天寿国繡帳 ― 2023年07月22日 00:37
天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町の中宮寺にある日本最古の刺繍遺品である。
概要
622年(推古30年)、聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子の死後、推古に依頼して采女に天寿国の様子を刺繍に仕立てたものとされる。 繍帳二帳よりなり、そこには百個の亀甲が刺繍され、亀の甲には一個に四字ずつ、都合四百繍帳造顕の由来が文字で書かれていた。銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に書き留められた。それによれば絵を描いたのは東漢末賢、高麗加西溢、漢奴加己利、これを監督したのは椋部秦久麻とされる。現在は、鎌倉時代の模本の断片と、当初の断片を貼り交ぜた状態となっている。 中宮寺本堂に安置されているものは複製であり、実物は奈良国立博物館に寄託されている。
大意
前半では斯帰斯 宮治天下天皇(欽明天皇)から等已刀弥弥乃弥己等(聖徳太子)とその妃の多至波奈大女郎(橘大郎女)の系譜を記載し、辛巳十二月廿一癸酉日(推古29年12月21日,621年)に孔部間人母王(聖徳太子の母・穴穂部間人皇女)がなくなり、翌は二月廿二日甲戌には、聖徳太子もなくなった。多至波奈大女郎(橘大郎女) はこれを悲しみ嘆き、推古天皇(祖母)に太子は「世間は虚仮(こけ)である。仏だけが真実である」と語った。太子は天寿国に往生したが、その様子は見えない。太子が往生した天寿国を図に表して冥福を祈りたいと述べた。推古はもっともなことと思い、采女らに命じて繡帷二帳を作らせた。
原文
- 斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意
- 斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大
- 臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥
- 己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃弥
- 己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥
- 己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為
- 后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之
- 子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃弥己
- 等娶庶妹 名等已弥 居加斯支 移比弥乃
- 弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名
- 尾治王多 至波奈等 已比乃弥 己等娶庶
- 妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治
- 天下生名 等已刀弥 弥乃弥己 等娶尾治
- 大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在
- 辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母
- 王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩
- 于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天
- 皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使 我大皇與
- 母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世
- 間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王応
- 生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看
- 悕因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之
- 悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸
- 采女等造 繡帷二張 画者東漢 末賢高麗
- 加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻
参考文献
- 文化庁編(2020)『発掘された日本列島』共同通信社
宇治橋断碑 ― 2023年07月13日 00:02
宇治橋断碑(うじばしだんぴ)は京都府宇治市にある古代の架橋碑である。
概要
1791年(寛政3年)、江戸時代に橘寺の石垣から発見された。大化二年の「大化」年号を記載する現存唯一の金石文である。『帝王編年記』(14世紀後半成立)に碑の全文が収録されている、 碑は道登が橋をかけたとするが、『続日本紀』は道昭とする。『日本霊異記』、『扶桑略記』[3]、『今昔物語集』は道登が架けたとする。しかし、道昭は大化二年には18歳頃であるから、僧侶になっているか分からない頃である。その後に遣唐使の学僧として唐に留学しているから、大化二年の時期の架橋は考えにくい。『続日本紀』によれば、道昭は入唐求法し、帰国後は元興寺に住んでいた。帰国後は社会事業をしたとされており、その事跡と宇治橋架橋とは混同されたと思われる。
原文
- 浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿
- 世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜
- 即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁
読み下し
- 浼浼(べんべん)たる横流、その疾きこと箭(や)のごとし。修々たる征人、騎を停めて市をなす。重深にいかんと欲し、人馬は命が助かる。古より今に至るまで航竿を知ることなし。
- 世に釈子あり。名を道登という。山尻(やましろ)慧満の家に生まれる。大化二年、丙午の年、この橋を搆立し、人畜を済度す。
- 即わち微善により、ここに大願を発し、因を此橋に結び、果を彼岸になす。法界衆生、あまねく願いを同じくする。夢裏空中、その昔縁を導かん。
意味
浼浼(べんべん)は水量が豊かであることを意味する。横流は孟子に「洪水横流」となり、水が多量に流れていることを示す。「騎を停めて市をなす」は、馬出来た人があまりに流れが速いので、滞留する人が多いことを意味するが、そこに市場があったかもしれない。2行目は橋が掛かって人畜が救われたと語る。「亡」は逃れるという意味であり、亡くなる人も助かる人もいたと解釈する。
地名
「山尻」をやましろと読むのは古い書法である。聖徳太子伝のなかに山尻が登場する。奈良時代や『日本書紀』では「山代」表記で、『続日本紀』では「山背」である。
アクセス等
- 名称:宇治橋断碑
- 所在地:〒611-0021 京都府宇治市宇治東内11(橋寺内)
- 交通:JR奈良線宇治駅から徒歩で10分
参考文献
- 堀池春峰(1991)「宇治橋断碑」『古代日本 金石文の謎』学生社
- 蕨由美(1996)「「宇治橋断碑」を訪ねて」さわらび通信,pp.62-68
旧唐書 ― 2023年07月13日 00:00
旧唐書(くとうじょ)は唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)を記述した歴史書である。
概要
成立時は『唐書』の名称であった。その後、『新唐書』の編纂後に『旧唐書』と呼ばれるようになった。 巻数は200巻である。本紀20巻、志30巻、列伝150巻、 列伝第149巻上に「高麗 百濟 新羅 倭國 日本」(東夷)が記載される。 五代後晋の劉昫(887-946)による奉勅撰とされる。
編纂者
『旧唐書』は五代後晋の劉恂撰と言われていますが、実質的には張昭遠と賈緯による編纂である。正史の編纂では、前の王朝が自前で編纂した実録や国史等の歴史書を素材に用いていた。ところが唐末五代の戦乱により、歴史書の多くが失われるか、編纂すらされなかった。『旧唐書』編纂時点で材料が足りなかった。そこで当時現存していた行政文書等の各種記録が用いられたが、編集を加えることなく孫引きされた箇所がみられる。この点は現代の研究者からすれば史料としての価値が高いとみられる。
新唐書との比較
『旧唐書』は原史料をそのまま引用して取入れているのに対し,『新唐書』では史料の採集範囲は広いものの、書き改められているので、史料的価値は『旧唐書』が優れる。
倭国と日本国
倭国と日本とを分けて書いて2つの記事となっている。日本が倭国を併合したという記事と倭国の名前が日本国になったという記事が並列に書かれている。 これは倭国と日本とを別の国と思い違いしたのであろうか、それとも倭国の時代と日本と改称した時代を かき分けたのであろうか。「倭国伝」の末尾は 648年の記事で終わる。日本伝の最初の記事は703年である。この間に倭国が日本国に名称変更し、 その承認を求めに703年の遣唐使を派遣したとも考えられる。 森公章(2008)は702年の遣唐使の際には、日本側でも日本への国号変更理由が分からなくなっていたと指摘する。 古田武彦説では「九州王朝を併合した大和政権が九州王朝から「日本」という国号を受けついだ」としているが、 これはあり得ないことである。「九州王朝を併合した」なら、その頃に大規模な戦乱がなければ説明がつかない。 古田説は、史書の都合のよい所だけを切り取って解釈しているようにみえる。 なお『新唐書』では、2つの国を一本化して記述している。
倭伝
- (大意)倭国は古の倭奴國である。京師からは1万4000里の距離で新羅の東南大海中にある。山島によりて居し、東西は五月の行程,南北は三月の行程である。世々中国と通じる。城郭はなく、木で柵を作り草で家を作る。四面に小島があり五十餘國が服属する。王の名は阿每(あめ)、一大率を置き,諸国を檢察する,皆これを畏れる。官位に十二等がある。訴訟では,匍匐して前にでる。その地には女が多く、男は少ない。頗の文字を書き,佛法を敬う。みなはだしである。布で前後を蔽う。貴人は錦帽をかぶる。百姓は椎髻で,冠や帶を付けない。女性は淡色の衣で、腰に襦を垂らす。髪を後ろ束ね,銀花の八寸の長さを左右に数枝つけ、それにより貴賤や等級を表す。衣服のきまりは,新羅によく似る。
- (原文)倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。依山島而居,東西五月行,南北三月行,世與中國通。其國,居無城郭,以木為柵,以草為屋。四面小島五十餘國,皆附屬焉。其王姓阿每氏,置一大率,檢察諸國,皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者,匍匐而前。地多女少男。頗有文字,俗敬佛法。並皆跣足,以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽,百姓皆椎髻,無冠帶。婦人衣純色裙,長腰襦,束發於後,佩銀花,長八寸,左右各數枝,以明貴賤等級。衣服之制,頗類新羅。
- (大意) 631年、法物を献上し、検視した。太宗は道が遠いことを憐れみ、毎年の入貢を中止させた。新州の刺史・高表仁を持節とし安撫させた。表仁は綏遠之才がないため,王子と爭いを起こした。朝命を述べずに帰国した。
- 貞觀五年,遣使獻方物。太宗矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。
日本伝
- (大意)日本は倭国の別種である。その国は火の出る方に違いので、日本と名を付ける。あるいは、倭国の名が雅でないため、日本としたという。あるいは日本は小国で、倭国を併合したという。入朝するものは,多いに矜るところ大で、誠実に答えない。故に中國は疑いを持った。また、其國の界じゃ東西南北それぞれ數千里で,西界と南界は大海に至る。東界、と北界大きな山で区切られる。山の外側は毛人の国である。
- (原文) 日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,並倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山為限,山外即毛人之國。
- (大意)703年、大臣朝臣真人(粟田真人)が来て方物を献上した。真人は中國の戶部尚書に似る。進德冠をカムリ、その頂に花を作り,分れて四散させる。身は紫の袍をまとう。腰帶は絹(帛)である・真人は經史を好み、屬文を理解する。たたずまいは溫雅である。則天は宴麟德殿で宴会を催し,司膳卿を除した。その後、本國に帰った。
- (原文) 長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者,猶中國戶部尚書,冠進德冠,其頂為花,分而四散,身服紫袍,以帛為腰帶。真人好讀經史,解屬文,容止溫雅。則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。
- (大意)713年、遣使が来朝した。儒士に教を授けるよう要請があった。四門助教の趙玄默に勅して、鴻臚寺ので教えを授けた。また玄默に闊幅布をもって束修の礼(授業料)とした。題して「白龜元年の調布」という。人々は偽物と疑った。得た錫賚で支柱の文籍をことごとく買い、海に浮かんで還った。副使の朝臣仲滿(阿部仲麻呂)は、中國を慕いとどまった。姓名を朝衡と改め、左補闕や儀王友を歴任した。衡は京師(長安)に留まること五十年書籍を好み、帰郷させようとしたが去らずに逗留した。753年、ふたたび遣使した。上元年間に衡を抜擢して左散騎鎮南都護とした。802年、遣使して留學生の橘免勢、學問僧の空海が來朝した。806年,日本国の使判官高階真人(遠成)は上して言い「前件の学生は藝業が達成され本國に帰ることを希望している。臣と同行して帰国するように要請する」というのでこれに従った。839年、又遣唐使が朝貢した。
- (原文) 開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以為束修之禮。題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名為朝衡,仕歷左補闕、儀王友。衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。天寶十二年,又遣使貢。上元中,擢衡為左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。開成四年,又遣使朝貢。
参考文献
- 石原道博編(1986)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝』岩波書店
- 藤堂明保, 竹田晃,影山輝國 (2010)『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』講談社
- 森公章(2008)『遣唐使と古代日本の対外政策』吉川弘文館
翰苑 ― 2023年07月12日 23:10
翰苑(かんえん)は、中国唐代の顕慶5年(660年)に張楚金が撰して、雍公叡が注をつけた類書である。
概要
中国では早く散逸しており、中国では既に原文・写本共に失われている。現在残っているのは太宰府天満宮に巻卅蕃夷部1巻の抄本だけである。書体から平安初期に作られた写本である。匈奴・烏桓・鮮卑・倭国・西域などの15の項が立てられる。平安時代の写本であるが、引用した書物には現在伝わらないものが多い。現存最古の類書である隋の『北堂書鈔』と並んで、六朝の古い類書のスタイルを残している。 大正6年に黒板勝美博士により発見された。
評価
昭和29年3月20日、国宝に指定されている。「蕃夷部」には、高句麗の官等と政治状況、綿織物などの生産基盤、鴨緑江の起源、三韓の位置、百済の年代呼称など、現存する他の史書には見られない記録が多く書かれている。
刊行
1922年に京都大学から影印が出版された。1977年に菅原道真の1075年忌事業として釈文・訓読文を付して刊行した。 韓国の学界が日本に伝わる『翰苑』の漢文テキストを考証し、内容を韓国語で解説した訳注本が出版された。韓国研究者20人余が、約3年をかけて講読と比較研究を行ったものである。
史料の価値
巻第三十蕃夷部の残巻が太宰府天満宮西高辻家に残存しており,《三国志》東夷伝研究の重要史料となっている。誤字、脱字が多いが、後漢書、魏志等からある程度は修復可能である。魏志や後漢書に比べると史料としては劣るが、今は存在せず名前だけが残っている歴史書の『魏略』『高麗記』が引用されているところに価値がある。
体裁
幅27.6cm、 長さ1585.2cm、 全長28紙、 1紙22~23行、 1行16~17字詰め(割注は1行22~23字詰め)
注・参考文献
- 張楚金・雍公叡:注、竹内理三:釈文・訓読文(1977)『翰苑』太宰府天満宮文化研究所
- 張楚金・雍公叡・湯浅幸孫:校釈(1983)、『翰苑校釈』国書刊行会
- 張楚金・雍公叡(2019)『訳注 翰苑』東北亜歴史財団
- 张中澍・张建宇(2015)『翰苑·蕃夷部』校译 ,吉林文史出版社
小野毛人墓 ― 2023年06月04日 00:56
小野毛人墓(おののえみしのはか)は京都市左京区上高野で出土した飛鳥時代、天武期の官人である小野毛人の墓誌である。小野毛人は小野妹子の子である。
概要
南方に松ヶ崎、修学院のから山城盆地を望み、東には比叡山を仰ぐ丘陵頂部にある。 史書では小野毛人の業績は不明であるが、1613年(慶長18年)に現在の京都市左京区上高野で出土した小野毛人の墓誌により経歴が判明した。 封土は低平で径3.6mの規模内部主体は半地下式の竪穴式石室である。花崗岩を用いた切り石の板石である。3枚の敷石を置き、各壁は1石、天井は2石からなる。 石室内に墓誌以外はなかったとされる。本拠地の墓地で一族とともに葬られていたことが分かる。 現在は、同地に内藤湖南が碑文を撰した墓碑(大正4年建立)がある。
不審な点
墓誌銘には大錦上と書かれるが、子息の小野毛野薨伝(『続日本紀』和銅七年四月十九日)では毛人の冠位は小錦中とされている。狩野は続日本紀の記載を誤りとする。 次に、朝臣と書かれるが、日本書紀では小野臣が朝臣を賜るのは天武十三年(684年)一月一日とされている。小野毛人の死後である。 また飛鳥浄御原宮は天武七年の時点では存在しない。天武十五年(886n年)である。よって吉永(1972)は墓誌銘の成立は天武十五年以降とする。
墓誌
墓誌は鋳銅製で、文字を刻んだ後に鍍金する。長さ60cn、幅6cm。文字は両面にあり、表に小野毛人が天武朝に仕え、納言の職にあって後の刑部卿で大錦上(正四位に相当する地位)にあったと記す。 677年12月上旬に造営し、埋葬したとされる。
原文解読
金銅小野毛人墓誌は崇道神社の所有であるが、京都国立博物館に寄託され、保管する。長さ58.9cm・幅5.9cmの短冊形の銅板で、表に1行・26字、裏に1行・8字と少し下げて埋葬した年月を記す。合わせて48字の銘文が陰刻される。
- (原文表) 飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
- (原文裏) 小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
解釈
天武天皇の時代に「天皇号」があったことを示す史料である。
指定
- 1914年8月25日 – 重要文化財指定
- 1961年4月27日 - 国宝指定。
参考文献
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
- 青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二,白藤礼幸(1992)『続日本紀』岩波書店
- 「金銅小野毛人墓誌」京都国立博物館-1525
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂
- 吉永登(1972)『飛鳥時代の金石文』関西大学東西学術研究所紀要5,pp. 1-11
古事記 ― 2023年06月03日 16:19
古事記(こじき)は、現存する中では日本最古の歴史書といわれている(現在しないものを含めると『帝紀』『旧辞』『国記』『天皇記』は古事記より成立が古いといわれる)。 全3巻。日本の建国の由来、歴史上の出来事や物語が語られる。続日本紀には全く古事記の完成に触れていない。正史の日本書記に対して、私的な歴史書と位置付けられる。
概要
712年(和銅5年)、天武天皇の命により稗田阿礼が誦習した「帝紀」「旧辞」を元明天皇の命により712年(和銅5年)に太安麻呂が撰録し、献上したと序文に記載される。
構成
上巻は神代の物語、中巻は第一代神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までを記載する。上巻の初めに序(上表文)がつく。記述法は、本文の散文は和文的漢文体、韻文は和文体とする。編年体、紀伝体のいずれの形式ではなく、神代以外は天皇の代ごとに事跡をまとめる。
刊行本
- 黒板勝美(1998)『国史大系 古事記・先代旧事本紀・神道五部書』吉川弘文館
- 久松潜一(1994)『古事記大成』平凡社
- 中村 啓信(2009)『新版 古事記 現代語訳付き』角川文庫
- 倉野 憲司(1963)『古事記』岩波文庫、ISBN-10:4003000110
- 倉野 憲司 , 武田 祐吉(1993)『古事記 祝詞』岩波書店
- 青木和夫,石母田正(1982)『日本思想大系 1 古事記』岩波書店
写本
『古事記』の原本は現存しない。伊勢系諸本と卜部系諸本の2種類がある。
- 真福寺本系
- 国宝、愛知県宝生院(大須観音)蔵
- 最も古く確かな写本として、古事記研究の底本となる。
- 道果本(重要文化財、奈良県天理図書館蔵)
- 上巻の前半部分しか現存しない。
- 道祥本(伊勢本ともいう。東京都静嘉堂文庫蔵)
- 春瑜本(重要文化財。伊勢神宮蔵。伊勢一本、御巫本とも云う。)
- 兼永筆本(京都府・鈴鹿勝蔵、兼永本、鈴鹿登本ともいう。)
- 近衛本(陽明文庫本、京都府陽明文庫蔵)系
- 梵舜本(ぼんしゅんぼん:東京都國學院大學蔵)系
- 山田本(やまだぼん:東京都静嘉堂文庫蔵)系
- 猪熊本(香川県猪熊家蔵)系
- 三浦本(戸川本、兵庫県戸川家蔵)系
- 九條本(奈良県天理図書館蔵)系
- 隠顕蔵本(奈良県天理図書館蔵)系
- 祐範本(ゆうはんぼん:前田本、東京都前田育徳会尊経閣文庫蔵)系
- 国立国会図書館蔵(1644年(寛永21年)、前川茂右衛門)
真福寺本
「真福寺本古事記」に記載されている崩年干支は紀年論に重要な役割を果たしている。
参考文献
倉野 憲司<校注>(1963)『古事記』岩波書店
太安万侶墓誌 ― 2023年06月03日 13:02
''太安万侶墓誌'(おおのやすまろぼし)は太安万侶の墓から出土した墓誌である。 太安万侶は『古事記』を編纂した人物として知られる。
概要
奈良県立橿原考古学研究所により、1979年(昭和54年)1月22日、奈良市此瀬町の茶畑から墓から青銅製の墓誌が出土し太安万侶の墓と確認された。
発見の経緯
奈良県の茶畑で農家の竹西英夫が植え替えを行っていた時、1979年(昭和54年)1月18日に炭がたくさん出てきた。19日にも炭が出て、20日に穴が空いて、骨が見えた。穴は2m四方の穴であった。 木炭で回りを固め、木の箱があり、周りに木炭をぎっしりつめ、箱の下に銅で作成した墓誌があった。墓と分かったのは1月20日であった。近所の寺に骨を納めようと思ったが、住職はたまたま留守であった。これが幸いした。住職がいたら墓誌は取り上げられていたであろう。竹西さんはクッキーの箱に入れて保管した。クッキーの箱には何も入っていなかった。 地元の郷土史の愛好家・川端茂男が来て二人で墓誌の文字を読んでいた。骨が出た現地を見に来て、その場ではすぐにわからなかったが、後日、川端さんは興奮しながら言った。「やすまろさんや! 孫の教科書を見てたら、亡くなった年号と文字が一致したんや」という。近所に住んでいた、当時奈良市の職員であった川尻タケノさんを通して、1月22日10時頃、奈良県庁の教育委員会に電話を入れた。その後、奈良県文化財保護課の岡崎晋明と亀田博が現場に1時頃到着した。「これは竹西さん、えらいことや。高松塚以上の騒ぎになりますよ!」と言ったという。2人は墓誌を預かり、県庁では文化財保護課長と教育長に相談したところ、「えらいことだ」となって。研究所長の末永雅雄博士の自宅に持参した。末永雅雄、岡崎晋明、亀田博の3名で検討した結果、本物と確信した。次の日の記者発表を行った。1月23日14時に、奈良県庁で記者発表が行われた。新聞各紙が翌21月4日の朝刊で一斉に取り上げ、考古学史上まれにみる大発見として、日本中を駆け巡った。 出土状況が明確に分かる墓誌はほとんどないので、貴重な例となった。
墓誌の状況
調査時に封土は削られていたが、墓穴には木炭で覆われた木櫃が納められ、その中に火葬された骨と真珠4顆が納められていた(発見のエピソード)。木櫃の下に41文字が刻まれた墓誌が置かれていた。この墓誌には太安萬侶の名前のほか、位階勲位、生前の住所が記載されていた。亡くなった日は養老7年(723年)7月6日であることが判明した。墓誌は12月15日に作成された。
原文
左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳
墓誌の意味
「左亰四條四坊」は生前の住所である。「従四位下」は死去時の位階である。古事記執筆時は「正五位上」であったから、10年間で1ランク上がったことになる。「勲五等」は武人に与えられるものであるが、父が壬申の乱で従軍し活躍した記録があるので武人の家系でもあった。墓誌に官職の記載がない。『古事記』の序文では「正五位上太安万侶」と書かれている。これを公文書の書き方としておかしいから、古事記は偽作であるとの説があったが、墓誌により官職の記載がなくとも、『古事記』は本物説が強くなったとされる。当墓誌は確実に奈良時代のものであると判定されている。
墓誌の向き
文字の書き始めは北を向いていた。文字のある方を下に向けていた。
墓誌に墨書の痕跡
太安万侶の墓誌を再調査した奈良県立橿原考古学研究所は、レーザー光による3D計測により、銘文の隣に同じ文字を毛筆で書いた痕跡があることを発見した。
重要文化財
『太安萬侶墓誌』は、1981年(昭和56年)6月9日に重要文化財(美術工芸品)に指定された。奈良県立橿原考古学研究所に保存される。
アクセス等
- 名称:太安万侶墓誌
- 所在地:〒630-2177 奈良県奈良市此瀬町451
- 交通:JR、近鉄奈良駅から奈良交通バス「北野」「下水間」行き乗車、「田原横田」で下車、北に徒歩20分
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 倉野憲司(1963)『古事記』岩波書店
- 「太安萬侶墓発見のエピソード」奈良県
- 石野博信(1991)「太安万侶墓誌」『古代日本 金石文の謎』学生社
- 「太安万侶の墓誌に毛筆跡 - 銘文と同じ文字/橿考研発見」奈良新聞.2012年10月5日
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