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弘仁地震2026年02月21日 00:11

弘仁地震(こうにんじしん)は平安時代初期の818年(弘仁9年)7月に発生したとされる地震である。史料上は『類聚国史』弘仁九年七月・八月条に被害状況が記録されており、相模国・武蔵国・常陸国・上野国・下野国など関東地方広域に被害が及んだと記される。

地震規模

地震規模については、近年の歴史地震研究によりマグニチュード7.5以上と推定する見解があり、一説にはM7.9とする推定もある(防災科学研究所・国立天文台編『理科年表』ほか)。ただし、史料記述に基づく推定値であり、確定的な数値ではない。

史料には「山崩れ」「地割れ」「家屋倒壊」などの被害が記され、死傷者も多数に及んだと伝えられる。

史料にみえる被害の概要

1. 地割れ

赤城山南麓から大間々扇状地周辺にかけて、平安時代前期の地震に伴うと考えられる地割れ痕が確認されている。 桐生市新里町では1991~2000年に実施された発掘調査により、196遺跡中12遺跡で同時期と推定される地割れが検出されたと報告されている。

2. 土石流・斜面崩壊

『類聚国史』には「水潦相仍ぎ」とあり、豪雨あるいは地震に伴う斜面崩壊が連続した可能性が示唆される。 赤城山南斜面では複数地点で崩壊堆積物が確認され、磯山遺跡・不二山遺跡などの発掘調査でも土石流由来とみられる堆積層が検出されている。

鏑木川流域、早川・粕川・荒砥川流域でも類似の報告があり、斜面崩壊は局所的ではなく広域的に発生した可能性がある。沖積地の水田や集落が被害を受けたと考えられている。

3. 液状化現象

埼玉県北部(深谷市・熊谷市・行田市)から群馬県南部(伊勢崎市・前橋市)にかけて、平安時代初頭の液状化痕跡が複数遺跡で確認されている。 砂脈や噴砂痕の分布から、広範囲で強い揺れが生じた可能性が指摘されている。

4. 建築物への影響

寺院遺跡では屋根瓦の落下・破損、版築基壇の亀裂、礎石からの柱ずれなどが確認されている。 前橋市の上野国分寺跡、山王廃寺跡などが代表例である。 また、赤城山南麓の古墳では横穴式石室の側壁崩壊例も報告されている。

5. 逆転地層

山崩れに伴う堆積により、本来の地層順序が乱れた逆転地層が赤城山南麓で広く確認されている。これは急激な土砂移動の証拠と考えられている。

朝廷の対応

朝廷は地震発生後、被災国に使者を派遣し、国司とともに被害調査を実施した。 その後、

  • 賑給(米・塩の支給)
  • 租・調の免除
  • 正税による家屋修理補助
  • 死者の埋葬促進

などの措置を命じたと『類聚国史』に記されている。

同史料では、地震を天皇の徳政と結びつける記述もみられ、当時の思想的背景として天人感応説の影響がうかがえる。

震源と発生要因

震源域については、現在の群馬県桐生市新里町北部付近と推定する説がある。 一方で、特定の活断層活動ではなく、赤城山周辺の地殻変動や火山活動に関連する地下構造変化の可能性を指摘する研究もある(加部2002)。ただし、決定的な証拠は得られていない。

周辺時期の地震活動との関係

弘仁地震の約60年後、878年(元慶2年)に相模・武蔵地震が発生したと『日本三代実録』に記録される(推定M7.4)。 9世紀後半には、東北地方で貞観地震(869年)、伊豆諸島の噴火(886年)などが相次いだことが知られる。

ただし、これらの地震同士に直接的な因果関係があるかについては明確ではなく、内陸地震の発生間隔も数千年規模と推定される場合がある。

防災的視点

歴史地震研究は、過去の被害規模や揺れの広がりを復元することで、防災計画の基礎資料となる。 内陸型地震は発生予測が困難とされるため、日常的な備えの重要性が指摘されている。

弘仁地震の研究史

1.史料研究段階(近世~20世紀前半)

弘仁地震の認識は、主として『類聚国史』の弘仁九年七月・八月条の記事に基づいて形成された。近世以来の史料編纂・校訂作業により記事の存在は知られていたが、当初は自然災害記事の一つとして扱われ、震源や規模の具体的検討は限定的であった。 また、9世紀の他の地震記事(『日本三代実録』所載の元慶地震など)との比較も、主に文献史学の枠内で行われていた。

2.歴史地震学の確立と規模推定(20世紀後半)

20世紀後半になると、文献史料を用いて震度分布や規模を復元する歴史地震学が発展し、弘仁地震も再検討の対象となった。 被害国の広がり、山崩れ・家屋倒壊の記事などから、マグニチュード7級後半規模と推定する見解が提示され、防災科学研究所や国立天文台編『理科年表』などでも推定値(M7.5以上)が示されるようになった。

この段階では、

  • 津波記録がないこと
  • 被害が内陸国に集中していること

などから、内陸型地震とみる理解が一般化した。

3.考古学的検証の進展(1990年代以降)

1990年代以降、群馬県赤城山南麓や桐生市新里町周辺での発掘調査により、平安時代前期に帰属する地割れ・液状化痕跡・土石流堆積層などが相次いで確認された。

特に新里地域の広域調査では、複数遺跡に同時期の地震痕跡が認められ、文献記録と対応する可能性が指摘された。 これにより、弘仁地震は単なる史料上の出来事ではなく、地質・考古資料から復元可能な実在の歴史地震として位置づけられるようになった。

一方で、

  • これらの痕跡が単一地震によるものか
  • 複数回の地震活動の累積ではないか

という検討も進められている。

4.震源論と発生要因をめぐる議論

震源については、赤城山南麓(現・群馬県桐生市新里町北部付近)を想定する説が提示されている。

しかし、発生要因については見解が分かれる。

  • 活断層起源説
    • 関東平野北部の断層活動に伴う内陸直下型地震とみる立場。
  • 火山・地殻変動関連説
    • 赤城山の地下構造変動や火山性要因に関連する可能性を指摘する見解(加部2002など)。

現時点では決定的証拠はなく、地質学的調査の深化が課題とされる。

5.9世紀地震活動との関連性

弘仁地震(818年)と、元慶2年(878年)の相模・武蔵地震、さらに貞観地震(869年)などとの関連をどう捉えるかも研究上の論点である。

広域的な応力場変化との関係を推測する見解もあるが、内陸地震の発生間隔やメカニズムを踏まえると、直接的連動を示す証拠は十分ではないとする慎重論が有力である。

6.現在の到達点と課題

現在の研究状況は次のように整理できる。

  • 文献史料と考古資料の対応関係は一定程度確認されている
  • 規模はM7級後半と推定されるが幅がある
  • 震源域は赤城山南麓周辺が有力視される
  • 発生メカニズムは未確定

今後の課題としては、

  • 高精度年代測定による地震痕跡の同時性検証
  • 断層調査の進展
  • 火山活動史との統合研究

が挙げられる。

参考文献

  1. 早川由紀夫,森田 悌,中嶋田絵美(2003)『『類聚国史』に書かれた818 年の地震被害と赤城山の南斜面に残る9 世紀の地変跡』歴史地震 第18 号(2002) pp.34-41
  2. 国立天文台編(2024)『理科年表プレミアム(編)』丸善出版
  3. 田中広明(2014)「弘仁地震の被害と復興、そして教訓」学術の動向 19 (9), pp.38-41
  4. 加部二生(2002)「流されてきた遺構」『赤城村歴史資料館紀要』第4集 赤城村教育委員会・赤城村歴史資料館

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