ネズミ返し ― 2024年01月06日 00:20

ネズミ返し(ねずみかえし、rat guard)は建物の柱や梯子に対して直角に装着し、ネズミが上に登って建物内に侵入して食害を起こすことを防ぐ装置である。
概要
登呂遺跡で八幡一郎は高床倉庫のネズミ返しと推定した。山木遺跡からは「ねずみ返し」が柱についたまま出土したことから、それまで登呂遺跡などで出土していた不明板材の用途が初めて明らかとなった。その形は中央に長方形の孔がある円形または隅丸長方形の板である。片面の孔の周囲は厚くする。 古墳時代には、円板の板のほか、外縁が下方に傾斜してネズミ返しの機能のある長い板を数本の柱に取り付けたものが見つかっている。
防鼠効果
谷川力(1993)らは有効なネズミ返しのサイズを調べ、半径210mm以上あれば、クマネズミが登坂できないことを確認した。宇田川龍男(1971)は、登呂自遺跡のネズミ返しではクマ ネズ ミは容易に登坂すると推定した。谷川力(1993)ら登呂遺跡ではネズ ミ返しの距離が 237凹以上,厚さが10mmほどある(静岡県立登呂博物館、1990)ので、この大きさでは試験結果から見て,クマネズミでも防ぎえた可能性が高いとする。クマネズミに対する登はん防止用具としての機能を発揮させるためには,厚さ4mrnの板では半径がおよそ 250mm以上必要と判定された。
ネズミ
遺跡からは、ネズミの遺存体が出土することは少ないものの、ドブネズミ、ヒメネズミ、アカネズミ、ハタネズミなどが報告されている。唐古・鍵遺跡では洪水により集落が衰退した時期にはネズミの出土数は少なくなるが、集落が再建された後期にはアカネズミが増加していると報告されている。
出土例
- ネズミ返し - 登呂遺跡、静岡県静岡市、弥生時代
- ネズミ返し - 山木遺跡、静岡県伊豆の国市、弥生時代後期
- ネズミ返し - 西沼田遺跡、山形県天童市、古墳時代後期
参考文献
- 田中琢・佐原信(2011)『日本考古学事典』三省堂
- 谷川力(1993)「クマネズミRattusrattusに有効なネズミ返しの大きさの検討」ペストロジー学会誌8巻1号,pp.22-23
- 宇田川龍男(1971)『ネズミの話』北隆館
- 岡本大二郎(1978)「高床倉庫とネズミ返し」農業技術、33巻9号、pp.418-422
塞ノ神式土器 ― 2024年01月06日 00:44
塞ノ神式土器(せのかんしきどき)は口縁の開いた鉢形で頸部がくの字型に湾曲し、胴部が円筒形で平底になる特徴を持つ縄文時代の鹿児島を起源とする土器である。
概要
器面の口縁に二枚貝によるきざみ目を施すものが多い。ヘラ描きの平行線、爪形連点文、撚糸文、貝殻文等を土器に施す特徴を持つ。貝殻文系と撚糸文系の2系統の系譜を想定することもある。 1933年故木村幹夫は「南九州に於ける縄文土器の一形式」と題する論文を発表し、1954年、寺師見国は「南九州の縄文土器」として塞ノ神式土器を整理した。1972年河口貞徳によってA(a,b)式からB(c,d)式の4分類がされ、南九州を代表する縄文時代早期の一型式とされた。塞ノ神遺跡は塞ノ神式土器の標式遺跡となった。 塞ノ神遺跡は大口盆地東南部の菱刈町立田中小学校後方の標高224mの小高い丘陵の畑地に位置する縄文時代早期の遺跡である。
出土例
- 塞ノ神式土器 - 塞ノ神遺跡、縄文時代、鹿児島県伊佐郡菱刈町田中
- 塞ノ神式土器 - 東名遺跡、佐賀県、縄文時代早期
参考文献
- 木村幹夫(1933)「南九州に於ける縄文土器の一形式」考古學4巻5号,pp.131-138
粘土槨 ― 2024年01月07日 01:04
粘土槨(ねんどかく)は古墳の棺床に粘土や木炭を敷き、割竹形木棺や組合せ式木棺を置き、その上下四周に粘土でつつみこんだものである。
概要
木棺は朽ちて無くなり、粘土部分だけが残ることが多い。 被葬者を安らかに葬るため、木棺の周囲を粘土で固めた埋葬施設とされる。 古墳時代前期前半における典型的な竪穴式石室では墓壙内の粘土床上に置いた割竹型木棺を板石積みの四壁で保護しており、粘土槨は板石積みに代わりに粘土を入れたものである。壙底に礫を敷くこと、排水施設があることなど他の点は竪穴式石室と同じである。 4世紀初めあるいは古墳時代前期中頃から中期にかけて多く見られる。畿内で始まったとされ、竪穴式石室の被葬者に次ぐ地位にある有力者が埋葬されたと考えられている。長尾山古墳の粘土槨は国内最古級とされている。 同一古墳で、竪穴式石室と粘土槨が共存する例があるが、これは竪穴式石室が中心的な埋葬用であり、粘土槨を陪葬的な埋葬とされている。 中期末から後期初頭にかけて稲荷山古墳に見られるように、上部の粘土を省略した物が見られる。しかし粘土槨に含めて考えられている。
出土例
- 粘土槨 - 長尾山古墳、兵庫県宝塚市、古墳時代前期(4世紀初め)
- 粘土槨 - 真名井古墳、大阪府富田林市、4世紀末の築造
- 粘土槨 - 鴨都波1号墳、奈良県御所市、古墳時代前期中葉(4世紀中葉)
参考文献
- 田中琢・佐原信(2011)『日本考古学事典』三省堂
層位学 ― 2024年01月08日 00:12
層位学(そういがく、Stratigraphy)は同一の地点における遺物を包含する複数の地層の上下関係により遺物の年代を決定する方法である。「層序学」ともいう。
概要
地層が重なる順序を層序という。層位学を確立したのは地質学であり、層序には、断層による地層の逆転や攪乱がなければ、古いものが下、新しいものが上に重なるという地層累重の法則を利用する。その地層が包含する遺物の新旧が推定できるとする。それだけでは土層に含まれる遺物各個体の新旧の関係が分かるだけである。編年作業では層位が形式に優先するという考え方もあるが、いずれかだけの推定では仮説の域にとどまり、絶対年代が確定する訳ではない。 古いものが下、新しいものが上という層位学の原則が逆転する場合がある。城の台貝塚(千葉)では崖や台地の上から古い地層が落下し、下の地層が上の地層の上になっていた。さらに津雲遺跡(岡山)では、斜面の上半に古い土器(縄文後期)を含む層があり、下半に新しい層(縄文晩期)がある。 遺跡では層位の逆転が見られることがある。層位逆転を理解することは、地下構造の解釈、地質史の再構築、石油やガスの貯留層などの資源の評価に影響を与える可能性があるため、地質研究において極めて重要である。 層位逆転は複雑なプロセスであり、地域の地質学的歴史には、長期間にわたるさまざまな地殻変動の組み合わせが含まれることがある。特に造山過程で起こる褶曲は層序の逆転を引き起こす可能性がある。岩石層の褶曲中に、古い地層が若い地層の上に押し付けられ、元の層序の順序が逆転することがある。また層序逆転の一般的な原因の1つは衝上断層である。衝上断層は、岩石が圧縮力を受けて発生し、岩石の1つのブロックが押し上げられ、隣接するブロックを超える。この動きは、元の層序の順序の逆転につながり、古い岩石が若い岩石の上に重なる可能性がある。 層位学では同一の地層に含まれる遺物は同じ時代と見なすことが前提となる。モンテリウスは同じ土層に包含される複数の遺物が確実に同時代と判定する為には、同じような共伴の事例が30以上が必要であるとする。 複数の遺跡の層序の関係を明らかにするには、短期間も堆積し、広域に分布する火山灰の層が有効である。複数の遺跡の層で火山灰の層が確認できれば、火山灰層は同時期に形成した物と判定できる。すなわち火山灰編年法である。
日本の層位学
日本での層位学はスコットランド出身のイギリスの医師、考古学者、人類学者であるマンローによる神奈川三ツ沢貝塚の発掘であった。マンローは1904年に東京大学医学部のベルツと一緒に横浜の競馬場付近貝塚を発掘した。1905年に行われた三ツ沢貝塚(横浜市神奈川区)の発掘は、当時としてはきわめて大規模かつ先進的な調査であったとされている。三ツ沢貝塚の調査では縄文土器に年代差があることを初めて確認した。下層の土器は縄文後期の堀之内式土器であり、上層の土器は縄文後期の勝坂・加曽利E式土器であった。しかし、層位学による研究ではその晃洋を強調せず。さらに英文発表であったことから、日本の学会では注目を集めることはなかった。1918年と1919年の松本彦太郎(東北大学)の調査では貝浜貝塚(宮城)では、貝層を層位ごとに発掘する層位学の方法を実践し、貝層の位置関係から、土層に含まれる土器の形式・形態・文様・土器の厚さなどの変化を示した。山内清男や八幡一郎が評価し、それを継承した。
層位学の課題
- (1)相関と年代測定 層序学の主な課題の1つとして、さまざまな土層を正確に相関させ、年代を測定することである。さまざまな地層の相対年齢を確立し、放射年代測定などの方法で絶対年齢を決定することは、包括的な地質の編年表を構築するために不可欠である。
- (2)地殻変動と環境変化 層位学では、地層が地殻変動や時間の経過に伴う環境変化によってどのような影響を受けたかを理解する必要がある。地質学的、気候的、環境的要因の間の複雑な相互作用を解明することは困難な場合がある。
- (3)不完全な記録 地質学的記録は、侵食、風化、その他の自然現象により不完全な場合がある。 層序記録にギャップがあれば、連続した歴史をつなぎ合わせることが困難になる可能性があり、研究者は欠落または不完全な情報に対処する必要がある。
- (4)技術と方法論の進歩 技術が進歩するにつれて、層位学の研究に新しい方法やツールが利用できるようになる。これらの進歩を層位学に取り入れ、確立された方法との互換性を維持しながら最新のテクノロジーが適切に使用されるようにする必要がある。
- (5)学際的な考察 層位学では多くの場合、古生物学者、化学者、地球物理学者(古地磁気)、歴史学、考古学その他の専門家との協力を伴う学際的なアプローチが必要となることがある。多様なデータと視点を統合すれば、地層史の包括的な理解を達成しなければならない。
参考文献
- 江藤哲人(1986)「三浦半島葉山層群の層位学的研究」
- 田中琢・佐原信(2011)『日本考古学事典』三省堂
- Belyaevski(1961)「層位学的研究の方向と課題について」Sovetskaya Geologiya、4巻10号、pp.20-31
- エドワード ハリス,小沢一雅訳(1995)『考古学における層位学入門』雄山閣出版
- モンテリウス・浜田耕作訳(1984)『考古学研究法』雄山閣
- 林謙作(1973)「層序区分--その現状と問題点」『物質文化』21号、物質文化研究会
- 麻生優(1985)「層位論」『岩波講座 日本考古学』研究の方法、岩波書店
- 小林達雄(1975)「層位論」『日本の旧石器文化』1、雄山閣
石戈 ― 2024年01月09日 00:15
石戈(せっか)は弥生時代に、銅戈(青銅製の武器)をまねた石製の戈である。
概要
武器形祭器としての銅戈を模倣して倭国で作られた磨製石器である。
来歴
石戈のもとになる祖型は中国の殷代の銅戈である。もともとは実戦用の武器であったが、材料を変更した祭祀的要素が殷代ですでに見られる。矛に玉をはめて装飾性を持たせ、儀式に使用した。その形式が古代朝鮮に伝わったが、朝鮮では独自の形式「細形銅戈」に変化した。しかし細形銅戈をもとにした石戈は朝鮮に見当たらない。弥生時代前期頃に、細形銅戈は倭国に伝わったとされる。 日本の石戈はほとんどが銅戈を模倣しており、直接の祖形は朝鮮半島には見当たらないことから、日本で独自に発達した石器とされている。北九州地方での出土が多く、関西から関東にかけて散在する。石戈のほとんどは西日本に分布する。しかし、寺前直人(2014)は東日本の石戈を再評価すべきと主張する。
用途
石戈は弥生時代中期後半において祭祀具のひとつと考えられている。
2つの型
下条信行は石戈を九州型と近畿型に分類した。 下條信行(1976)は九州型の特徴を次のように定義した。
(1)外形は身と胡と茎より形成される。 (2)身の中央に鏑が走り、断面は菱形である。 (3)援に樋が彫られることはない
すなわち弥生Ⅰ期からⅢ期において、溝となる樋が作られていない。身の基部近くに着柄用の孔を2個所あける。援(戈の刃部)の断面は菱形である。青谷遺跡では九州型磨製石戈が近畿地方で出土している珍しい例である。寸法は20cmから23cmである。田川郡糸田松ケ迫出土の石戈は副葬品として使用された可能性がある。金丸遺跡出土の石戈は九州で唯一の樋を有する石戈とされる。しかし寺前直人(2014)は計測結果の比較から、金丸遺跡出土の石戈を近畿形とはせず、銅戈を忠実に模倣して、中期初頭前後に製作された九州における初現期の銅戈形石戈とした。
近畿型は樋を通し、近畿を中心に分布し、長野・群馬・新潟にも点在する。
関西以東の石戈は援に2本の樋を表現するものがある。
石戈の編年
下條信行(1976)は石戈の分類と編年を提案した。分類の基準は、援(剣の剣身に相当)の長さ、胡(援両端の突出)の伸び具合、援と胡の角度、胡と援の関係である。 A型は援から胡への張り出しは強くない。鎬を挟んで、ほぼ左右対称であり、全体がずんぐりとする。援部が薄くなることにより援と内の厚さが等しくなる段階である。B形式は厚さが漸移的に変化する段階である。BⅠa型はA型に比べ大型化する。援が長くなり、その下部で胡に張り出す形式をBⅠa型とし、長さより左右の張り出しが強調されているものをBⅠb型とする。 関は直線でなくなる。C型は長さが短くなり、援の先端が鋭くなくなる。内の長さが極端に短くなり、横幅が広くなる。援部が薄くなることにより援と内の厚さが等しくなる段階である。
- 弥生時代前期末 A型
- 弥生時代中期初頭 A型、BⅠa型
- 弥生時代中期中葉 BⅠa型、BⅠb型
- 弥生時代中期後葉 BⅠa型、BⅠb型、C型
- 弥生時代中期末 BⅠb型、C型
出土例
- 石戈 - 青谷遺跡、神戸市垂水区、弥生時代中期
- 石戈 - 前中西遺跡、埼玉県熊谷市、弥生時代中期後半、文様の描かれた「石戈」
- 磨製石戈 - 青谷遺跡、神戸市西区伊川谷町別府・櫨谷町松本、弥生時代中期
参考文献
- 下条信行(1982)「武器型石製品の性格」平安博物館研究紀要 7
- 増田精一(1968)「分布と文化系統」『新版 考古学講座1 (通論 上) 』雄山閣
- 下條信行(1976)「石戈論」『史淵』113、pp.211~253
- 寺前直人(2014)「銅戈形石戈の出現」『駒沢史学』82、pp.148-160
黄幢 ― 2024年01月10日 00:05
黄幢(こうどう)は黄色い旗指物の軍旗である。
概要
「幢」は旗指物であり軍事権を象徴する旗である。魏志倭人伝によれば、倭の女王卑弥呼が派遣した難升米に魏の皇帝が授けた黄色の軍旗である。 「黄」は魏が五行思想による土徳の王朝であるため黄色を旗印としたとの説がある。 「幢」は中空の釣鐘形の布であり、漢代の画像石にみえる吹き流し状の旗と考えられている。 蛮夷の外臣に「幢」を授けた例は非常に少ないため、魏が倭国を重視していたことの現れである。
黄幢授与の趣旨
黄幢を授けたのは、狗奴国と戦う邪馬台国への支援とする説と、朝鮮半島への軍事的な支援を倭国に求めたためという説、倭の大夫を率善中郎将に任じたので、その中郎将の旗として与えたとする説とがある。なお遼陽壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられる旗が描かれているとの説があるが、貴人の日除けに用いる翳(さしば)に似ており、軍旗にはみえない。
後世の幢旗
『延喜式』では大極殿に向かい烏形幢、日像幢、朱雀幢・青龍幢、月像幢、白虎幢、玄武幢と合計7本の幢旗を立てるとされる。時代は下るものの院政期の儀式を描いた「文安御即位調度図」に幢旗が描かれている。高さは約「三丈」(9m)であり、旗を取り付ける中央の長い柱にそれを支える2本の短い脇柱があり、平城京の発掘結果と一致する。しかし魏の黄幢と同じとは限らない。
魏志倭人伝 原文
- 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
- (訳)正始六年(245年)、皇帝は詔して、倭の難升米に黄色の軍旗を賜い、帯方郡に付託してそれを仮に授けた。
- 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
- (訳)倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王である卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあう状態を説明した。皇帝は塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書と黄幢を難升米に授け、檄を告げて諭した。
参考文献
- 佐伯有清(2000)『魏志倭人伝を読む』吉川弘文館
- 大庭脩(2001)『親魏倭王』学生社
- 高橋賢一(1996)『旗指物』新人物往来社
- 大澤正吾(2019)「平城宮第一次大極殿院の幢旗遺構」奈文研ニュースNo74
- 斎藤忠(2003)『幢竿支柱の研究』第一書房
四神 ― 2024年01月11日 15:08
四神(ししん)は中国の戦国時代に成立した4つの霊獣である。 「四獣」、「四象」、「四霊」ともいう。
概要
古代中国において東西南北の方位を象徴する動物である。 東に青龍、西に白虎、北に玄武、南に朱雀を配置する。
来歴
四神は中国の神話で、天の四方の方角を司るとされる。四神をそれぞれ方角や季節に対応させる。方角と動物との関係は、星座の形に由来するとされる。 中国の戦国時代(前403年~前221年まで)に基本形が生まれ、前漢末から器物や墓室の装飾に四神図像が登場し、新から後漢の銅鏡に採用された。方格規矩鏡として類型化される。 高句麗では5世紀から6世紀頃に人物風俗図に四神が現れ、その後、四神図だけが壁一面に描かれるようになる。四神が描かれた古墳として有名なものに江西三墓がある。石の壁面に直接四神が描かれる。日本の植民地期に2回にわたり写された模写図が韓国中央博物館に展示される。
日本の四神
「朱雀・青龍・玄武・白虎」で、天の四方を守護する。土地選定の目安に四神を用いる思想は日本に輸入された。例えば平安京は四神に対応される。高松塚古墳の壁画、キトラ古墳壁画、楽浪郡遺跡の古墳壁画、薬師寺本尊の台座に四神が描かれる。 四神は日本と朝鮮に伝わったが、4世紀の仿製鏡では四神の姿を正確に描いていない。 四神が正確に表現されるのは高句麗と百済の古墳壁画では6世紀になってから、日本では7世紀末のキトラ古墳と高松塚古墳からである。
出土例
- 四神 - キトラ古墳、石室、 奈良県高市郡明日香村、7世紀末~8世紀初頭
- 四神 - 高松塚古墳、石室、奈良県高市郡明日香村、7世紀末から8世紀初
- 四神 - 新沢千塚126号墳出土漆盤、奈良県橿原市、5世紀(古墳時代中期)
- 四神 - 竹原古墳、福岡市、6世紀後半
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