コナベ古墳 ― 2025年02月26日 00:20
コナベ古墳(こなべこふん)は奈良県にある5世紀前半の前方後円墳である。
概要
佐紀古墳群の中では「コナベ古墳→ウワナベ古墳→ヒシャゲ古墳」の順で築造されたとみられる。周濠を巡らせることは、ウワナベ古墳と同様である。古墳時代中期の代表的な古墳である。墳丘斜面は葺石で覆われている。 前方部を丘陵の先端部にあたる南側に向けている。墳丘は後円部、前方部とも3段築成である。外堤に埴輪列が並ぶ。くびれ部の南側の前方部に長方形の造り出しが両側に作られる。 墳丘の形状は誉田御廟山古墳や市庭 古墳と相似形である。江戸時代までは近くの法華寺の所領であったが、円墳1基と方墳9基の陪冢がある。現在、横浜市の三渓園にある長持型石棺は元は法華寺東方で出土したものと言われており、コナベ古墳か平塚古墳の石棺ではないかと言われている(土生田(1987))。
宮内庁
明治以降は陵墓参考地となり、現在は宮内庁が管理しているため詳細は分からない。宮内庁は「小奈辺陵墓参考地」(被葬候補者は第16代仁徳皇后磐之媛命とされる)としている。しかし実際の被葬者はあきらかでない。2009年(平成21)年12月、宮内庁の護岸工事に伴う発掘調査で、円筒埴輪列が発見された。
調査
陵墓参考地であるため、正式の発掘調査はされていない。宮内庁書陵部は2009年12月4日、円筒埴輪列や二重の葺石を確認した。 昭和54年度の奈良市教育委員会によるコナベ古墳の調査では、円筒形埴輪、壺型土器、壺型埴輪が出土した(奈良市教育委員会(1980))。 平成16年11月24日から12月22日にかけて奈良市教育委員会によるコナベ古墳の第五次調査が行われた。発掘区は外堤の内側である。平面楕円形の土坑を発見した。周濠から円筒埴輪片(世紀前半)、須恵器高坏片(6世紀)、奈良時代の土師器皿片、須恵器皿片、丸瓦片、平瓦片が出土した(埋蔵文化財調査センター(2007))。
遺構
- 円筒埴輪 円筒Ⅲ式
- 葺石 あり
遺物
- 円筒埴輪
- 柵形埴輪
- 蓋形埴輪
- 家形埴輪
- 長持型石棺
- 三角板革綴短甲破片
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:3段、後円部:3段
- 墳長 204m
- 後円部径 径126m 高21m
- 前方部 幅129m 長96m 高18m*指定
展示
アクセス
- 名称:コナベ古墳
- 所在地: 〒630-8001 奈良県奈良市法華寺町宇和奈辺1804
- 交通: JR・近鉄 奈良駅から奈良交通バス 自衛隊行「終点」下車 徒歩1分
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
- 青木敏(2022)『古墳図鑑』日本文芸社
- 土生田純之(1987)「横浜市三渓園所在の石棺」(橫田健一先生古稀記念会『横田健一先生古稀記念文化史論叢』(上))
- 埋蔵文化財調査センター (2007)「奈良市埋蔵文化財調査概要報告書 平成16年」奈良市教育委員会
- 奈良市教育委員会(1980) 「奈良市埋蔵文化財調査概要報告書 昭和54年度」
- アジア航測(2010)[当社の航空レーザ計測技術を用いた古墳測量に関する研究成果」
赤木遺跡 ― 2025年02月26日 00:32
赤木遺跡(あかぎいせき)は宮崎県延岡市にある旧石器時代の遺跡である。
概要
西門川地域の中心部の上井野地区から南へ約5キロメートルの三ヶ瀬川に張り出した段丘上に立地する。標高は約50mである。1985年に調査された赤木遺跡第1地点 (第1図) は、 切出し形ナイフ形石器や剥片尖頭器を中心とする一群と細石器を中心とする一群の2つの文化層が確認されている。石材は流紋岩である。1985年に調査された赤木遺跡第1地点 (第1図) は、姶良Tn火山灰(AT)上位に 切出し形ナイフ形石器や剥片尖頭器を中心とする一群と細石器を中心とする一群の2つの文化層が確認されている。 2004年に調査された赤木遺跡第8地点の第二次調査 (第5図) では、5つの石器群が確認されている。第Ⅰ石器群では 小形のナイフ形石器が確認された。AT上位として、第Ⅱ石器群ではAT直上からナイフ形石器や石核が確認された。 第Ⅲ石器群では、 剥片尖頭器・角錐状石器・ナイフ形石器・台形石器が共伴して確認された。第Ⅳ石器群では、 剥片尖頭器・ナイフ形石器・台形石器が共伴し、横長剥片も確認された。第Ⅴ石器群では、 細石刃核・ナイフ形石器・台形石器・石鏃・円形掻器が共伴し、 横長剥片も確認された。 宮崎県東臼杵郡門川町教育委員会(1999)では、北東部で縄文時代後期の土器片、すり石、たたき石、石皿、剥片石器、石錘、などが出土したとされる。赤木遺跡第8地点 (第三次調査) では大きく4時期に分けられる旧石器時代の遺構・遺物が確認された。 第Ⅰ期では礫器、剥片 、石核、砕片、、敲石が出土した。第二期では薄手の縦長な剥片を利用した小形のナイフ形石器 が特徴的である。そのほか二次加工剥片、微細剥離ある剥片、剥片、抉入石器、石核、砕片、敲石が出土した。第三期ではナイフ形石器、 角錐状石器、 剥片尖頭器、 台形石器、 掻器・削器を共伴したのが特徴的であった。剥片尖頭器は、 抉りが明確であり、 基部のみに加工のあるものもある。第Ⅳ期は細石刃核、 細石刃、 ナイフ形石器、 角錐状石器、 削器を共伴するのが特徴である。石刃、細石刃核、ナイフ形石器、角錐状石器、削 器、二次加工剥片、微細剥離ある剥片、剥片、石核、砕片、磨石、敲石が出土した。
調査
遺構
- 石器集中
- 礫群
- 土坑
遺物
- 細石器
- ナイフ形石器
- 剥片尖頭器
- 角錐状石器
- 台形石器
- 削器
- 掻器
- 接合資料
- 剥片
- 石核
- 敲石
- 磨石
- 台石
- 剥片尖頭器
- スクレイパー
- 礫器
- 石錐
- 細部調整のある剥片
- 微細剥離ある剥片
- 使用痕のある剥片
指定
展示
考察
アクセス
- 名称:赤木遺跡
- 所在地:宮崎県東臼杵郡門川町大字川内字赤木
- 交 通:
参考文献
- 宮崎県東臼杵郡門川町教育委員会 (1999)「赤木遺跡発掘調査概報」
- 宮崎県埋蔵文化財センター(2008)「赤木遺跡第8地点発掘調査報告書」
稲荷山古墳 ― 2025年02月26日 20:14

稲荷山古墳(いなりやまこふん)は埼玉県行田市にある古墳時代の前方後円墳である。
概要
埼玉古墳群の中で最初に出現した古墳である。5世紀後半から6世紀の築造とされる。周濠は長方形で二重となる。名称は後円部に稲荷社(神社)があったことに由来する。稲荷山古墳は昭和初期まで個人の所有地であった。墳丘、中堤のそれぞれ西側に、造出しという張り出し部が設けらている。昭和12 年に前方部が削平され、その後放置されたたままであった。埼玉古墳群で最古の古墳は現在のところた稲荷山古墳で5世紀末、最後の古墳は戸場口山古墳や白山古墳で7世紀の前半ころと推定される。埋葬施設が判明しているのは稲荷山古墳以外では横穴式石室の将軍山古墳のみである。
調査
昭和43年度の調査では当初は愛宕山古墳が対象であったが、稲荷山古墳に変更された。理由は、①調査により原形を破壊することがない、②後円部が残存するため主体部は残っている、③大型古墳であるため主体部も当然大型であり、見学しやすいことなどである。調査により古式と判明し、竪穴式が想定された。
主体部の発見
当初は横穴式石室の探索に調査の主力を傾注したが、石室遺構は検出されなかった。埴輪の特徴から古墳の想定年代は遡り、主体部も竪穴系の埋葬施設が予測されるようになった。第6トレンチ西側において4個の河原石列を検出した。石組みの礫榔を第1主体部、撹乱されている粘土榔を第2主体部と命名した。礫櫛を覆っていた土を徐々に取り除くと、次々と副葬品が露出し、北側から鏡、その上に翡翠製の勾玉、銀環、金銅装帯金具、直刀、剣、刀子、鈴杏薬、轡、壷鐙、鞍、三環鈴、雲珠、辻金具、鉾、桂甲など棺内から多彩な副葬品が出土した。調査から10 年が経過した昭和53 年に出土鉄製品の保存修理を実施したところ、礫榔副葬品の鉄剣から115 文字の金象嵌銘文が発見された。銘文は日本古代国家成立の解明に貴重な手掛かりとなる第1級資料と判明し、昭和58 年に「武蔵稲荷山古墳出土品」として一括して国宝に指定された。
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 120m
- 後円部 径62m 高11.7m
- 前方部 幅74m 長推定58m 高推定10.7m
- 葺石 なし
遺構
- 室・槨
- 舟形礫槨
- 粘土槨
- 【造出】は後円部西側くびれ部近くにある。
- 【周濠】方形(2重)。濠の深さは築造当時の地表面から約1.8メートルと推定される。
- 【その他】中堤西側に南北27m・東西26.5mの造出部が付設。1937~38年、前方部土取りのため削平される。
遺物
- 円筒埴輪 - 円筒・朝顔形
- 形象埴輪 - 楯、寄棟造、馬、猪、巫女、武人、弾琴など、
- 画文帯環状乳神獣鏡(中国)1。
- 勾玉1。
- 銀環2
- 帯金具。
- 辛亥銘鉄剣1・
- 剣1
- 剣、
- 鉄刀:
- 直刀4
- 直刀、
- 鉄鉾:
- 袋鉾2。
- 長頸鏃:細身式、細身式、広身式
- 挂甲1
- 挂甲(小札)
- 刀子2・
- 鉗・
- 斧・
- 鑷子・
- 砥石
- 鎌1。
- 轡・
- 木心鉄板飾壺鐙
- 鉸具
- 鞍
- 鈴杏葉
- 三環鈴
- 素環雲珠
- 素環辻金具
- 飾帯金具
- 辻金具
- 轡
- 鉸具。
指定
- 昭和58年6月6日 特別史跡に指定
築造年代
- 古墳時代後期の5世紀後半と考えられている。
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 埼玉県教育委員会(2007)『武蔵埼玉 稲荷山古墳』稲荷山古墳発掘調査 保存整備事業報告書
柳本天神山古墳 ― 2025年02月26日 20:57
柳本天神山古墳(やなぎもとてんじんやまこふん)は奈良県天理市にある4世紀後半の前方後円墳である。別名は「大和天神山古墳」「奈良天神山古」「柳本大塚古墳」である。
概要
行燈山古墳の西側である。東側の半分は国道169号線の建設時に破壊され、西側のみが残存する。周濠の有無は判明していない。埴輪は出土せず、葺石はない。段築や周濠は不明瞭である。 山麓に立地し、前方部が南向きである。人物の埋葬は無く、遺物のみを葬った古墳としては最大規模である。大和盆地東辺に立地する柳本古墳群の中の1つ。天神山古墳は遺体を埋納した形跡がなく、すぐ東に行燈山古墳(崇神天皇陵)があり、同陵の遺物のみを埋納した陪塚とも考えられている。天神山古墳の築造年代は4世紀後半頃とされる。
調査
1960年に国道の敷設に伴い、奈良県立橿原考古学研究所により竪穴式石室の調査が行われた。竪穴式石室は全長6.1mで、石室内部には合掌式石室である。棺台は粘土を用いており、棺はコウヤマキ製の「木櫃」(木製の上蓋つきの棺)が安置されている。銅鏡23面や鉄製品の副葬品が多量に出土した。木棺中央に41kgに及ぶ朱が置かれており、周囲に銅鏡が置かれていた。銅鏡は、後円部中央の竪穴式石室の中の木櫃の内から20面がみつかり、棺外から3面が発見された。鏡は木櫃の周縁に沿って北から右廻りに20面を一周させ、櫃外の北側に2面、南側に1面が配されていた。剣は木製の柄装具に直弧文が描かれる。遺体を埋葬した形跡がないため、「木櫃」には遺体がなかった可能性が指摘されている。銅鏡には典型的な三角縁神獣鏡が含まれず、方格規矩鏡や内行花文鏡など中国・後漢時代の鏡(三角縁神獣鏡よりもやや古い)が主体であった。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:なし、後円部:なし
- 墳長 113m
- 後円部 径55m 高7m
- 前方部 幅50m 長43m 高さ4m
- 主体部
- 室・槨 竪穴式石槨
遺構
後円部のほぼ中央に長さ6.1mの竪穴式石室を検出。
出土遺物
- 内行花文鏡4
- 方格規矩鏡6
- 人物鳥獣文鏡1
- 変形神獣鏡2、
- 画文帯神獣鏡4
- 獣形鏡3
- 画像鏡2・
- 獣帯鏡1
- 鉄剣:4
- 鉄刀:1
- 鉄鏃
- 刀子
- 鎌
- 板状鉄斧。
- 水銀朱(41kg)。
展示
- 奈良国立博物館
- 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-1
- 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)
- 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土)
- 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土)
- 三角縁変形神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)
- 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)
- 獣形鏡(奈良県天神山古墳出土)
- 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-8
- 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-9
- 画像鏡(奈良県天神山古墳出土)727-10
- 画像鏡(奈良県天神山古墳出土)727-11
- 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-12
- 獣形鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-13
- 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)727-14
- 三角縁変形神獣鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-15
- 波文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-16
- 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-17
- 獣形鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-18
- 波文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-19
- 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-20
- 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-21
- 半三角縁人物鳥獣文鏡(奈良県天神山古墳出土)727-22
- 獣帯鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-23
- 朱(天神山古墳出土) 727-29
指定
- 2002年(平成14年)6月26日 重要文化財(考古資料)出土品 一括(考古資料)
- 2008年(平成20年) 木棺は県の有形文化財に指定
- 2009年(平成21年)奈良県指定史跡
アクセス
- 名称:柳本天神山古墳
- 所在地: 〒632-0052 奈良県天理市柳本町
- 交通:JR柳本駅徒歩14分/940m
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
- 伊達宗泰・森浩一(1963)『大和天神山古墳』奈良県教育委員会
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