行基平山頂古墳 ― 2023年05月21日 08:52
行基平山頂古墳(;ぎょうきだいらさんちょうこふん)は栃木県足利市にある6世紀初頭の前方後円墳である。
概要
栃木県の南西端、足利市北西の丘陵部に位置する。「行基平」丘陵の尾根にある。墳丘は自然地形を利用し、盛土して作られた二段築成の古墳である。26基の古墳が集中する機神山(はたがみやま)古墳群にある前方後円墳である。後円部の地下2mから埋葬施設の床面に一部と副葬品とみられる鉄鏃が出土した。東側のくびれ部では須恵器と土師器がまとまって出土した。墳頂部と墳丘テラスからは円筒埴輪列が発見された。テラス状の張り出し部からは女子人物像埴輪、鳥形埴輪、馬型埴輪などの形象埴輪が出土した。女子人物像埴輪は顔が小さく顔を衣服に彩色がある。人面付円筒埴輪には、武器武具とみられるレリーフ上の表現があり、また入れ墨とみられる彩色が確認できる。男子人物埴輪では耳飾りやみずらの剥落跡が見られる。 5世紀末から6世紀初頭に噴火した群馬県の榛名山の火山灰の上に盛土していること、竪穴系の埋葬施設、出土した埴輪、土器から築造時期は6世紀初頭とみられる。
調査
2014年6月4日、足利市教育委員会は貴重な人物埴輪などが行基平山頂古墳で出土したと発表した。
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 39m
- 後円部 径21m 高3.5m
- 前方部 幅推定12m 長18m 高2.5m
外表施設
- 埴輪 円筒埴輪
- 葺石 あり
遺構
未調査のため内部構造は不明。
遺物
墳丘から円筒埴輪や人物埴輪が出土する。
- 女子人物像埴輪 7 69.5cm
- 男子人物埴輪 2
- 鳥形埴輪 2
築造時期
- 6世紀初頭の築造と推定される。
指定
- 1978年(昭和53年) 市指定史跡、指定。
アクセス等
- 名称:行基平山山頂古墳
- 所在地:栃木県足利市本城3-3891-3他
- 交通:足利駅徒歩36分、2.6km。
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 文化庁(2019)『発掘された日本列島 2019』共同通信社
- 「行基平山頂古墳で人物埴輪など複数出土、赤や黒の彩色 栃木」産経新聞,2014年9月6日
嶋宮跡 ― 2023年05月21日 21:00
嶋宮跡(しまのみやあと)は、奈良県明日香村に飛鳥時代の宮の跡である。
概要
飛鳥川に面する河岸段丘上に位置し、石舞台古墳付近から西側一帯に広がる。「嶋宮」の範囲は『万葉集』に、「橘の嶋宮」と書かれるとおり、現在の島庄から飛鳥川の西側、東橘までを含む広い範囲にわたると想定されている。
調査
1972年以降、奈良県立橿原考古学研究所によって20次に及ぶ発掘調査が行われ、掘立柱建物や石溝、池跡が発掘されている。蘇我馬子の嶋宅、あるいは後の草壁皇子が住んでいた嶋宮の推定値である。しかし天武朝の時代の遺構はまだ発見されていない。
遺構
島庄遺跡は嶋宮推定地一帯に広がる縄文時代以降の複合遺跡である。島庄遺跡から嶋宮の一部と見られる建物跡が出土している。島庄遺跡の飛鳥時代の遺構としては一辺約40mの方形池や石組暗渠・曲溝・川跡・小池・掘立柱建物等が検出された。柱穴が一辺1m以上もある大型建物であり、7世紀前半と後半に推定されることから、蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」や「嶋宮」の時代とも重なる。 島庄には『日本書紀』や『万葉集』の記述から蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」や草壁皇子の「嶋宮」が存在したとされており、蘇我馬子の邸宅には池をもつ庭園があったことが知られている。
遺物
出土遺物については縄文土器・土師器・須恵器・瓦器・陶磁器・瓦・石器などがあり、特に縄文土器(後期後半)やサヌカイトの剥片が多く出土している。
蘇我馬子
蘇我馬子は、「嶋大臣」と呼ばれていた。その名の由来については、『日本書紀』推古天皇34年条に「飛鳥河の傍に家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。仍りて小なる嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と日ふ」と書かれる。飛鳥川の畔の家は、現在の明日香村島庄にあったとする説が有力である。石舞台古墳の横の坂道を下ると、右手の食堂のさきに、他の畦とは方向を違えて田圃の畦が「く」の字形に曲がるところがある。発掘調査により「池田」とよばれていたこの場所に、一辺が42メートル、深さ2メートルほどの隅丸方形の石組み池があることが判明した。池の中や周囲から7世紀前半の土器・瓦が出土している。池の周囲に幅10mの堤があり、池の岸は、径約50cmの自然石を、2段から4段に垂直に積み上げられている。池の底にも石が敷かれ、水源は池底に設けられた井戸を利用し、木樋によって排水する仕組みであった。
史跡
アクセス等
- 名称:嶋宮跡
- 所在地:奈良県高市郡明日香村島庄
- 交通: 赤かめ周遊バス石舞台下車すぐ
参考文献
- 奈良県立橿原考古学研究所(1987)『島庄遺跡(20次)発掘調査概要』奈良県教育委員会
- 大塚初重1995()『日本古代遺跡辞典』吉川弘文館
尼寺廃寺跡 ― 2023年05月21日 21:01
''尼寺廃寺跡'(あまでらじはいじあと)は奈良県香芝市にある古代の寺院跡である。
概要
香芝市の北端王寺町との境界に位置する。北廃寺と南廃寺とがある。両伽藍は南北約200m離れている。現在は塔跡以外は平地の水田や畑にされている。般若寺本堂が南廃寺にあるが、ここは創建当初の基壇上に建築された可能性がある。付近に500m以内に平野古墳群、平野窯跡群がある。7世紀中期以降に創建されたと考えられている。塔心礎は巨大な地下式心礎であり、塔心礎としては日本最大級の規模になる。 蘇我日向が白雉五年(654年)に創建した般若寺の可能性がある。発掘から尼寺廃寺跡は7世紀後半とされ、遺物と史料との矛盾は見られない。
調査
- 北廃寺 第10次調査(平成7年度)では塔跡と考えられた基壇をトレンチ調査した。堆積土を除去すると、原位置を保つ基壇を検出した。「北廃寺」とも呼ばれる北側の遺跡は塔と金堂とが南北に並び、その東側に中門をもうけた回廊が周囲をぐるりととりかこむ東向きの「法隆寺式伽藍配置」の古代寺院と判明した。礎石の表面は焼失に伴う変色と割れが認められた。 中央の柱座より耳輪12点、水晶玉4点、ガラス玉3点、刀子1点の舎利荘厳具が検出された。片側雨落と北側で焼け落ちた瓦を検出した。金堂との間隔は10mと確認した。 第12次調査(平成8年度)では金堂が南北棟であることを確認した。第14次調査(平成9年度)では塔基壇との距離が約6.5mであることが判明した。回廊の北側に講堂があった可能性がみられた。また鉄滓や韛の羽口や砥石が見つかったことから、鋳造工房があったと推定された。伽藍配置が確認され、金堂・塔・中門・回廊・東門(東大門)の遺構が検出された。回廊は東西約44.3m・南北約71.4m、金堂は東西約14.7m・南北約16.8mと推定されている。塔の基壇は一辺約13.5m・高さ約1.4mである。 瓦は川原式の複弁8弁蓮華文軒丸瓦、12単弁弁蓮華文軒丸瓦、単弁16弁蓮華文軒丸瓦、三巴文軒丸瓦などである。鬼瓦と鴟尾も出土した。
- 南廃寺 寺域は不明である。主要伽藍は現在の般若院境内で基壇の一部が検出されたため、重なり合うと推定されている。金堂が東、塔が西に配される南向きの法隆寺式伽藍配置である。 南廃寺では北廃寺に先行して7世紀中頃に造営が開始され、7世紀後半頃までに金堂は完成した。
展示
尼寺廃寺跡に併設されている学習館で現存する日本最大の塔心礎の模型と、塔基壇の土層を展示する。 香芝市二上山博物館では尼寺廃寺跡の創建時の姿を紹介し、出土品等を展示する。
指定
- 2002年(平成14年)3月19日、国指定史跡(北廃寺)
アクセス
- 名称:尼寺廃寺跡
- 所在地:奈良県香芝市尼寺2丁目88
- 交通: JR和歌山線畠田駅より南西へ徒歩約7分(約0.6km)
参考文献
上野国多胡郡正倉跡 ― 2023年05月21日 21:03
''上野国多胡郡正倉跡'(こうずけのくにたごぐんしょうそうあと)は、群馬県高崎市にある上野国多胡郡の田租や出挙で徴収した稲などを収納する倉庫群跡である。
概要
特別史跡多胡碑の真南約350mに位置する。発掘調査によれば正倉の創建は8世紀前半である。律令国家の税の徴収や地方支配の在り方を考える上で重要である。瓦葺の正倉に使用された瓦は、上野国多胡郡正倉跡の実態を知るために重要であり、多胡郡域の瓦生産を知るうえで重要である。被熱粘土塊は、正倉の構造を考える手がかりとなる。 遺跡の北辺・西辺・南辺で、正方位の規格性を持った区画溝が検出される。多胡郡正倉跡は多胡碑と密接な関係をもって設置されたとみられる。
遺構
正倉として礎石建物が2棟検出された。北端の正倉は県内では唯一の瓦ぶき。東西約16.8m、南北7.2mの大型建物で、威信をかけた高い技術で8世紀半ばに建立された。出土瓦の種類と量から、当時としては稀な総瓦葺で、正倉の中で最も格が高い「法倉」とみられる。 約210m2の倉庫群を形成していた。上野国内の郡衙について記載のある『上野国交替実録帳』に正倉の壁構造が記されており、文献史との検証が可能な資料となる。
遺物
- 屋根瓦(複弁六弁蓮華文軒丸瓦) - 創建時の瓦
- 被熱粘土塊 - 建物の壁材とみられる。
- 小型弓
指定
- 2020年(令和2年)3月10日指定。国の史跡
- 2021年(令和3年)10月11日 - 追加指定
時期
8世紀半ば。
アクセス
- 名称:上野国多胡郡正倉跡
- 所在地:〒370-2107 群馬県高崎市吉井町池
- 交 通:吉井駅から2.4km 徒歩30分。
参考文献
- 文化庁編(2020)『発掘された日本列島』共同通信社
栢ノ木遺跡 ― 2023年05月21日 21:04
栢ノ木遺跡(かやのきいせき)は、京都府井出町にある奈良時代から平安時代の遺跡である。
概要
井出町新庁舎等整備事業に伴う発掘調査で古代寺院の井手寺の塔が発見された。発表は2021年4月14日である。 木津川の支流の玉川右岸の段丘上に栢ノ木遺跡は立地する。 井手寺跡は、京都府綴喜郡井手町大字井手小字東高月、西高月、栢ノ木に所在する。井手寺は奈良時代天平期の聖武天皇治下で活躍した橘諸兄が創建した橘氏の氏寺と考えられている。平成13年度、道路拡幅に伴い初めて本格的調査が実施され、15年度からの4ヶ年の確認調査開始で伽藍配置等が明らかにされつつある。これまでの調査で井手寺跡は同地域に241.2m2の寺域を有していたことが判明している。塔跡は既知の寺域の東限から約50メートル東へ離れている。他の主要伽藍と別の区画を設け、「塔院」を形作っていたと推定される。 基壇の残存高は70cm、北辺と西辺に階段が発見された。奈良県奈良市の薬師寺三重塔や七十重塔と推定される京都府木津川町の山城国分寺跡の塔基壇との比較から、五重塔とみられる。上原真人京都大学名誉教授(井手寺跡調査委員長)は「使われている瓦に奈良の都と同じ奈良三彩が見られ、別院の形をなしている。塔を中心とした区画があるのは、奈良の大安寺くらいであろう」と語る。 基壇の周囲からは大量の瓦が出土した。平城宮や平安宮と同じ文様の瓦が発見された。宮都とのつながりが垣間見える。遺物の分析から、平安時代前半に建立され、鎌倉時代に廃絶したと考えられる。焼けた痕跡がないことから、老朽化により倒壊したと見られる。
遺構
塔の基壇と階段、犬走り、天落溝、石敷などを検出した。 基壇は東西15.3m、南北15.1mのほぼ正方形であり、基壇の四隅に階段があったと考えられる。
遺物
類例
指定
アクセス
- 名称:栢ノ木遺跡
- 所在地:〒610-0302 京都府綴喜郡井手町大字井手小字東高月
- 交 通:JR奈良線「玉水」駅より徒歩約15分(約1㎞
参考文献
- 文化庁(2022)『発掘された日本列島2022』共同通信社
上之宮遺跡 ― 2023年05月21日 21:35
上之宮遺跡(うえのみやいせき)は奈良県桜井市にある古墳時代、飛鳥時代の遺跡である。
概要
阿倍文珠院のある阿倍丘陵の東方河岸段丘に位置する6世紀後半~末葉ごろの建物群遺跡である。6世紀末ころの精巧な園池遺構が発見され、飛鳥嶋ノ庄遺跡をしのぐものと推定されている。大豪族阿倍氏の本貫地であり、また聖徳太子の「上ツ宮」の伝承地でもある。阿倍氏関係の居館あるいは飛鳥時代の宮殿の可能性がある。北側は長棟の脇殿があり、東側と南側を柵列で囲み、それぞれに門が備えられる。西側は祭祀機能の付いた庭園があり、北側正面から三輪山が見える。当時の園池としては第1級の規模・格式であった。
調査
1986年、桜井市南部の寺川西岸の河岸段丘上の土地を区画整理する際に調査された。検出された6世紀末頃の遺構は、聖徳太子の上宮で:ある可能性が高いと発表された。日本書紀などには、現存しない磐余池のほとりに用明天皇の「磐余池辺雙槻宮」、その南隣に厩戸皇子の上宮があったとされており、磐余池の場所が確定しないと、上宮かどうか、決まらない。
遺構
- 四面廂付掘立柱建物
- 長棟状建物
- 回廊状建物
- 石組溝
- 敷石遺構等
遺物
- 多量のモモ核やスモモの核が多量に出土
- ヒョウタン
- 日本最古級の木簡,
- 鳥形木製品
- べっ甲
- 横櫛
- ガラス玉の鋳型
- 琴柱形の木製品
築造時期
- 6世紀末頃
指定
- 1992年 市指定史跡
アクセス等
- 名称:上之宮遺跡
- 所在地:〒633-0041 奈良県桜井市上之宮383
- 交通:JR桜井駅南口より奈良交通 多武峯線 談山神社行 浅古下車
参考文献
遠見塚古墳 ― 2023年05月21日 21:57
''遠見塚古墳'(とおみつかこふん)は宮城県仙台市にある前方後円墳である。
概要
東北を代表する前方後円墳である。名取市の雷神山古墳に次いで宮城県内では2番目の大きさである。国道四号線バイパス沿い、遠見塚一丁目にある。周濠は馬蹄形状で、周濠幅が後円部西側21.4mと東側41.8mとで著しく不整である。葺石・埴輪は検出されない。排水溝を両方の槨の南端に作られており、西から東へ水を流していた。 JR仙台駅から南東約3.6㎞に位置する。全長約110mで仙台市内では最大の前方後円墳である。後円部径62m、前方部幅38m、後円部高さ6.7m、前方部高さ2.5m。
調査
1947年、霞目飛行場整備のため後円部の土を取ったところ後円部頂下2mに2.25mの間隔を置いて2基の粘土槨が発見された。西槨から土器が発見された。周囲に幅10数m~40数mの不規則な周濠がある。埋葬施設は、南北方向に長い2基の粘土榔(割竹形木棺)であり、後円部は竪穴式の墓壙で、東西に平行して同時に埋納されていた。4世紀末~5世紀初頭の築造とみられる。
規模
- 形状:前方後円墳
- 築成:前方部:1段築成、後円部:2段築成
- 墳長 110m
- 後円部 径63m 高6.4m
- 前方部 長47m 高2.4m
遺構
内部にはさ6.7メートルほどの木棺が粘土に覆われて置かれている。
- 室・槨:①粘土槨②粘土槨
- 棺 :①②割竹形木棺
出土品
副葬品は、東榔から碧玉製管玉1点、ガラス小玉4点、竹製黒漆塗り竪櫛18点が出土した。出土遺物は仙台市博物館で展示される。
築造時期
古墳時代前期にあたる4世紀末から5世紀頃。東北では2番目に古い。
指定
- 1968年(昭和43年)11月8日 国指定史跡、
- 1980年(昭和55年)3月14日に史跡範囲の追加指定
アクセス等
- 所在地:宮城県仙台市若林区遠見塚1丁目ほか
- 交通: 仙仙台駅から市営バス霞の目営業所行きで19分、遠見塚小学校前下車
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
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