法興年号 ― 2023年08月14日 22:44
法興年号(ほうこうねんごう)は、一般に私年号とされるが、飛鳥時代に使われた年号である。
法興年号
法興は私年号とされるが、法興元年は崇峻4年(591年)である。大矢透の説では、591年を仏法が興る元年においたとする。癸未年は623年であるから、法興元年は591年となる。 また、『釈日本紀』所収の「伊予国風土記逸文」に、「法興六年」(596年)と記載される。 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘には法興31年が使われる。これは621年である。
聖徳太子年号仮説
591年は崇峻が暗殺される前年である。 592年10月4日に、猪を献上する者があり、崇峻は笄刀を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言した。そのことを聞きつけた蘇我馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。崇峻が暗殺されたあと、聖徳太子が天皇として即位した可能性が考えられる。1年の違いをどう考えるかが、問題である。仮説としては1年前の591年に崇峻が暗殺され、聖徳太子が即位し、法興の年号を使い始めたとすると、それらの辻褄があう。この仮説では推古の即位はあったのかという疑問が残る。 隋の使節が倭国に到来し男王にあったのが608年(大業4年)であるから、これともつじつまがあう。『元興寺伽藍縁起』所引の丈六光銘に、大隋国使主鴻臚寺掌客裴世清と使副尚書祠部主事遍光高らの来朝の記事を伝える。つまり使者の裴世清があったのは、倭王の聖徳太子であったとするとすべて辻褄があう。女性の推古大王では、記録と矛盾する。中国の皇帝は男性が原則であるから、女性であったら正確に報告し、隋書に記載されるであろう。 すなわち聖徳太子の存命中は法興年号が使われたと考えると、金石文、中国史料と合理的に矛盾なく説明できる。31年続いた王朝が使用する年号が私年号とは言いにくいのではなかろうか。
『釈日本紀』が引用する「伊予風土記」逸文
- 法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣
- 道遙夷予村正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首
- 惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙応
- 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干(天の誤りか)寿国
- 随華台而開合 沐神井而?(癒)疹 ?(言巨)舛于落花池而化弱
- 窺望山岳之巌?(愕) 反冀子平之能往 椿樹相?(蔭)而穹窿実想
- 五百之張蓋臨朝啼鳥而戯?(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳
- 丹花巻葉而映照 玉菓弥葩以垂井 経過其下 可以優遊
- 豈悟洪灌霄霄庭 意与才拙実慚七歩 後之君子 幸無蚩咲也
指定
参考文献
- 東野裕之(2004)『日本古代金石文の研究』岩波書店
- 卜部兼方(1975)『釈日本紀』吉川弘文館
遣隋使 ― 2023年07月26日 22:58
遣隋使(けんずいし)は倭国が中国の隋へ派遣した外交使節である。600年から614年にかけて派遣された。618年の隋の滅亡後は遣唐使に引き継がれた。
概要
遣隋使の派遣回数については、
①一回説(鄭孝雲)、
②三回説(本居宣長、坂本太郎)、高橋善太郎)、
③四回説(石原道博、山崎宏、宮崎市定、井上光貞、篠川賢)
④五回説(徐先堯、上田正昭)、
⑤六回説(増村宏、坂元義種)
と多様である(参考文献2)。
一回説は607年と608年を合わせて一回とする。三回説の本居宣長と坂本太郎は607年、608年、614年の3回である。三回説の高橋善太郎は600年、608年、610年の3回とする。
遣隋使の派遣目的
隋が中国を統一したため、当時の先進国である隋の文化を摂取する目的が第一であった。
河上麻由子は仏教的朝貢を指摘し、遣隋使が仏教色を強調したことに政治的意味があると主張した(参考文献1)。
史料には下記の5回が記録されている。しかし史料に記載がなくとも、これらの5回以外にはないとは限らない。
No | 西暦年 | 和暦年 | 使人 | 帰国年 | 資料 |
1 | 600年 | 推古8年 | 不明 | 不明 | 隋書のみ記載,文帝より訓戒あり |
2 | 607年 | 推古15年 | 小野妹子 | 608年 | 隋書と日本書記に記載,倭王書状を持参,隋使裴世清ら来日 |
3 | 608年 | 推古16年 | 小野妹子(大使)、吉士雄成(小使) | 609年 | 隋書と日本書記に記載,留学僧を派遣 |
4 | 610年 | 推古18年 | 不明 | 不明 | 隋書のみ記載,方物を献上する |
4 | 614年 | 推古22年 | 犬上御田鍬,薬師恵日 | 615年 | 日本書記のみ記載,百済使とともに帰国 |
600年の派遣
600年(推古8年,開皇20年)に倭国から使者をつかわしたことが『隋書』巻81・倭国伝に記載されるが、この遣使については日本側の史料にはまったく記載されていない。従来の対中国関係が朝鮮半島問題を有利に導こうとする外交的かけひきであったから、この時も同様とみられる。前々年の598年に文帝による高句麗征討(第1次遠征)があり、600年に倭国から任那を救援するため新羅へ出兵新羅征討軍(第1次新羅征討)が派遣されているので、東アジア情勢が反映された派遣であったとみてよい。
日本側の史料に登場しない理由は、倭国にとって「恥」となる出来事のためではないか。それは使者が「倭王は天を兄とし日を弟とする。夜明け前に政をきき、胡坐をかき、日が出ると弟に任せた」と説明すると、文帝は「とても道理に外れたことである。改めさせよ」と訓導した事件である。野蛮な未開の国と思われたのであろう。
600年の派遣があったと思われる証拠は冠位十二階の説明がされていることである。しかし、『日本書紀』によれば冠位十二階は推古11年12月5日(604年1月11日)に制定されたとされているので、約3年のズレがある。これは『日本書紀』の記述が不正確だったからではなかろうか。同時代史料の方が信憑性が高い。『日本書紀』は出来事から成立まで100年以上の時間の経過があり、『隋書』の成立はほぼ同時代である。
開皇20年(600年)に倭国は隋に使者を派遣した。日本書記に対応させると、推古8年である。
この時の倭王が誰であるかは、諸説ある。[[推古天皇:推古天皇]]説、[[厩戸皇子:厩戸皇子]]説が有力である。ただし推古天皇では『隋書』に書かれる「妻のいる男性」と矛盾する。また厩戸皇子では大王になるには年齢が若すぎる。そこで用明天皇説、蘇我馬子説もある。太子の利歌彌多弗利は「和歌彌多弗利」(ワカミタフリ)と理解されているが、厩戸皇子と繋がるかどうかが課題であるとされた(参考文献1)。
隋書の記載はあるが、日本書記の記載はないため、正式な倭国の使者ではないとの解釈があった([[本居宣長:本居宣長]])。しかし戦後は倭国の使者と認める共通認識が生まれている(参考文献1)。
王の妻は雞彌(けみ)という。後宮に官女が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(リカミタフリ)と呼ぶ。
城郭はなく、内官(官僚)に十二等級がある。定員の上限はない。軍尼(クニ)が一百二十人いてり、中国の牧宰(地方長官)に相当する。八十戸に一人の伊尼翼(稲城)を置く。
中国の里長のような役職である。十の伊尼翼が一つの軍尼に属している。(後略、この後に風俗の記述がある)
中国への使いは[[上表文:上表文]]を持参することになっているが、このとき持参していない。倭国の海外派遣はおそらく始めてのことであった。倭奴国や邪馬台国は同じ政権でないとすれば、または文字もないことから、前の経験があったとしてもは伝わっていなかったであろう。ヤマト政権の倭国としては事実上初めての中国派遣となる。それゆえ外交儀礼を知らなかったのであろう(参考文献2)。
607年の遣隋使
日本書記に推古天皇15年(607年)7月3日、鞍作福利を通訳として大礼(冠位十二階の第5である)。小野妹子を大唐に派遣した。日本書記に記載される大唐は「隋」の誤りである。
608年4月に小野妹子は大唐に到着する。中国名を「蘇因高」とした。帰途は裴世清とその部下(下客)十二人が小野妹子に従って筑紫に到着した。難波に吉士雄成を迎えに遣わし、大唐の客裴世淸らを召す。客人のため難波に高麗館を新館造営し、客人たちは難波津に宿泊した。中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平を接待役とした。小野妹子は奏上して、「帰朝時に唐帝は返書を私に授けました。しかし、百済国を通過したときに百済人がそれを略取したため、献上できません」。そこで群臣は協議し、「使者は死んでも目的は失わない、どうして大国の書をなくしたのだ」と非難した。流刑の罰を受けることになった。その時天皇が「妹子に罪があると言っても、軽々しく罪にしてはいけない。大国の客に聞かれるのも失礼だ」として、赦免した(日本書記)。
国書紛失の解釈については、日本に都合の悪いことが書かれていため失くしたことにしたとの解釈がある。
隋書倭国伝では、もう少し詳しく書かれている。倭王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。『私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため国に留まり、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。』 裴世清は答えて言った『(隋)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えします。』 対面が終わって王は引き下がり、裴世清は館に入った。
[[河上麻由子:河上麻由子]]は日本書記の記載について、どこまで実際にあったことかよくわからないと評している(参考文献3)。
608年の遣隋使は日本書記によれば、帰国する裴世清を伴い、大使・小野妹子、小使・吉士雄成、通訳・福利として、遣隋使を派遣し、學生として、倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧の新漢人日文・南淵請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟など8名が同行したと記載される。
610年の遣隋使
隋書に記載がある「大業六年、倭国は使を遣し、方物を貢ぐ」と記載される。日本書記には記載されない。大業六年(610)の記事は倭国の推古18年に相当する。 日本書記に記載されない理由は、朝貢(方物を貢ぐ)を行ったことであろう。日本書記の立場は、中国と対等外交を行うというプライド意識である。
614年の遣隋使
日本書記に614年(推古天皇22年)、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わした。翌推古天皇23年(615年)9月に百済使を伴って帰国したと記載がある。隋書には記載がないため隋に入国したかは不明である。 612年から614年にかけて隋の3回に渡る高句麗遠征と煬帝の側近楊素の息子楊玄感による反乱を契機に各地で反乱がおき、隋の政情は不安定となっており、隋は受け入れ態勢がなかったものと思われる。
参考文献
1.河上麻由子(2011)『古代アジア世界の対外交渉と仏教』山川出版社
2.氣賀澤保規編著(2012)『遣隋使がみた風景- 東アジアからの新視点』八木書店
3.河上麻由子(2019)『古代日中関係史』中央公論新社
4.東野治之(2007)『遣隋使』岩波書店
小野毛人 ― 2023年07月23日 15:34
小野毛人(おののえみし,?- 677)は飛鳥時代、天武期の官人である。 小野妹子の子である。
概要
史書では業績は不明であるが、1613年(慶長18年)に現在の京都市左京区上高野で出土した小野毛人の墓誌(国宝)により経歴が判明した。 墓誌は鋳銅製で、文字を刻んだ後に鍍金する。文字は両面にあり、表に小野毛人が天武朝に仕え、納言の職にあって後の刑部卿で大錦上(正四位に相当する地位)にあったと記す。 677年12月上旬に造営し、埋葬したとされる。子息の小野毛野薨伝では、毛人の冠位は小錦中とされているため、没後に大錦上の贈位を受けた可能性がある。 金銅小野毛人墓誌は崇道神社の所有であるが、京都国立博物館が保管する。長さ58.9cm・幅5.9cmの短冊形の銅板で、表に1行・26字、裏に1行・8字と少し下げて埋葬した年月を記す。合わせて48字の銘文が陰刻される。
- (原文表) 飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
- (原文裏) 小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
参考文献
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二,白藤礼幸(1992)『続日本紀』岩波書店
- 「金銅小野毛人墓誌、京都国立博物館
小野妹子 ― 2023年07月23日 11:10
小野妹子(おののいもこ,生没年不明)は飛鳥時代の官人、遣隋使である。 小野毛人の父である。
概要
推古15年(607年)7月3日、聖徳太子は大礼の小野妹子を通訳の鞍作福利とともに、隋に遣隋使として派遣した。隋の記録によれば、小野妹子は学問僧数十人を伴っていたという。翌年の推古16年4月、小野臣妹子は唐に到着する。唐では妹子は「蘇因高」と呼ばれた。推古16年(608年)4月、隋の使臣裴世清を伴って帰国したとされる。 この時、小野妹子は隋の皇帝からの信書を預かったが百済国を通過するとき、百済人に奪われたため持参できませんと語る。群臣は使いになったものはたとえ死んでも書を守るべきだ。どうして無くしたのか、罪に値するといったが、天皇は勅して恩赦した。 同608年年9月、裴世清の帰国日程に合わせて再び大使として隋に派遣された。副使は吉士雄成である。学生の福因、恵明、玄理、大国、および学問僧の新漢人日文(僧旻)、高向玄理、南淵請安、慧隠、広斉ら8名の留学生留学僧とともに国書を携え唐に赴いた。このとき国書に「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す。鴻臚寺の裴世清らにより多年の思いが叶った」とする。妹子らは翌年9月に帰朝した。『新撰姓氏録』などによれば、のちの冠位は大徳にまで昇進した。
唐での出来事
中国側の記録に大業3年(607年)、倭国王の多利思北孤(タリシヒコ)が使者を派遣して朝貢したとされる。この使者は小野妹子である。使者は「貴国では菩薩のような天子が仏教を盛んにしていると聞きましたので、天子に朝拜させ、仏法を学ぶため僧侶を数十人連れてきました」と語る。その国書には「日が出るところの天子から日が没するところの天子に書信を差し出します。無事でお変わりありませんか」と書かれている。隋の皇帝・煬帝はこれをみて機嫌が悪くなり、鴻臚卿に「蛮夷からの書であるのに無礼である。二度と取り次ぐな」といったという。鴻臚卿は外国の使節をもてなす役職の長官である。
怒りの理由
中国皇帝の怒りの理由を、かつては「日出処・日没処」に、倭が隋に対して優越か対等の関係にあるというメッセージを込めたためと理解されていた。現在は、煬帝を怒らせたのは「日出処」ではなく、大王(天皇)を「天子」と表現したから、という異説が提唱されている。
国書を紛失したか
小野妹子は隋の国書を百済人に奪われたと報告したが、国書の内容が朝廷の期待するものと異なっていたため、自ら破棄したとの説がある。
大王(天皇)は男性のようである。
このとき日本書紀では大王(天皇)は推古天皇とされているが、隋には多利思北孤(タリシヒコ)と伝えている。これは男性名である。また唐の使者の裴世清は倭国で大王に面会し、宴席初期にも出ている。大王が女性ならば、そのような報告するであろうが、特段の報告はない。裴世清が実際に会ったのは聖徳太子ではなかったろうか。日本書紀には厩戸豐聰耳皇子を皇太子にしたと書かれているが、皇太子の制度は一般には飛鳥浄御原令(689年)以降とされている、そこで皇太子ではなく、大王そのものではなかったか、というのが疑問である。とすると推古天皇は実在したのか、という次の疑問が浮上する。
原史料
- 史料1
- 『日本書紀』日本書紀巻第廿二 推古十五年 秋七月
- (原文) 秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。
- 史料2
- 『隋書』倭国伝
- (原文) 大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重與佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覽之不恱謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿
- 史料3
- 『日本書紀』日本書紀巻第廿二 推古十六年夏四月
- 十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。
- 史料4
- 『日本書紀』日本書紀巻第廿二 推古十六年夏四月
- 爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。
- 史料5
- 『日本書紀』日本書紀巻第廿二 推古十六年九月辛未朔乙
- (原文) 九月辛未朔乙亥、饗客等於難波大郡。辛巳、唐客裴世淸罷歸。則復以小野妹子臣爲大使、吉士雄成爲小使、福利爲通事、副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝、其辭曰「東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世淸等至、久憶方解。季秋薄冷、尊何如、想淸悆。此卽如常。今遣大禮蘇因高・大禮乎那利等往。謹白不具。
小野妹子墓
大阪府太子町の科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓とされている墓がある。科長神社の南側、長い石段を登った先にある。
華道の家元
小野妹子は華道の家元「池坊」において、華道の祖とされている。生け花の発祥の地は京都の六角堂である。正式名は紫雲山頂法寺であるが、587年に聖徳太子が建立し、初代住職が小野妹子だったとされる。小野妹子は華道家元池坊の道祖とされる。小野妹子の墓前祭は、その命日とされる6月30日に毎年行われる。
参考文献
- 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二,白藤礼幸(1992)『続日本紀』岩波書店
- 小野妹子墓
飛鳥時代 ― 2023年07月23日 10:41
飛鳥時代 (あすかじだい)は、奈良県の飛鳥(明日香)に都があった時代を指す。日本史の時代区分のひとつである。推古大王(天皇)が即位し、飛鳥の豊浦宮に遷宮した592年から、平城京に遷都した710年までをいう。
概要
飛鳥時代はもとは美術または建築史の時代区分であった。建築史の関野貞や美術史の岡倉天心が提唱した区分である。古墳は8世紀初頭まで営造されたが、飛鳥時代は古墳文化が仏教文化に切り替わる時代であった。豪族の連合政権から、統一された中央集権国家へ、天皇制に基づく律令制国家に変化した時代である。
西暦年 | 和暦 | 出来事 |
592年 | 推古1年 | 崇峻大王、殺害される,推古大王(天皇)即位,豊浦宮に遷宮 |
600年 | 推古8年 | 第一次遣隋使派遣 |
603年 | 推古11年 | 冠位12階制定、小墾田宮に遷宮 |
607年 | 推古15年 | 第二次遣隋使派遣 小野妹子 |
608年 | 推古16年 | 小野妹子、隋使裴世清らとともに帰国 |
610年 | 推古18年 | 第4回遣隋使を派遣 |
622年 | 推古30年 | 厩戸皇子が斑鳩宮で没する |
626年 | 推古34年 | 蘇我馬子が没す |
629年 | 舒明1年 | 舒明天皇が即位 |
630年 | 舒明2年 | 岡本宮に遷都/飛鳥岡(雷丘) |
640年 | 舒明12年 | 厩坂宮に遷都 |
642年 | 皇極1年 | 宝皇女が皇極天皇として即位 |
643年 | 皇極2年 | 山背大兄王殺害される |
645年 | 大化1年 | 乙巳の変 |
646年 | 大化2年 | 薄葬令 |
652年 | 白雉3年 | 班田収授法 |
663年 | 天智2年 | 白村江の戦い |
666年 | 天智5年 | 百済の男女2000余人を東国に置く |
667年 | 天智6年 | 近江国の大津へ遷都 |
671年 | 天智10年 | 天智天皇が崩御,第39代弘文天皇(大友皇子)が即位 |
672年 | 天武1年 | 天智天皇が崩御,第39代弘文天皇(大友皇子)が即位 |
672年 | 天武1年 | 天智天皇没す,壬申の乱,飛鳥浄御原宮に遷宮 |
673年 | 天武2年 | 大海人皇子が即位し天武天皇となる |
686年 | 朱鳥1年 | 天武天皇が崩御 |
690年 | 持統4年 | 持統天皇が即位 |
694年 | 持統8年 | 藤原宮へ遷都 |
697年 | 文武1年 | 持統天皇、草壁皇子の子の軽皇子へ譲位 |
701年 | 大宝1年 | 大宝律令完成/td> |
702年 | 大宝2年 | 第7回遣唐使派遣/td> |
710年 | 和銅3年 | 平城京へ遷都/td> |
参考文献
1. 近藤義郎(1995)『前方後円墳と弥生墳丘墓』青木書店
物部守屋 ― 2023年07月22日 21:45
物部守屋(もののべ の もりや)は6世紀の豪族である。物部尾輿の子である。
概要
敏達・用明朝の大連であり。母方の姓により弓削守屋ともいう。
堀江棄仏事件
敏達14年3月1日、物部守屋と中臣勝海は「疫病が流行し、国民が死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに違いありません」と奏上した。皇は仏法を止めるよう詔した。30日、物部守屋は自ら寺に赴き、その塔を倒し、仏像と仏殿を焼いた。焼け残った仏像を集めて、難波の堀江に捨てさせた。佐伯造御室を遣わして蘇我馬子の供養する善信尼らを呼び集め、海石榴市で尼の法衣剥ぎとって全裸にし、尻や肩を鞭でうつ刑にした. 敏達天皇の崩後、殯宮に誄したとき、馬子と守屋は互いに相手の姿を嘲笑し、二人の間に怨恨を生じたとされる。守屋は天皇の異母弟穴穂部皇子と結び、その擁立を図った。用明が没すると穴穂部の即位を図ったが、まもなく皇子は馬子に殺された。
丁未の乱
馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍と結び、守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔を作り仏法の興隆を誓った。迹見赤檮は大木に登っている守屋を射殺し、寄せ手は攻めかかり、守屋の軍は敗北した。 乱の後、奴のなかばと宅地とを分けて四天王寺に施入した。
物部系図
- 饒速日命-・・・物部贍咋-物部五十琴-物部伊筥弗-物部目-物部荒山-物部尾輿-物部守屋-
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
饒速日命 ― 2023年07月22日 21:14
饒速日命(にぎはやひのみこと)は古代の豪族物部氏の祖神である。古事記では「邇藝速日命」(にぎはやひのみこと)とする。
概要
日本書紀では饒速日命は彦火火出見(即位前の神武の名前とされる)が長髄彦と奈良県生駒市付近で交戦したとき、長髄彦は饒速日命に仕えているものであるとして、天羽羽矢と歩靫を示した。彦火火出見は饒速日命が忠誠を示したので、部下とした。 饒速日命は彦火火出見より前に天磐船に乗って大和に天下り、長髄彦の妹の三炊屋媛と結婚して可美真手命を生んだとされる。
先代旧事本紀
『先代旧事本紀』によれば、饒速日命は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」と記される。饒速日は西暦185年頃に東遷したとされ、北部九州から大部隊で河内国と大和国へやってきた。東遷に従った人ものは、先代旧事本紀によれば遠賀川と筑後川沿岸部の物部族と共に、天太玉命(忌部)・天糠戸命(鏡作)・天造日女命(安曇)・天背男命(海部)・天香語山命(尾張)・鴨・天日神命(対馬)・天月神命(壱岐)・天三降命(宇佐)などの海人族、高皇産霊の子や孫が含まれており、25軍団がある。大集団の移動・移住である。
彦火火出見の東征(森浩一の見解)
森浩一の見解によれば、彦火火出見の東征には次の不審な点がある(森浩一(2022))。
- 彦火火出見を祭神とする古代の神社は存在しない
- 東征時に参加した人々や船の記述に具体性がない
- 東征の道筋が不可解である
- 吉備の高島に8年いた間の説明がなにもない
- 彦火火出見が日向を出発してから山戸まで18年を要するのは長すぎる
饒速日の東征(森浩一の見解)
森浩一の見解によれば、饒速日の東征は信頼できる面がある(森浩一(2022))。
- 饒速日を祭神とする古代の神社は多数ある
- 石切劔箭神社(東大阪市、『延喜式神名帳』記載)、矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市、『延喜式』神名帳記載)、石床神社(奈良県生駒郡平群町、『延喜式』神名帳記載)など。なお矢作神社(八尾市、『延喜式神名帳』に記載)の祭神は經津主神で饒速日ではない。しかし物部の神社であり、河内国若江郡から移転したようである。經津主神は物部の東征に参加したメンバーである。
- 饒速日の古代の墳墓がある
- 東征時に参加した人々が具体性に書かれている
- 東征の道筋に不自然さがない
- 河内平野の地形の変遷を踏まえた記述になっている。
- 饒速日は長髄彦の入り婿となったので戦っていない。平和的に統合した。
考察と仮説(筆者)
前記の森浩一の見解からインスパイアされた仮説を考えた。 (1)彦火火出見の東征物語は架空だった説は説得力がある。そもそも神武から第2代綏靖から第9代開化までの8代の大王は「欠史八代」といい、『帝紀』的な系譜情報のみしかなく、旧辞』の部分、物語や歌謡など具体的な活動や存在の痕跡に欠けている。すなわち後世の創作によるものであり、実在した可能性はゼロに近い。また、彦火火出見についても祀る古代の神社がないなど、非常に影が薄い。つまり架空の存在であったといえよう。また「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)は神武と崇神とが言われている。創始者が二人いるのは不自然である。したがって神武東征は饒速日命の東征を参考にして、日本書紀の編纂時に創作物部氏の祖神は饒速日(ニギハヤヒ)だが、『先代旧事本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と書かれる。「天照国照彦」の名前は天照大神を思わせる。 (2)物部氏が九州から大和に大移動し、三輪山の麓に移住し、初期ヤマト政権を樹立したのでなかったか。ここで戦乱があったという考古学的な証拠はないことから、平和裏に移住したとも考えられる。九州に物部の同族は多数ある。九州北部では筑後国の三瀦・山門・御井・竹野・生葉の各郡を中心として、筑前国では嘉麻・鞍手両郡・西には肥前国の三根・松浦・壱岐に広がっている。物部の東遷を裏付ける。 (3)三輪山にある大神神社の祭神は大物主である。物部系の神社では、現在でも古代より続く古神道が守られている。石上神宮、物部神社、彌彦神社などである。物部氏は古代の大豪族であった。大物主神の名称は「倭大物主櫛甕魂命」である。また『先代旧事本紀』によれば饒速日命の名は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」である。大物主神の「物」は「物部氏」を意味していたのではないか。 (4[三輪山の麓の纏向には、古代ヤマト政権の宮殿があった(纏向遺跡の出土)。大連の「連」とは連合政権時代の名残である。つまり、あるときまで共同統治していた可能性がある。卑弥呼から崇神までの初期ヤマト政権において、物部氏は中心的存在の一つと言えるのが「連」の意味であろう。「臣」より上位である。その証拠に、日本書紀で、物部が蘇我に仏像を捨てるよういわれて、その時点ではいうことをおとなしく聞く関係であった。これは蘇我が物部を武力で打ち破るまで続いた。 (5)崇神より後は、本拠地が移動しているので、物部とは別系統であろう。崇神の母親は物部系である(日本書紀)。これは崇神自体が物部系であったと見ることができる。
布留神宮日記石上考
櫛玉饒速日命は大和国鳥見明神、河内国岩船明神是也・・・ 夫より大和国鳥見白峯に移玉ひ其里に長髄彦有り、其妹炊屋姫を娶り映伝の中に速日命神去り玉ふ。夢の御告あり、御弓矢及び御衣は鳥見白庭に葬り、陵となす、今に鳥見の弓塚と云ふ。
速日命墳墓
- 名称:速日命墳墓
- 所在地:奈良県生駒市白庭台5丁目9-1
- 交通:近畿日本鉄道けいはんな線白庭台駅より生駒市立総合公園まで徒歩30分、生駒市立総合公園から徒歩10分
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 森浩一(2022)『敗者の古代史』KADOKAWA
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