞他(1994)は允恭の妃の忍坂大中姬命の宮とする説が有力であるとする。刑部(忍坂部)は,この宮の経営のための費用を貢進する部民であった。

王号

天皇ではなく、大王と称している。この時代の表現として適切である。天皇号の成立は天武朝と考えられている。

日十大王

篠川賢(2010)はどの大王かは特定できないが、継体の1代前の大王であろうとする。 坂本(1991)は原文を「癸未年八月日十大王年」を「癸未年8月10日大王の年」と解釈している。笹山晴生・五味文彦(2020)もこの解釈である。

参考文献

  1. 篠川賢(2010)「隅田八幡宮人物画像鏡銘小考」日本常民文化紀要 28,pp.127-150
  2. 石和田幸(1996)「隅田八幡神社人物画像鏡における 「開中」 字考」同志社国文学 45,pp. 63-72
  3. 石和田幸(2001)「上代表記史より見た隅田八幡神社人物画象鏡銘_「男弟王」と「斯麻」は誰か」同志社国文学54,pp.1-8
  4. 坂本義種(1991)「隅田八幡人物画像鏡」『古代日本金石文の謎』学生社
  5. 笹山晴生・五味文彦(2020)『日本史史料集』山川出版
  6. 坂本太郎・井上光貞・家永三郎他・大野晋(1994)「日本書紀(三)」岩波書店

藤氏家伝2023年06月03日 12:09

藤氏家伝(とうしかでん)は奈良時代後半に成立した藤原氏の家史である。

概要

上巻と下巻からなる。藤原鎌足伝は「大織冠伝」とも言われる。藤原不比等伝は失われている。上巻は「大師」すなわち太政大臣である藤原仲麻呂が編纂を主導したとみられる。下巻は華厳宗の学僧である延慶の執筆編集とみられる。延慶は藤原仲麻呂の家僧と想定されている。藤原仲麻呂が祖先の顕彰を目的として編纂したとみられる。

構成

構成は以下の通りである。

  • 上巻
    • 藤原鎌足伝
    • 貞慧伝
  • 下巻
    • 武智麻呂伝

成立

天平宝字四年(760年)から天平宝字六年(762年)頃に成立した藤原氏の家史である。

『日本書紀』との関係

鎌足伝と『日本書紀』との関係は横田健一氏の見解がほぼ通説となっている。

参考文献

  1. 沖森卓也, 佐藤信, 矢嶋泉 (翻訳)『現代語訳 藤氏家伝』筑摩書房
  2. 横田健一(1973)『白鳳天平の世界』創元社
  3. 横田健一(1973)「大化の改新と藤原鎌足」史林42 (3),pp.82-411

先代旧事本紀2023年06月03日 12:06

先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)は平安初期に編纂されたと考えられる歴史書である。

概要

全10巻、神代から推古大王に至る歴史を記す。著者は不明であるが、「天孫本紀」に尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記している。ほかに物部氏関係の事績が多くみられるので、本書の著者は物部氏の一族と推定されている。序文は後の時代の偽作とされる。 江戸時代に多田義俊『旧事紀偽撰考』、伊勢貞丈『旧事紀剥偽』などにより偽書として排斥され、明治以降にも継承された。 しかし『古事記』『日本書紀』等に見られない独自に書かれている部分として、特に「國造本紀」、「天孫本紀」がある。近年では古代史の史料として重要となっている。「國造本紀」では化改新以前の百四十四ヵ国の国造定賜時期、その初代を記す。「天孫本紀」には現存しない物部文献からの引用があるという意見もある。 『先代旧事本紀大成経』とは別書である。

構成

  1. 巻第1 神代本紀 陰陽本紀
  2. 巻第2 神祇本紀
  3. 巻第3 天神本紀
  4. 巻第4 地祇本紀
  5. 巻第5 天孫本紀
  6. 巻第6 皇孫本紀
  7. 巻第7 天皇本紀
  8. 巻第8 神皇本紀
  9. 巻第9 帝皇本紀
  10. 巻第10 國造本紀
  11. 語句索引

写本

天理大学本は完本として現存の最古本であり、古代史研究上に貴重である。 天理大学本は、ト部兼永が大永元年から同二年にかけて書写したものとされる。 写本は重要文化財となっている。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 工藤浩・松本直樹・松本弘毅校注・訳(2022)『先代旧事本紀注釈』花鳥社

古語拾遺2023年06月03日 12:05

古語拾遺(こごじゅうい)は平安時代初期の貴族の斎部広成が取りまとめた歴史書である。

概要

宮中祭祀を担当していた斎部氏が、正史に漏れている伝承を書き記したものである。平城天皇から朝儀に関する召問があり、それに応えるために作成された。神代では『古事記』や『日本書紀』などの史書から漏れた斎部氏に伝わる伝承を記載する。津田左右吉は史書としての価値は低いと評価したが、近年では再評価されつつある。

構成

構成は以下の通りである。

  • 本文
    • 神代の古伝承  天地開闢、日神、素神、大己貴神、天孫
    • 神武天皇以降、天武天皇までの古伝承
    • 古伝承から漏れた十一条
    • 御歳神祭祀の古伝承

成立

807年(大同2年)2月13日に作成されたとされている。写本によっては、806年(大同1年)とするものがある。

参考文献

  1. 斎部広成・西宮一民(校注)(1985)「古語拾遺」岩波書店