形象埴輪 ― 2023年07月01日 00:01
対馬国 ― 2023年07月01日 00:17
対馬国(つしまこく)は現在の対馬である。東シナ海と日本海の接続部にある対馬海峡に浮かぶ島である。
概要
魏志倭人伝に記載される国のひとつであり、狗邪韓国から海を渡ったところにあるとされる。魏志倭人伝の対馬国の記述は簡潔であるが、正確である。水行は沿岸伝いの航路で、渡海は広い海を渡ることを言う。大官の卑狗と副官の卑奴母離は邪馬台国から派遣された指導者である。対馬国に王がいるかは魏志倭人伝に記載がない。李氏朝鮮時代の『海東諸国記』の記述とほぼ同じである。
表記の違い
魏志倭人伝の版により対馬国の表記が異なっている。紹熙本では「對海國」、紹興本では「對馬國」とする。「魏略逸文」では「対馬国」となっている。紹熙本の表記は誤植と推測される。 対馬国は倭国の1国として登場し、邪馬台国に服属していると記される。位置は博多から120km、壱岐から70km、金海から50kmである。
魏志倭人伝の大意
狗邪韓国から海を渡り千余里で対馬国に至る。その長官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。周囲は400里ほどの離れ小島である。土地の山は険しく、深い森林がある。道路は鳥や獣が通る道のようである。戸数は千余戸ほどである。良田は少ない、海産物を食べて自活し、船に乗って南北から米を仕入れる。(注)市糴は米などの穀物を売買することである。
魏志倭人伝の原文
- 始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀
- 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田
- 食海物自活 乗船南北市糴
- (大意)海産物を海から取って自活し、不足する米は船に乗って南北から仕入れる。
弥生時代
弥生中期では浅茅湾一帯に遺跡が分布する。箱式石棺墓が多い。朝鮮半島からもたらされた青銅器が数多く出土する。また北部九州の青銅器の出土も多い。
国邑はどこか・
- 対馬国の国邑に相当する遺跡は長い間分からなかった。しかし三根遺跡において大規模な集落遺跡が始めて発見された。三根遺跡山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあって、広さ約4万平方メートル。対馬市教委はこれまでに7000から8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3,4棟分、竪穴住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の[[須恵器:三根遺跡]において大規模な集落遺跡が始めて発見された。三根遺跡山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあって、広さ約4万平方メートルである。 さらに弥生土器や古墳時代の須恵器、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や袋状鉄斧が出土した。弥生から古墳にかけての集落遺跡とみられている。 さらに対馬市峰町大久保の「ヌルヘノ 口 遺跡」からは弥生から古墳時代前期とみられる土器片が複数出土した。別の場所から同時代に朝鮮半島北部で作られたとみられる「 楽浪系土器」の破片1点と、朝鮮半島南部で作られたとみられる「 三韓土器」の破片1点が見つかっている(参考文献1)。
王墓
西谷氏は対馬国の王墓として、下ガヤノキ遺跡を候補に挙げている。「下ガヤノキ遺跡F地点」の箱式石棺の中から弥生後期前半の内行花文鏡2面、年代形式不明の鏡2面が出土している。これらの遺物は石棺墓の副葬品であった可能性が高いとされ、そうした場合は石棺墓が王墓と示唆される。
対馬の主要な遺跡
古墳
- 根曽古墳群
- 朝日山古墳
- 出居塚古墳:
参考文献
- 「対馬のヌルヘノ口遺跡から土器片」読売新聞、2022年11月3日
- 西谷正(2014)「邪馬台国周辺諸国の実像」歴史読本、KADOKAWA
魏志倭人伝 ― 2023年07月01日 00:24
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は歴史書『三国志』の中の第30巻「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条をいう。陳寿の撰による。
概要
概ね3世紀後半(280年から297年頃)の間の出来事を記述し、当時の日本列島の倭人の様子、慣習・風俗を描いている。陳寿『漢書』地理志と『魏略』(散逸)その他を参考にしたと言われる。3世紀頃の日本(倭国)の状況を知るための基本資料となっている。
邪馬台国
当時の日本(倭)に邪馬台国があり、女王の卑弥呼が統治し、約30国を従えていたと記載される。また倭国の政治、外交、社会、風俗、習慣、産物などが述べられる。
邪馬台国位置論争
邪馬台国の候補地は60以上あるが、大きくは有力な説として、(畿内)大和説と九州説に分かれる。江戸時代に本居宣長は九州説を主張した。明治時代の歴史学者である京都帝国大学教授の内藤虎次郎(内藤湖南)は邪馬台国畿内説を唱える。一方、東京帝国大学(現:東京大学)教授の白鳥庫吉は「邪馬台国北九州説」を主張する。
魏志倭人伝
「魏志倭人伝」は-「陳寿」の記した「三国志」の中の「魏書東夷伝倭人条」の通称である。 「魏志」の中で最後の巻が「烏丸伝、鮮卑伝、東夷伝」である。「東夷伝」は9条あり、扶余、高句麗、東沃沮、?婁(わうろ)、?(わい)、韓(馬韓、弁韓、辰韓)等の諸部族に続いてその列伝の最後に「倭人条」がある。「倭人条」は約2000字(正確には1983文字)であり、30巻中で最も長文である。
参考文献
- 石原 道博訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』
- 鳥越 憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本』KADOKAWA
大開遺跡 ― 2023年07月01日 10:45
大開遺跡(だいかいいせき)は兵庫県神戸市にある弥生時代の遺跡である。
概要
六甲山南麓の沖積地内の標高約4メートルの微高地上に立地する。短径40メートル×長径70メートルの楕円形の環濠集落である。北部九州以外では、最初期の環濠集落である。住居数棟の周囲を径40m、幅約1mの環濠が巡る。2000m2に満たない小規模で簡素な集落である。
調査
神戸市立兵庫大開小学校建設に伴う発掘調査は昭和63年8月から平成元年12月16日まで実施された。佐原真、都出比呂志、福永伸哉等のアドバイスを得た。放射性炭素年代測定は学習院大学木越邦彦が行った。
遺構
- 竪穴住居跡 集落遺跡 環濠内4棟、環濠外1棟
- 環濠
- 柱穴群
- 土坑3
遺物
石棒は、縄文時代から弥生時代前期頃の祭祀に使われたと考えられている棒状の磨製石器である。子孫繁栄や豊穣を祈願した呪術的な道具と考えられている。 この石棒は、結晶片岩製である、粉々に割れた状態で出土した。これは、石棒を放棄する際に、細かく破砕してから、土器などと一緒に捨てられたと考えられている。復元すると全長は1メートル前後と推定される。
指定
アクセス等
- 名称:大開遺跡
- 所在地:兵庫県神戸市大開通4丁目1-39
- 交通:新開地駅から徒歩6分。
参考文献
- 文化庁(2016)『発掘された日本列島 2016』共同通信
- 神戸市教育委員会(2993)『大開遺跡発掘調査報告書』
- 石川日出志&(2010)『農耕社会の成立』岩波書店
紀年論 ― 2023年07月01日 16:35
紀年論
(きねんろん、chronology)は『日本書紀』『古事記』に記載された紀年に実年代との矛盾があるため、これを学問的手続によって解決しようとするための方法論である。
概要
『日本書紀』『古事記』の「紀年」とは天皇の代ごとに年数を元年から順次1年ごとに年数を数える方法である。たとえば「神武元年」「神武五年」などである。
紀年の矛盾
1.『日本書紀』巻9の神功紀にみられる年代的不整合 2.国内外の諸史料と応神紀以降の歴代天皇の在位期間との不整合 3.歴代天皇の在位期間や宝算における非現実的数字
神功紀にみられる年代的不整合
『日本書紀』神功摂政66年に「この年は、晋の武帝の泰初二年である。晋の起居によれば、武帝泰初2年10月に倭の女王は訳を何度もして貢献した(原文:六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」と書かれる。泰始2年は、西暦では266年である。すると、神功摂政元年は201年となる。
ところが神功摂政66年の記事に「百済の枕流王が亡くなった。王子の阿花は年少であったため、父の辰斯が王位を奪って王となった(原文:六十五年、百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王) と書かれる。枕流王は385年11月に在位2年でなくなっている。(『三国史記』)ここから、神功摂政元年は西暦321年(=385-65+1)となる。
すなわち、神功摂政元年は201年と321年とで、120年の差が生じる。これが年代的不整合の内容である(倉西裕子(2003))。
このことを最初に指摘したのは、明治期の歴史学者の[[那珂通世]]である。神功紀,応神紀の紀年は両紀に引用された百済史料『百済記』と同じ干支であるが,120年の差があることから,神功紀・応神紀の紀年は120年(干支2運)くりあげられていることを論証した。
『日本書紀』と『古事記』とで、天皇の宝算がことなる。また非現実的な没年齢が記される。 一例を挙げると次の通りである。
No | 天皇名 | 代数 | 日本書紀宝算 | 古事記宝算 |
---|---|---|---|---|
1 | 神武 | 1 | 127歳 | 137歳 |
2 | 考安 | 6 | 137歳 | 123歳 |
3 | 崇神 | 10 | 120歳 | 168歳 |
4 | 垂仁 | 11 | 140歳 | 153歳 |
5 | 景行 | 12 | 106歳 | 137歳 |
6 | 応神 | 15 | 110歳 | 130歳 |
天皇の在位期間の史料間の不整合
日本書紀の編年をそのまま使うと、『宋書』倭国伝、『梁書』倭伝に登場する[[倭の五王]]のうち「讃」「珍」「済」はすべて允恭天皇のときになってしまう。なぜなら、允恭天皇の在位は411年から453年であるが、「讃」の遣使は421年と425年、「珍」の遣使は443年と541年、「済」の遣使は462年である。「武」の遣使は478年(雄略在位)、502年(武烈在位)となる。
春秋二倍暦説
参考文献
在位期間や宝算における非現実的数字を解消するため、[[春秋二倍暦説]]が提案されている。春秋二倍暦説が正しいとすれば、神武は64歳・崇神は60歳・応神は50で崩御したことになるから、非現実的数字ではなくなる。しかし、[[春秋二倍暦説:https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/05/10/9584943]]の証明は不十分である。
1.倉西裕子(2003)『日本書紀の真実』講談社
2.金富軾著、井上秀雄 訳(1983) 『三国史記』 第2巻、平凡社
3.石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
麻 ― 2023年07月02日 22:14
麻(あさ, hemp)は古代で衣服の原材料として用いられたアサ科アサ属の大麻である。
概要
現代では植物表皮の内側にある柔繊維または、葉茎などから採取される繊維の総称である。 縄文時代の出土例があり、弥生時代に麻は織物にされていた。 最古の出土例は縄文時代早期の鳥浜貝塚遺跡(福井県三方町)で出土した大麻製の縄である。 千葉県の沖ノ島遺跡では約1万年ほど前の地層から麻の実が出土する。 縄文後期の中山遺跡(秋田県南秋田郡)で発見された編布が最古である。 3世紀の邪馬台国を記した『魏志倭人伝条』には、「禾稲 ・紵麻を種え、蚕桑緝積して、細紵・縑緜を出だす」との記述がある。麻を広く利用していたとみられる。
律令制
律令制の調・庸では税を麻布で納めることが認められており、調・庸とも正丁一人当たり幅2寸4尺、長さ2条6尺で、合わせて1反であった。
出土例
- 大麻の縄 鳥浜貝塚遺跡
- 編布 中山遺跡
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 石原道博訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
家形石棺 ― 2023年07月02日 22:29
家形石棺(いえがたせっかん)は身が箱形で蓋は屋根状の石棺である。
概要
5世紀中頃に登場し、7世紀までみられる。6世紀代が最盛期である。蓋石は頂部に長方形の平坦部をもつ四方流れにの屋根型である。蓋石の外部斜面には数個の網掛突起をつける。 身には刳抜(くりぬき)式と組合せ式との二種がある。末期には身に格狭間を施したり、縄掛突起に蓮華文を彫ったものがあり、仏教の影響が見られる。
石材
石材の産地は、畿内の二上山、播磨の竜山、吉備の浪形山などがある。
出土例
- 藤ノ木古墳
- 見瀬丸山古墳
- ホケノ山古墳
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 石原道博訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
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