備中国分寺跡 ― 2023年05月20日 00:47
備中国分寺跡(びっちゅうこくぶんじあと)は岡山県総社市上林にある寺院跡である。
概要
低丘陵のゆるやかな南麓に位置する東西160m、南北187mの寺院跡である。備中国分寺は聖武天皇が741年(天平13年)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々と国を守る (鎮護国家)ことを目的に建てられた官寺の一つであった。 敷地の周囲は底面の幅約1mの築地によって区画されていた。創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複する。建物は南門や中門が発見されており、ともに5間×2間である。1971年(;昭和46年)に岡山県教育委員会が実施した発掘調査によって、南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが確認されている。金堂跡や講堂跡は現在も寺の境内地のうちに含まれており、その位置や規模などは明らかではない。 出土品は軒丸瓦や軒平瓦のほかに、鬼瓦や、魚の形に似た一対の棟飾りである鴟尾などがある。 出土した土器などから、中世初期まで存続したと推定されている。備中国分寺は、中世には廃寺となったが、その後江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興された。現存する伽藍はすべて再興後に建てられたものである。
調査
遺構
出土遺物
指定
- 昭和43(1968)年2月15日 国指定 史跡
アクセス
- 名称:備中国分尼寺跡 吉備路風土記の丘県立自然公園内にある。
- 所在地:〒719-1123 岡山県総社市上林
- 交通:JR伯美線総社駅から総社バス「吉備路もてなしの館」下車、徒歩約15分
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
- 葛原克人(1975)「備中国分寺」『仏教芸術』103
備中国分尼寺跡 ― 2023年05月20日 00:49
備中国分尼寺跡(びっちゅうこくぶんにじあと)は岡山県総社市上林にある寺院跡である。
概要
備中国分寺と同じく、聖武天皇の勅願により建立された尼寺である。築地跡の痕跡から東西約108m、南北約216mの長方形の寺域と推定される。 護国寺として栄えていたが、南北朝時代に兵火にあった。備中国分寺の東約600mに位置し、現在は松林の中に建物の礎石や築地塀の痕跡が残るだけである。金堂礎石はよく残る。 南門の3個の礎石と基壇、中門の基壇、大型の金堂礎石群、2個の礎石を残す講堂、建物跡を思わせる整地面が一直線に並ぶ。伽藍は南門・中門・金堂・講堂と、ほぼ一直線に配置されていたと推定されている。中門跡の東方に方形基壇がみられるが、規模が小さく、塔跡とは見られない。
調査
発掘調査はされていない。
遺構
出土遺物
指定
- 大正11(1922)年10月12日 国指定 史跡
アクセス
- 名称:備中国分尼寺跡 吉備路風土記の丘県立自然公園内にある。
- 所在地:〒719-1123 岡山県総社市上林
- 交通:JR伯美線総社駅から総社バス「吉備路もてなしの館」下車、徒歩約15分
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
土井ヶ浜遺跡 ― 2023年05月20日 00:49
土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき, Doigahama Heritage)は山口県下関市にある弥生時代の遺跡である。
概要
関門海峡の北西、山口県下関市の響灘に面する海岸砂丘にある土井ヶ丘といわれる弥生時代の遺跡である。1953年(昭和28年)以来、1957年(昭和32年)まで、九州大学医学部教授の金関丈夫等により、その一部地域が発掘調査され、200体余の人骨が発見された。埋葬施設として礫石を四隅に配する簡單な施設、あるいは礫石を四周に長方形に囲んだ一種の石囲いをなす施設、さらに組合式箱形石棺などが見つかっている。これまでに延べ19回の学術調査により総計300体以上の人骨が発見されている。同じ方向を向いて埋葬されていた。頭向きはほぼ東枕である。弥生式時代前期の終り頃の集団墓地である。1953年の第1次調査で最初に出土した女性人骨は胸部から鵜の骨が検出された。鵜と共に埋葬されていた。
出土
硬玉製勾玉、碧玉岩製管玉、貝製小玉、ガラス製小玉、貝製腕輪、貝製指輪等の装身具など。
平均身長
縄文時代の人々の平均身長の比較は土井ヶ浜遺跡から大量の人骨が見つかったため、比較ができるようになった。 平均身長の比較
- 時代----|成人男性-成人女性-
- 縄文時代-159cm-148cm
- 弥生時代-163cm-158cm
金関丈夫説
弥生人と縄文人との差が生まれた原因は大陸から渡ってきた人が縄文人と混血することによると主張した(混血説、渡来説)。これに対して鈴木尚は小進化説を唱えた。すなわち縄文人が進化して弥生人になったと主張した。 その後、弥生人と同じ形質をもつ人骨は朝鮮半島や山東半島から見つかり、混血説が正しいことが証明された。縄文人を母体として、寒い地方に適応して体が大きくなり、花の中の空間に暖かい空気を溜められるよう顔を大きくなった朝鮮半島の人々が日本列島に渡来して混血して弥生人が生まれた。
規模
- 南北: 約120メートル
- 東西:南北約40メートル
- 面積
指定
- 1962年、砂丘の一部が国の史跡「史跡土井ヶ浜遺跡」に指定された。
土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム
土井ヶ浜の弥生人の弥生時代から現代に至るまでの日本人の形質の変化やルーツを展示する人類学専門の博物館である。
- 名称:土井ヶ浜遺跡 人類学ミュージアム
- 休館日: 月曜日、年末年始(12月29日~1月3日)
- 利用時間:9:00~17:00
- 入館料:一般500(400)円、大学生300(200)円、高校生以下無料
- 所在地: 〒759-6121 山口県下関市豊北町神田上891-8
- 交通:JR「二見」駅より「肥中」行きバス乗車、「土井ケ浜」下車
参考文献
- 設楽博己(2013)『遺跡から調べよう』童心社
荒神谷遺跡 ― 2023年05月20日 12:31
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき,Kojindani Ruins)は島根県出雲市斐川町にある弥生時代の青銅器埋納遺跡である。
概要
仏経山から北東3kmにある標高22mの小さな谷間の南向きの斜面に上下二段の加工段が作られており、その下段に銅剣が合計358本、4列に整然と並べて埋められていた。銅剣は銅に少量のすずや鉛などをまぜた合金である。遺跡は谷水田から丘陵斜面まで約150m四方に及ぶと考えられている(参考文献1,p.1)。銅剣の出土地は荒神谷遺跡の中でもさらに奥の「畑の奥」と呼ばれる谷である。出雲国風土記の出雲国健部郷に比定されている(参考文献,p.1)。銅剣の形式は岩永省三の中細銅剣C類に収まると考えられている(参考文献,p.15)(参考文献2)。
調査経過
1983年(昭和58年)広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡分布調査により、調査員が田のあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事から発見された。遺跡の南側に『三宝荒神』が祀られる事から荒神谷遺跡と命名された。1984年(昭和59年)、谷あいの斜面の発掘調査により358本の銅剣、銅鐸6個と銅矛16本が出土が出土した。また西谷に面した斜面と水田で古墳時代後期の掘立柱建物跡と遺物包含層を確認した。調査は島根県教育委員会が国の補助事業として行い、奈良文化財研究所の岩永省三の指導を得た。銅剣は標高28mの山の斜面中腹から見つかった。最終的に358口を確認した。
指定
- 1985年(昭和60年) 国の重要文化財(銅剣)
- 1987年(昭和62年) 銅鐸・銅矛追加指定
- 1998年(平成10年) 一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝指定
アクセス等
- 名称:荒神谷遺跡
- 所在地:島根県出雲市斐川町神庭873番地8
- 交通:東京・大阪(JR新幹線)→ 岡山(特急やくも)→出雲市 出雲市駅から車で20分
島根県立古代出雲歴史博物館
出土した青銅器:銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本(一括国宝指定) は、現在は文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館〔出雲市大社町杵築東〕に常設展示される。
荒神谷博物館
平成17年10月6日に荒神谷遺跡に隣接したサイトミュージアムとして建設された。 荒神谷展示室には・銅剣・銅鐸・銅矛のレプリカが展示される。大型映像「発掘ドキュメント」「出雲の原郷」を上映し、弥生時代のくらしを再現したミニジオラマ展示する。
参考文献
- 島根県教育委員会(1985)「荒神谷遺跡銅剣発掘調査概報」島根県教育委員会
- 岩永省三(1980)「弥生時代青銅器形式分類編年再考」『九州考古学』第55号
板付遺跡 ― 2023年05月20日 12:32
板付遺跡(いたづけいせき, Itazuke Ruins)は福岡県福岡市博多区にある縄文時代晩期から弥生時代後期にかけての環濠集落跡の遺跡である。
概要
福岡平野の中央よりやや東寄りに所在する。遺跡は弥生時代が主であるが、それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳から中世の遺跡もある複合遺跡である。佐賀県唐津市の菜畑遺跡とともに、日本最古の稲作集落跡とされる。土器に伴い、炭化米や籾圧痕の付いた土器、大陸系磨製石器が出土したことで水稲農耕とその源流が大陸にあることが明確になった。水稲農耕の始まりは縄文時代晩期おわりの頃まで遡ることは確実となったとする見解と弥生時代の繰り上げで整合性を取る見解とがある。
調査
標高7~9mほどの台地上の環濠集落と周辺の沖積地に広がる水田跡、墓地がある。台地下の弥生時代初期の水田跡の下の層には、さらに縄文時代晩期の水田跡が発見された。環濠内に民地や寺院(通津寺)があるため、発掘に制約がある。
出土
木製農機具や壺型土器、石包丁、石鎌、石斧、紡錘車、勾玉、用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が出土している。弥生時代の土器として夜臼式土器、板付Ⅰ式土器、板付Ⅱ式土器、板付Ⅲ式土器が出土した。
水田跡
「水稲稲作が板付Ⅰ式土器の時代よりさらにさかのぼり、夜臼式土器単純の時期に存在したことを実証する」(参考文献2,p.51)「水田跡は最下層に検出した」「溝の途中に2列の杭、矢板列があり、水田の水量調整を行ってたと考えられる」(同前)「G7a調査区に水田の水をコントルする取排水口がある」「南北に長い水田区画が考えられる」(同前,p.43) (参考文献2,p.45))。「水田面に」多量の足跡を検出した(Fig50,53) (同前,p.43)足跡は指先が確認できるものがあるため、素足で水田に入ったと考えられる。
規模
- 南北 110メートル
- 東西 81メートル
- 面積
弥生時代の開始年代
弥生時代の開始時期を繰り上げ、稲作の始まりを弥生時代と稲作開始を結びつける研究もある。 佐賀県唐津市菜畑遺跡 9 ~ 12 層出土の山ノ寺式と、福岡市博多区板付遺跡 E-5 ・ 6 区第9層出土の夜臼Ⅰ式の各1点から、「較正年代値をもとに総合的に判断すると、灌漑式水田稲作が始まる山ノ寺式段階を暫定的に 945 ~ 915cal BC と推測する」とした(参考文献3)。「考古学的にみると山の寺・夜臼Ⅰ式段階は韓国南部の先松菊里段階に併行する」と判断している(参考文献3.p.93)。
参考文献
- 福岡市教育委員会(1970)「福岡市板付遺跡 調査報告書」福岡市埋蔵文化財報告書
- 福岡市教育委員会(1979)「板付遺跡調査概報」福岡市埋蔵文化財調査報告書第49集
- 藤尾 慎一郎、今村 峯雄、西本 豊弘(2005)「弥生時代の開始年代―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―」 (特集 弥生時代の始まり) 総研大文化科学研究 (1), pp.69-96
須玖岡本遺跡 ― 2023年05月20日 12:33
須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき,Toro Ruins)は福岡県春日市岡本町にある弥生時代の遺跡である。「奴国の都」の最有力候補地である。
概要
福岡平野南部の丘陵の先端に位置する。古くから古代の墳墓・遺跡が発見されている。青銅器生産関連の遺物が多くみられる。 2019年の3次、6次調査では掘っ建て柱跡がみつかっている。
出土
1899年(明治32年)土地所有者の吉本源次郎が家屋建設に支障があるとして、大石を動かしたところ、その下から種々の遺物を発見した。その大石から7間北東の地価に煉瓦の小室を作り遺物を収めた。その後、小屋は失われ、遺物は散逸したが、中山博士は大石下を堀り甕棺と推定されるものを発見し、銅鏡、銅鉾、細形銅剣、ガラス小玉、鉢類、壺、合口甕棺、角製管玉、青銅製把頭飾を出土した。土器は素焼き赤色の弥生式土器であった(参考文献2)。 墓壙の規模が5mを超を超える巨大甕棺墓(弥生中期前半=紀元前約150年がみつかった。 被葬者の身分を示す青銅製の飾り「把頭飾」1点も出土した(参考文献3)。
前史
江戸時代、福岡藩の国学者であった青柳種信(が編纂した「筑前国続風土記拾遺」に、広形銅矛の鋳型の記事「筑前国那珂須玖村熊野神社神殿所納銅鉾型」がある。熊野神社に「王墓の上石」と呼ばれる平板の石板も残されていた。現在「奴国の丘歴史公園」に移設された(参考文献2)。
規模
- 南北:2キロメートル、
- 東西:1キロメートル
- 面積
指定
- 1986年(昭和61年)6月24日、国の史跡指定。
奴国の丘歴史資料館
春日市奴国の丘歴史資料館は、春日市内の遺跡から出土した埋蔵文化財や、昭和初期の農具を中心とした民俗資料を展示、収蔵する。甕棺墓群を発掘した状態で見学できる覆屋や、奴国王墓の上石を保存展示する。
- 名称:奴国の丘歴史資料館館
- 休館日: 第3火曜日(祝日のときはその翌日)、12月28日~1月4日
- 利用時間:午前9時~午後5時(入館は4時30分まで)
- 入館料: 無料
- 所在地: 〒816-0861 福岡県春日市岡本3-57
- 交通: JR九州鹿児島本線南福岡駅から徒歩20分(1.5キロメートル)
参考文献
- 児玉祥一(2009)「日本の遺跡と遺産 1」岩崎書店
- 島田貞彦(1930)「筑前須玖先史時代の研究」京都帝国大学文学部考古学研究報告
- 春日市教育委員会(2019)「須久岡本遺跡6-岡本地区第20次調査報告」
夜臼遺跡 ― 2023年05月20日 12:34
夜臼遺跡(ゆうすいせき)は、福岡県糟屋郡新宮町に位置する縄文時代終末期から弥生時代前期の集落跡である。
概要
立花山の北麓から樹状に伸びる標高10メートル前後の緩い斜面の先端にある。谷をはさんで弥生時代前期から中期の立花貝塚がある。
調査
1951年に森貞次郎、杉原荘介により発掘調査された。削平により住居跡は発見されなかったが、袋状竪穴(貯蔵穴)2基や包含層が発見された。一つの貯蔵穴の内部には、マガキ、オキシジミなどからなる混土貝層が充満していた。
遺構
遺物
当遺跡出土の縄文晩期の土器は痕文と刻目凸帯を特徴とする土器であり、夜臼式土器として標識土器となる。口縁部や肩部に突帯と呼ばれる粘土の帯を貼り付けた特徴をもつ土器である。夜臼式土器は水稲農耕の開始時期を考えるうえで、鍵を握る重要な土器である。最古の弥生土器が縄文土器と伴出することで知られる。
指定
アクセス
- 名称:夜臼遺跡
- 所在地: 福岡県糟屋郡新宮町大字下府425-1
- 交 通: JR鹿児島本線福工大前駅から徒歩約15分。。
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