Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

磨製石器2023年12月31日 07:47

磨製石器(ませいせっき,polished stoneware)は石や砂で磨いた石器である。

概要

磨製石器は石の重量があり、粘り強く均質で緻密な原石を荒削りし、それを剥離させて外形を作り、剥離面の稜線を平滑にし、全体の表面を砂や砥石などで石の表面を研磨して凹凸をなくして仕上げる。打ち割って研磨しただけで完成するものもあり、石皿や磨石のように敲打だけで仕上げて完成することもある。 磨製石器は打製石器より鋭く、手を切る心配も無いので、使いやすい。色々な形に加工できるため、様々な用途に使われる。軽く切れ味が鋭く適用範囲が広い磨製石器が普及した。

登場時期

日本で最初の磨製石器は縄文時代に登場されたとされるが、岩宿遺跡で刃部を中心に研磨した局部磨製石器が発見されている。また基部を研磨した局部磨製石鏃も発見されている。穿孔には敲打により荒削りして、石錐などで仕上げる。 縄文早期後半から前期の北海道東方地方を中心として、磨製石斧の製作で板状に研磨した素材を扁平な砂岩や安山岩の石鋸で両面から溝状に擦りきって分割する擦切技法がある。弥生時代Ⅰ期からⅡ期にかけて薄い石包丁や磨製石鏃などでも同様の擦切技法が見られる。

オーストリアの旧石器時代の磨製石器

オーストリアのヴィレンドルフ遺跡で磨製石器が検出されている。全面磨製石器の第8文化層の年代は25800YBPである。1884年から1926年にかけてJ.ゾンバティー(Szombathy),J.バイアー(Bayer),H.オーバマイアー(Obermaier)等によって調査が行われた。第8層から磨製石器が出土した。フェルゲンハウアーの正式報告には暗緑色の蛇紋岩製の楕円形玉石で周縁が鋭く研磨され、使用痕が上下両端に認められる、と記される。小野昭(1995)の観察では、「色と黒色がマダラになった蛇紋岩製で、最大長78.3mm,最大幅39.5mm,最大厚11.7mm,重量43.7g、全体に整った楕円形を呈する」とされる。小野昭(1995)は「磨製の石斧として機能していた可能性が高く,その後リタッチャーやファブリケイターとして転用されたものと考えられる」とする。現状ではフィレンドルフII遺跡第8文化層の磨製石器は,例外的な資料とできると判断している。

種類

磨製石器の種類には次がある。

  • 石斧(せきふ)
  • 石匙(せきひ)
  • 石皿(いしざら)
  • 石棒(せきぼう)
  • 石錘(せきすい)

出土例

  • 局部磨製石斧 主に刃の部分を磨いた岩宿遺跡出土の石斧である。それまで旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭にはこの石器が特徴的に存在する。

産地

参考文献

  1. 春成秀爾(2001)「旧石器時代から縄文時代へ」第四紀研究40巻6号、pp.517-526
  2. 小野昭(1995)「オーストリア・ヴィレンドルフII遺跡の磨製石器」日本考古学2巻2号、pp.201-206
  3. 松沢亜生(1979)「旧石器の製作技術」『新版 日本考古学を学ぶ〈2〉原始・古代の生産と生活』有斐閣

入墨2023年12月31日 10:09

入墨を表した土製人形/森本遺跡/京都府立山城郷土資料館

入墨(いれずみ)は古代において墨・煤・朱などの色素で体や顔の皮膚を彩色し、または線刻により文様・文字・絵柄などを体や顔に描くことである。

概要

魏志倭人伝に「男子は大小となくみなクジラのような顔で入墨を入れている」「中国にくると皆「大夫」を自称する」「南の會稽のように斷髮文身して鮫の害を防ぐ」「国によって入墨の位置は異なる」「身分によって入墨に違いがある」「のちに入墨は装飾のようになった」と書かれている。 三国志馬韓伝に「男子は時々入墨する」と書かれる。また韓伝弁辰に「風俗は倭に似ており、男女とも入墨する」と書かれる。つまり倭の風俗は弁辰に似ている。

「大小となく」の解釈

「大小となく」の解釈には年齢説と身分説とがある。年齢説は「大人も子供も(入れ墨する)」という意味とする。 身分説は吉岡郁夫(2021)に代表され、身分に関わらず入れ墨をしているとする説である。 一般的には世界各地の文身習俗では、通過儀礼で大人になった証として入れ墨を入れるという。埴輪の男子は線刻がみられる事例がある。これは入れ墨とみられる。魏志倭人伝の後半に身分により入れ墨が異なると書かれるので、身分説の方が分かりやすい。

女子の入れ墨

倭人伝には「男子は」と書かれるが、女子は入れ墨をしたかどうか書かれていない。「男子は」と書かれているので、女子は入れ墨しないとも解釈できる。しかし女性の埴輪には顔に色ぬりをしたものがある。線刻の埴輪は。入れ墨はあったとしても、男子とは異なっている。 千田稔(2014)の解釈は、女子は「彫り物ではなく、塗り化粧つまりペイントの表現」とする。すなわち化粧のための色塗り(ペインティング)と理解される。群馬県の上野塚廻り古墳群出土埴輪は王位継承儀礼での巫女の顔面彩色である(千田(2014))。

古代の入墨

縄文時代の土器の顔面把手や土偶に描かれた顔、弥生時代Ⅴ期から古墳時代の近畿を除いて茨城から福岡までの土器や木の板、石棺の蓋などに鼻を中心とした平行弧線が描かれており、これは入墨の可能性がある。 津寺(加茂小)遺跡の黥面文身土偶は昭和63年に行われた校舎の建て替え工事に伴う発掘調査で、弥生時代後期の溝から出土した。高さ3.5cm。頸部以下は欠損している。両目の上下に弧状線数本描き口の脇や顎・頸にも数本の線刻がみられる。 これら『魏志倭人伝』に記載された、倭人の習俗である黥面文身(入墨)を表現したものとみられる。

刑罰の入墨

日本書紀には刑罰として死罪の代わりに入墨を入れる例が示される。住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇連浜子に対し、死罰を免じて罰として黥面をさせ、当時の人は「阿曇目」と呼んだと記される。大系日本書紀は「阿曇部や鳥養部が行なっていた入れ墨の慣習を、中国風の思想から説いた起源説話であろう」とする。また履中天皇が淡路島に狩猟のため行幸したところ、イザナギ神が、随行の河内の馬飼部の人々の目のふちの入墨の血の生臭さに堪えられないと神託したために、以後は馬飼部の入墨をやめさせたとする。

琉球諸島とアイヌ女性の入れ墨

奄美群島から琉球諸島にかけての島嶼部で女性は「ハジチ」と呼ばれるイレズミを指先から肘にかけて入れる習慣があった。記録は16世紀以降であるが、それ以前から入れ墨は行われていたと推測される。宮島幹之助(1893)は明治23年に琉球婦人が手の甲に入墨をしているところを目撃した。琉球の入墨の文様は身分により異なるという。友人の後藤千代吉はアイヌの婦人が手の甲、口の周囲、眉間に入墨をしているところを見たという。 手の部分のイレズミは、女性が既婚であることを表し、施術が完成した際には祝福を受けるなど、通過儀礼の意味合いも持っていた。島ごとに施術される範囲や文様が異なっており、ハジチがない女性は来世で苦労するという伝承が残る島もあった。

海外古代の入墨

紀元前4,000年頃エジプトで発見された土器(人形)にタトゥーの痕跡が認められている。女性を模した「点」、「線」、「菱形」模様が施されており、後に発見されたミイラに見られるタトゥー模様のパターンと符合する。1991年、オーストリアのアルプス山中で見つかった旧石器時代の男性遺体に7個所から8個所の入れ墨があったという。アルプスの山中で発見されたことから、アイスマンと呼ばれる。

入れ墨の健康効果

スウェーデンとハンガリーの研究者は、ボディペイントには昆虫を遠ざけ、病気から人々を守る効果があることを証明している(Gábor Horváthet al(2018))。身体へのペインティングには実用的意味があったとみられる。

原文

  • (三国志魏志 倭人伝 原文)「男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」)
  • (三国志魏志 馬韓伝原文)其男子時時有文身。
  • (三国志魏志  韓伝 弁辰伝原文)男女近倭、亦文身。
  • (日本書紀 巻第十二履中天皇元年)詔之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾國家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」即日黥之、因此、時人曰阿曇目。
  • (日本書紀 巻第十二履中天皇五年)先是、飼部之黥皆未差。時、居嶋伊奘諾神、託?曰「不堪血臭矣。」因以、卜之、兆云「惡飼部等黥之氣。」故自是以後、頓絶以不黥飼部而止之。

出土例

参考文献

  1. 吉岡 郁夫(2021)『いれずみ(文身)の人類学』雄山閣
  2. 千田稔(2014)「入れ墨が示す海洋民たちの記号」『謎の女王卑弥呼の正体』,KADOKAWA,pp.196-209
  3. Gabor Horvath1,al(2019)"Striped bodypainting protects against horseflies",Royal Society Jan 16;6(1)
  4. 黥面文身土偶, 津寺(加茂小)遺跡, 岡山市埋蔵文化財センター
  5. 宮島幹之助(1893)_琉球人ノ入墨ト「アイヌ」ノ入墨

送風管2023年12月31日 14:34

送風管/唐古・鍵遺跡/大阪府立弥生文化博物館

送風管(そうふうかん)は古代の青銅製品の製作やガラス製作、鉄製品製作などで使われた炉内に空気を送るための装置である。

概要

炉の温度を上げるために空気を送り込むために用いる。元岡・桑原遺跡群では、管状の木製品が10点ほど出土する。長さ60cm、径4~6cmの大きさで、一方が焦げていた。木製の送風管の出土は珍しい。元岡・桑原遺跡群の他の地点では土製の送風管が出土している。

東奈良遺跡出土の送風管

東奈良遺跡は弥生時代を代表する鋳造遺跡である。鋳造に用いられた各種用具類(清水 2017b)が出土した。東奈良遺跡では送風管が143点出土した。弥生時代中期後半である。直状送風管と曲状送風管がある。送風管の外面に記号が描かれている。記号はヘラ描きで三叉形である。送風管内面はススが広範囲に渡って付着する。これは温度上昇に失敗したための煤であるとされる。清水邦彦(2018)は三叉形記号は狩人」、「シャーマン」、「鳥」などの諸説あるが、三叉形記号は弥生文化に認められる画題とする。

唐古・鍵遺跡の送風管

唐古・鍵遺跡では銅鐸の石型鋳型が出土しており、銅鐸を作るムラとされている。送風管は先端が曲状になるものと直状になるものがある。曲状の先端が炉内に入れられるもので、先端が高熱で変色している。後端に直状送風管が数本接続される。

出土例

  • 送風管 - 大山遺跡 –埼玉県北足立郡伊奈町小室、奈良時代・平安時代
    • 県内屈指の古代製鉄遺跡である
  • 送風管 - 東奈良遺跡、大阪府茨木市、弥生時代

参考文献

  1. 清水邦彦(2018)「東奈良遺跡出土の送風管について」茨木市立文化財資料館館報第4号
  2. 清水邦彦(2021)「記号が描かれた送風管」 茨木市立文化財資料館館報第6号
  3. 清水邦彦(2017b)『銅鐸をつくった人々-東奈良遺跡の 工人集団‐』茨木市立文化財資料館

夜臼式土器2023年12月31日 19:41

夜臼式土器(ゆうすしきどき)は縄文時代晩期から弥生時代初期に九州北部に広まった土器である。

概要

九州地方の縄文晩期末の突帯文土器である。甕の口縁部と胴部に刻目のある突帯文をめぐらすタイプである。 夜臼式土器は、条痕文と刻目凸帯を特徴とする土器であり、縄文時代の土器の特徴を色濃くのこす土器である。縄文時代晩期の系統と考えらるが、夜臼Ⅱ式土器では弥生時代前期に位置づけられる。縄文時代晩期から弥生時代初に九州北部に広まった土器である。福岡県の板付遺跡や那珂遺跡、佐賀県の礫石B遺跡などで出土する。炭素14年代測定では夜臼Ⅰ式土器は2670BCPから2600BCPに位置づけられる。夜臼Ⅱ式土器は2680BCPから2630BCPである(藤尾慎一郎(2016))。夜臼Ⅰ式土器と夜臼Ⅱ式土器とでは大きな年代差はない。

出土地

板付遺跡では水田跡とともに出土している。夜臼遺跡では口縁部や肩部に突帯と呼ばれる粘土の帯を貼り付けた特徴をもつ土器である。最古の弥生土器と縄文土器とが伴出する。 夜臼式土器の時代に水田稲作農耕を行っている遺跡が複数確認されている。

用途

弥生時代に煮炊きや盛付けに用いた深鉢、浅鉢などの器種に、新たに貯蔵用の壺が加わる。 丸底の丸い体部に、口が窄(すぼ)まる形で、表面を磨き、赤色の顔料で飾る壺である。 板付遺跡では夜臼式土器と水田址・炭化米・木製農具が共伴し、時期は弥生早期とされた。

出土例

  • 夜臼式土器甕 - 拾六町平田遺跡2次、弥生時代早期
  • 夜臼式土器浅鉢 - 橋本一丁田遺跡2次、弥生時代早期

参考文献

  1. 藤尾慎一郎(2016)「土器型式を用いたウィグルマッチングの試み」

突帯2023年12月31日 20:19

突帯(とったい)は土器または円筒埴輪の面に粘土紐を貼り付け、器面から帯状に突出する文様である。

概要

突帯は土器面から高い線状または狭い帯状となった文様である。 多くは貼り付け突帯として粘土紐を土器面に貼り付けた突帯である。 特殊なものとして、弥生Ⅰ期に土器の上下面を削り取り、一定の幅を残した削り出し突帯がある。オホーツク式土器では、柔らかい粘土を管から絞り出し、土器面に付けた。 また刻目突帯は突帯の上に線刻を加える。金属製では鋳出す突帯がある。

朝鮮半島の突帯文土器

韓半島の突帯文土器と日本の縄文時代の突帯文土器の関係については,関連を積極的に認める研究者と,否定する研究者とがある。否定する最大の理由は,両地域の突帯文土器文化が基盤とする生業が、韓半島では畑(田)作農耕,九州北部では水田稲作と異なっていることと年代差の存在である。しかし、千羨幸は韓日両地域の突帯文土器の炭素 14 年代と土器の形態を分析して、瀬戸内西半部の縄文土器は、青銅器時代前期Ⅲ期に属する韓半島南部,南江流域圏の突帯文土器文化(刻目突帯・沈線文)を受け入れ,西日本の突帯文土器を成立させたと結論づけた。炭素14年代でみると、日本の縄文時代後期後半の玉野平野条里遺跡などの突帯文土器は韓半島5地区D2号との年代差はほぼ無い。前 15 世紀から前 10 世紀にかけての期間に中国東北地域を含んだ韓半島西北韓と東北韓,南部地域へ突帯文土器が拡散する様相が見られ、この過程で西日本へも伝わったと理解することができる。また縄文時代では水田稲作はまだ無いので、基盤とする生業の違いはあまりない。 突帯文土器文化を東アジア的な広い視点でみることが必要となっている。

参考文献

  1. 田中琢・佐原信(2011)『日本考古学事典』三省堂
  2. 李亨源(2014)「韓半島の初期青銅器文化と初期弥生文化」国立歴史民俗博物館研究報告 第185集、pp.63-92

木棺墓2023年12月31日 22:33

木棺墓(もっかんぼ)は板組の木製の棺を土壙上に置く墓である。

概要

木棺を使用する墓の中で、板材を組んだ木棺を直接、土壙に置いたものを指す。 中国では大汶口文化期に出現し、龍山文化期に盛行した。朝鮮半島では中国式の木棺墓を取り入れたと見られる遺跡が原三国時代の平安南道や黄海道に見られる。韓半島で普遍化した木槨墓や石槨墓は、そのままの形で日本列島には入って来たわけではない。4世紀には、高句麗で横穴式石室が定型化し、やがて、百済地域、伽耶地域にも及んだ。日本列島には、4世紀末に、北部九州で導入され、5世紀後半には、畿内にも伝わっていった。 日本では木棺墓・石棺墓を弥生時代Ⅰ期に新たに受容し、これが、日本列島各地で採用された。甕棺墓とならび、弥生時代の代表的な墓制となった。墳丘墓の主体部に採用されることも多く、古墳時代に埋葬主体になることも多い。

身分の高い被葬者の木棺

1971年に発見された武寧王陵では、2セットの木棺が発見されている。武寧王陵の木棺は、釘で棺材を緊結し、棺を持ち運ぶための鐶座金具がついている。武寧王陵の木棺は、頭部に金や銀で装飾された釘が用いられ、棺材自体も漆や布などで装飾されていた。このように多様な方法で装飾された木棺は、百済の王陵級の古墳に限られる。高松塚古墳の木棺の復元ではスギ材で黒漆が塗られ、金銅製の飾り金具が付けられている。内部は朱で塗られ、金箔を張った棺台に置かれていた。キトラ古墳の木棺は漆塗りで、金銅製鐶座金具、金銅製六花形飾金具、銀環付金銅製六花形飾金具などの飾金具が取り付けられていた。

地域的特徴

北部九州でも当初は木棺墓であった。弥生時代前期末以降は集団墓地が中核となり、独自に生み出された甕棺を用いる甕棺墓となった。近畿地方では弥生前期に、木棺を方形の墳丘で埋め、周囲に溝を掘る方形周溝墓が登場した。長方形に掘った穴の底面に細長い溝を掘り、板をはめ込んで作った棺に遺体を埋葬する墓である。

事例

  • 木棺墓 - 中臣遺跡、京都府京都市山科区、6世紀前半から6世紀末
  • 木棺墓 - 和泉谷・津原古墳群、兵庫県新温泉町戸田、古墳時代前期中頃(4世紀前半)
  • 木棺墓 - 四日市遺跡、大分県玖珠町大字四日市、平安時代

参考文献

  1. 田中琢・佐原信(2011)『日本考古学事典』三省堂
  2. 福永伸哉(1985)「弥生時代の木棺墓と社会」『考古学研究』32-1,pp.81~106
  3. 宗像市教育委員会(1993)「弥生時代の墓制を考える : 甕棺墓・木棺墓・墳丘墓の成立と展開」
  4. 小林謙一(1999)「日韓古代における埋葬法の比較研究」奈良国立文化財研究所

豊浦宮2023年12月31日 23:23

豊浦宮(とゆらのみや)は奈良県明日香村豊浦付近にあった推古天皇の宮殿である。

概要

593年(推古元年)豊浦宮で推古天皇は即位した(「冬十二月壬申朔己卯、皇后?天皇位於豐浦宮」)。豊浦宮で即位した推古天皇は603年(推古11年)豊浦宮地と桜井寺地とを交換し、旧宮跡に桜井寺を移し豊浦寺とし、寺地に移った宮を小墾田宮とした。豊浦宮は小墾田宮に遷都するまでの宮室である。蘇我稲目の向原の家があった場所である。それまで宮殿が集中していた磐余から飛鳥に遷都し、飛鳥の地で最初の宮殿として推古天皇が即位したのが豊浦宮である。 豊浦宮は約11年に渡り使用された。推古天皇が豊浦宮で即位してから持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間は、飛鳥とその周辺に宮殿が集中したため、飛鳥時代と名付けられる。 舒明朝には塔婆が建立され、持統天皇のとき飛鳥五大寺の一つに称されたが、平安時代には朽廃したといわれる。豊浦の地はもと蘇我氏の本拠地であり、この豊浦宮の造営から飛鳥時代が始まったと言われている。

調査

向原寺の庫裏の建て替えが昭和60年に行われた際、地下埋蔵物の地質調査に対し住職夫妻が全面協力しその結果、豊浦寺の金堂・講堂と思われる伽藍配置の一部が出土し、その下層から石組溝や列柱などの遺構が発見された。その結果、日本最初の女帝・推古天皇の豊浦宮の跡と判断された。現在は、一部ではあるが当時の豊浦寺の敷石及び柱の跡が見ることができる状態で保存され誰でも見学できる。屋根も付けられ雨風にも影響が受けないようにして保存されている。

遷都年

日本書紀は603年(推古11年)「十一年冬十月己巳朔壬申、遷于小墾田宮。」に遷都したと記するが。『元興寺縁起並流記資財帳』は等由良宮を施入して等由良寺とした年を593年(推古1年)とする。この場合、遷都は593年の即位直後のこととになる。 推古天皇は蘇我稲目の孫にあたるため、宮の所在地は蘇我氏との関係で定められた可能性が高い。

墓誌

668年(天智天皇7年)につくられた船氏王後墓誌は、推古天皇を「等由羅宮治天下天皇」と記す。

出土

1985年の発掘調査によれば、現向原寺境内から豊浦寺講堂跡と推定される版築の基壇が検出され、この基壇の下層に石敷と高床式掘立柱建物の跡、砂利敷が確認され、豊浦宮の跡に豊浦寺が建立されたとする『元興寺縁起』の説が裏付けられている。豊浦宮の範囲や建物配置は確認されていない。

指定

  • 昭和52年3月22日 - 県指定史跡 「豊浦寺跡」

所在地等

  • 名称: 豊浦宮跡
  • 拝観料:志として200円(事前予約)
  • 所在地:奈良県明日香村豊浦630(向原寺内)
  • 交通:飛鳥駅より赤かめ周遊バス豊浦下車徒歩5分

参考文献

  1. 佐藤信(2020)『古代史講義 宮都編』筑摩書房