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惣ヶ池遺跡2023年11月05日 00:04

惣ヶ池遺跡(そうがいけいせき)は大阪府和泉市の北部の信太山丘陵上の標高50mから60mに立地する高地性集落である。

概要

発掘調査は、市道信太5号線整備・信太丘陵里山自然公園活動拠点施設建設に先立っておこなわれた2021年(令和3年)の発掘調査で弥生時代後期中葉の竪穴建物を検出し、長さ420m、幅60mから80mの集落規模を確認した。近畿地域最古級の仿製鏡と集落内での鉄器加工の鍛冶炉跡を確認した。近畿地域の弥生時代後期の金属文化を考える重要な材料となる。弥生時代の鉄の矢じりは、大変珍しいものである。池上曽根遺跡縮小後の大集落である。 当時の最先端の物品・技術を受容した先進的な集落であった。

鍛冶炉

竪穴建物のピットの周囲に炭、灰、焼土が広がり、それらを囲むコ字状の溝を検出した。 直径9.8mの大型建物で6本の柱で支えられていた。中央炉の周辺には、炭と焼土が固く焼け締まっていた、また遺構の特徴と竪穴建物の内部から砥石と敲石が少量出土しているため、中央ピットが鉄器を作るための鍛冶炉と考えられる。

小型仿製鏡

漢王朝で作られた鏡をまねて日本列島で作られた鏡である。直径6.4cm。縁部の幅が狭いこと、紐の形が半球形であることから、近畿地域で最古級の仿製鏡と考えられる。泉州地域では唯一の出土例となる。

遺構

  • 竪穴建物 4棟
  • 溝・ピット約200基
  • 土坑

遺物

  • 弥生土器
  • 鉄器
  • 小型仿製鏡
  • 鉄製の矢じり

所在地

  • 名称:惣ヶ池遺跡
  • 所在地:大阪府和泉市鶴山台4-21
  • 交通:

参考文献

  1. 文化庁(2023)『発掘された日本列島 2023』共同通信社

双方中円墳2023年11月05日 00:27

双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)は円丘に2つの方丘をつなぎ合わせた形状の古墳である。

概要

古墳時代前期に見られる。福岡大学の桃崎祐輔教授(考古学)によると、双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされる。確認例は奈良県天理市の櫛山古墳や香川県高松市の猫塚古墳など全国で数例のみである。

事例

  • 櫛山古墳 - 奈良県天理市、古墳時代前期後半
  • 西ノ城古墳 - 福岡県うきは市、古墳時代前期初頭(3世紀後半)
  • 猫塚古墳 - 香川県高松市、古墳時代前期(4世紀前半)

参考文献

秦河勝2023年11月05日 11:59

広隆寺資財校替実録帳

秦河勝(はたかわかつ、生没年不明)は古墳時代から飛鳥時代の豪族である。

概要

秦氏の中心人物で、山城の葛野の人である。新羅系の渡来人で、始皇帝の五世孫融通王の子孫とされる。厩戸皇子から譲り受けた仏像をまつるため広隆寺を建立したとされる。 また『新撰姓氏録』によれば、4世紀頃に秦国から百済を経由し倭国へ帰化したとされる。 『上宮聖徳太子伝傳補闕記』によれば、587年(用明)に物部守屋の討伐の時、太子を守り、四天王の矢が守屋に当たったとき、秦河勝はその頭を斬ったとされる。その功により、冠位十二階の制定に際して、大仁に任じられたとされる。 603年(推古11年)、太子より仏像を譲られた。610年、新羅使の来朝時に先導役を務める。 『広隆寺資財校替実録帳』に622年(推古30年)に太子から贈られた仏像を本尊として広隆寺を造立したとされる。643年の上宮王家の滅亡時における動静は不明である。富士川付近で河邊の人大生部多が虫を祭って財産を捨てさせた騒擾を秦河勝が鎮めたとされる。

日本書紀

  • (原文 巻第廿二 推古十一年)十一月己亥朔、皇太子、謂諸大夫曰「我有尊佛像、誰得是像以恭拜。」時、秦造河勝進曰、臣拜之。便受佛像、因以造蜂岡寺。
    • (大意)厩戸豐聰耳皇子は大夫らに「尊い仏像がある。誰かこの像を礼拝するものはいないか」と問うと秦河勝は進み出て「私が拝みましょう」といい、これを受けて蜂岡寺(広隆寺)を建立した。
  • (原文 巻第廿二 推古十八年冬十月)丁酉、客等拜朝庭。於是、命秦造河勝・土部連菟爲新羅導者、以間人連鹽蓋・阿閉臣大籠爲任那導者、共引以自南門入之、立于庭中。時、大伴咋連・蘇我豐浦蝦兩臣・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣、共自位起之進伏于庭。於是、兩國客等各再拜、以奏使旨。
    • (大意)新羅と任那の献使が来朝したとき、秦河勝と土部菟に命じ新羅の使者の先導者とした。
  • (原文 巻第廿四 皇極三年秋七月)都鄙之人、取常世蟲、置於淸座、歌儛、求福棄捨珍財。都無所益、損費極甚。於是、葛野秦造河勝、惡民所惑、打大生部多。
    • (大意)大生部多は人々に虫を祭り、福を求めて歌を歌い財産を捨てることを奨励し、損をさせた。葛野の秦河勝は庶民を惑わす大生部多を打ち据えた。

広隆寺資財校替実録帳

  • (原文)右寺縁起推古天皇治天下三十歳次壬牛花土秦造河勝奉為

参考文献

  • 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  • 『広隆寺資財校替実録帳』国立国会図書館

八戸市博物館2023年11月05日 17:43

八戸市博物館(はちのへしはくぶつかん)は青森県八戸市の地域歴史博物館である。

概要

秋山皐二郎八戸市長(当時)より「八戸市市制50周年記念事業」の一つとして、博物館が建設され、1983年7月に開館した。初代館長は郷土史家の正部家種康である。 考古、歴史、民俗、無形資料の4展示部門から成り、繩文時代から江戸時代に至るまでの政治、経済、文化、生活などにまつわる貴重な資料を展示する。八戸市内で発見された土偶、土器、古代太刀の一部、農具や漁具、伝統の祭りえんぶりや八戸三社大祭に関する資料1万点を収蔵する。代表的な収蔵品として後醍醐天皇の綸旨などの古文書、根城の出土品、八戸城の新御殿復原模型がある。分に郷歴史民俗資料館(博物館分館)がある。

根城の広場

1994年10月に「史跡 根城の広場」を開設する。南部師行により築城された城跡である。安土桃山時代の根城の様子が復原整備される。主殿のほか、工房・板蔵・納屋・馬屋などが復原整備された。ボランティアの史跡ガイドが史跡の案内を行う。

展示

考古展示室

  • 縄文時代(約1万3千年~2千3百年前)
    • 重要文化財に指定された「丹後平古墳群出土品」が展示される
    • 長七谷地遺跡
    • 田面木平遺跡
    • 蟹沢遺跡
    • 松ヶ崎遺跡
    • 町畑遺跡
    • 八幡遺跡
  • 弥生時代
    • 長七谷地遺跡
  • 古墳時代
    • 鹿島沢古墳群(根城)
    • 丹後平古墳群(根城ニュータウン)

歴史展示室

  • 八戸藩の誕生
    • 根城南部氏に関する古文書、武具などを展示
  • 民俗展示室
  • 縄文の部屋

アクセス等

  • 名称:八戸市博物館
  • 所在地:〒039-1166 青森県八戸市大字根城字東構35-1
  • 休館日: 月曜日(ただし第一月曜日および祝日の時は開館)
  • 開館時間: 9:00~17:00(入館は16:30まで)
  • 入館料: 個人 250円
  • 交通: JR八戸駅から八戸駅前バス停より乗車【市営・南部:田面木経由】根城バス停下車で徒歩1分。

参考文献

万二千余里の意味2023年11月05日 22:00

東夷伝の里程(東潮)「「三国志」東夷伝の文化環境」

万二千余里の意味(まんにせんよりのいみ)は『魏志倭人伝』に書かれた萬二千餘里が観念的な数字であるという説である。

概要

『魏志倭人伝』には郡から女王國まで「萬二千餘里」と書かれている。郡とは帯方郡である。 つまり、帯方郡から女王卑弥呼のいる邪馬台国まで1万二千里あまりであると書かれている。この数字が正しいものとして、邪馬台国の位置を比定しようとする議論がさかんに行われてきた。いわゆる里程論である。しかし、1万二千里が果たして正しい数字であるかは疑問であるとする説がある。邪馬台国まで1万二千里が正しい数字でないとすれば、里程論はそもそも成り立たない議論となってしまう。そこで、「萬二千餘里」の妥当性を論じた松本清張の説と東潮の説を紹介する。

松本清張説

松本清張(2017)は、「帯方郡から倭までの万二千余里」はいいかげんな数字であるとする。例として『前漢書』西域伝「大宛国。王は貴山城に治む。長安を去る万二千五百五十里」と書かれ個所がある。五百五十里を端数(余里)とみれば「万二千余里」になる。また「鳥弋山離国、長安を去る万二千二百里。都護に属さず」、「安息国、王は番兜城に治む。長安を去る万一千六百里。都護に属さず」「大月氏国、王は氏城に治む。長安に去る万一千六百里。都護に属さず」「唐去国。長安を去る万二千三百里。都護に属さず」などの数字、四捨五入するとすべて「万二千余里」となる。これらは、いずれも都護に属さない(中国から見た)辺境の蛮地とされる国である。端数は一見正しく見せるための粉飾であるとする。すなわち「万二千里は首都から蛮地までの距離」を表す決まり文句のような数字となっている。

『三国史』の陳寿は『前漢書』の前例を踏襲し、帯方郡から遙かに遠い蛮国の女王国までの距離を一万二千余里としたのである。「東夷伝記載の里数はいずれも虚数であり、倭人伝の里数も虚数である」とした。

結論的に松本は「倭人伝は東夷伝の中の記事であるから、倭人伝だけを切り取って論じるべきではない。東夷伝諸国の記事を見渡しながら研究しなければならない」とし、さらに「これまでの諸学説の論議がいかに虚妄の数字を抱いて苦悩してきたか、その愚かさに唖然となるに違いない」と里程論を批判する。説得力のある議論といいえる。

九服説と東夷伝

東潮(2009)は帯方郡から邪馬台国までの「万二千里」は『周礼』の九服説によって書かれたと指摘する。すなわち京師からの地理観を郡治からの距離観におきかえる小天下観にもとづいて記述されたものであると指摘する。

九服説は「周礼‐夏官・職方氏」に書かれたものである。中国、古代の制度として千里四方の王畿を中心とし、外へ五百里ごとに一服とした九つの区域で表される世界観である。その証拠として、『三国志』東夷伝の冒頭に『尚書』禹貢篇五服,『周礼』夏官職方氏の「九服之制」にもとづく天下方万里説が展開されていることをあげる。

帯方郡から邪馬台国までを同様に、帯方郡を長安に置き換え、そこから最も遠い辺境の地として邪馬台国を位置づけた。 帯方郡から狗邪韓国までの「七千里」は六服の方七千里に対応するとし、狗邪韓国から「周旋五千里」を加算して、「万二千里」になったとする。蛮服の世界である。「周旋五千余里」は「方5 千里」に相当するとされる。整理すれば、帯方郡から狗邪韓国まで「七千里」、狗邪韓国から伊都国まで3500里、伊都国から邪馬台国まで、水行を除くと合計陸行一月(30日)となり、日に五十里(『唐六典』)として1500里となる。合計して1万二千余里である。(水行分は余里とする)『周礼』にいう蛮服の世界が描かれている。

以上のように、帯方郡から邪馬台国までの「万二千里」の記載は『周礼』に記載された中国古代の世界観に基づく観念的な数字となっている。

参考文献

  1. 松本清張(2017)『古代史疑』中央公論新社
  2. 東潮(2009)「「三国志」東夷伝の文化環境」 国立歴史民俗博物館研究報告 巻 151, pp. 7-62