蘇我日向 ― 2023年07月22日 00:02
蘇我日向(;そがのひむか、7世紀中頃)は飛鳥時代の古代豪族である。 「曽我日向子」とも記される。名は「身刺(むさし)」(大化5年)「身狭」「武蔵」「無耶志」。
概要
蘇我馬子の孫、蘇我倉麻呂の子。飛鳥時代に活躍した政治家・豪族である。 親の「蘇我倉」が苗字とすれば、なぜ「蘇我日向」に戻るのであろうか。
密通事件
皇極三年一月一日条、中大兄皇子は蘇我倉山田麻呂の娘と婚約したが、その日の夜に一族の蘇我日向に偸(ぬす)まれたとされる。次女の遠智娘が身代わりとなって皇子に嫁いで事は収まった。蘇我日向はここでは「身狭」として登場する。飛鳥時代のことを、後代の知識により書いている可能性も考えられる。その証拠に本件で蘇我日向はまったく罰せられていない。異母兄の娘なので、姪にあたる。
- (書紀原文)而長女、所期之夜、被偸於族。族謂身狹臣也。由是、倉山田臣憂惶、仰臥不知所爲。
大宰府帥
大化五年(649年)三月、蘇我日向は中大兄に倉山田大臣(蘇我倉山田麻呂)が反乱しようとすると讒言した。蘇我倉山田麻呂大臣は息子の法師と赤猪を連れて、山田寺まで逃げたが蘇我日向と大伴狛が軍勢を差し向けたため自害した。倉山田大臣の最後の様子を中大兄に報告したところ、中大兄は倉山田大臣の無実を悟った。そこで中大兄は日向を太宰帥に任じた。世人は左遷と噂した。密通事件の密告を恨んでいた可能性もある。しかし、倉山田大臣を追い落とすため中大兄が仕組んだワナとの見方もある。左遷ではなく、栄転ではないかとの解釈もある。また同族の蘇我日向と蘇我倉山田麻呂との抗争の見方もある。5年後には般若寺を創建しており、所在地が尼寺廃寺跡とすれば、九州には赴任していなかった可能性は高い。古代史の謎の一つであろう。
- (原文)戊辰、蘇我臣日向日向字身刺譖倉山田大臣於皇太子曰。僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海濱而將害之、將反其不久。 『上宮聖徳法皇帝説』に孝徳大王の時代に蘇我日向は筑紫大宰の帥に任じられたと記される。
般若寺創建
白雉五年(654年)、孝徳の病気平癒のため蘇我日向は般若寺を建立したとされる(東野治之(2013),p.85)。般若寺の場所には2説があり、一つは福岡県筑紫野市の般若寺跡(塔原廃寺)と二番目は奈良県香芝市の般若寺・般若尼寺(尼寺廃寺跡)である(東野治之(2013),p90)。規模や遺構からすると、後者が有力と考えられる。
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店
冠位十二階 ― 2023年07月21日 23:45
冠位十二階(かんいじゅうにかい)は飛鳥時代に官僚の位を12段階に分け、位に応じて冠)の色を変える制度である。
概要
603年(推古11年)に「聖徳太子」が定めた冠位制度とされる。それまでの「氏姓」制度による門閥・世襲制を打破し、身分に関係なく優れた人材が政治に携われるようにした。 氏姓は世襲制であるため、特定の一族が役職を独占し、さらに豪族同士の権力争いが激化した。「百済」と「高句麗」の制度を参考にしたと言われる。 位階は上から順に「徳・仁・礼・信・義・智」とされ、それぞれ大と小に分かれて12の階級が設けられた。 冠の色は紫・青・赤・黄・白・黒と決められており、外見で朝廷内における序列が分かるようにしている。
田中宮 ― 2023年07月16日 00:22
田中宮(たなかみや)は、飛鳥時代の舒明天皇の宮殿である。
概要
飛鳥岡本宮が636年に焼失したため、田中宮は640年に百済宮に遷宮するまでの間4年間の假宮とされる。臨時の宮なので、既存の寺を利用したと考えられる。
比定地
法満寺は、古くから田中宮の推定地とされている。発掘調査で総柱の建物や四面にひさしを持つ大型の建物、 回廊状の施設が想定できる柱穴が確認されている。田中廃寺は、宮があった地に後に造られた寺院と考えられている。 発掘調査により回廊状に並ぶ柱列や総柱建物、四面庇建物などの建物や、大量の瓦片、梵鐘の竜頭の鋳型などの鋳造関連の遺物が見つかった。また出土品に「単弁八葉蓮華文軒丸瓦」、「重孤文軒平瓦」や藤原宮跡出土の瓦と同じ文様の軒丸瓦もあり、寺院があったことが伺える。法満寺境内には円形に造出された礎石が残っている。 藤原京の造営に伴い、寺域の西部分が縮小され、藤原京における田中廃寺の範囲が、東西南北それぞれ西一坊大路・西二坊々間寺・十条大路・九条大路に囲まれた二町分であったことが判明している。しかし田中廃寺の伽藍配置や建立当時の状況、田中宮の所在について、まだ不明な点が多い。
- 所在地:〒634-0032 奈良県橿原市田中町175
- アクセス: 近鉄橿原神宮前駅下車 徒歩18分
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
小墾田宮 ― 2023年07月15日 23:24
小墾田宮(おはりだみや)は、飛鳥時代の推古天皇の宮殿である。奈良時代には淳仁・称徳も使用した。小治田宮とも表記する。
概要
603年(推古11年)、推古天皇は小墾田宮を宮と定めた。小墾田宮の内部は、推古16年、18年の儀式の様子で書かれている。南門の先に庭があり、左右の脇に大臣の座がある庁があり、北側の奥に大門があり、天皇が座する大殿へ通じていた、。
比定地
雷丘東方遺跡が小墾田宮に比定されている、1970年、1973年の発掘調査により飛鳥時代の掘立柱建物、塀、石敷き遺構、小池が確認され、さらに奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物、礎石建物、などが確認されている。また「小治田宮」「小治宮」と書かれた墨書土器が奈良時代の井戸内から出土した。
- 所在地:奈良県高市郡明日香村雷
- アクセス:赤かめ周遊バス飛鳥下車 徒歩約5分
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
飛鳥時代の王宮 ― 2023年07月15日 19:26
飛鳥時代の王宮 (あすかじだいのおうきゅう)は、飛鳥時代に置かれた大王の王宮である。
宮とは
宮は「御屋」が語源とされる。御は美称で、屋は建物の意味である。身分の高い人などが住む大きな建物を指す。
大王/天皇 | 在位 | 王宮 | 設置年 | 所在地 |
推古 | 593-628 | 豊浦宮 | 592 | 奈良県高市郡明日香村 |
推古 | 593-628 | 小墾田宮(小治田宮) | 603 | 奈良県桜井市大福 |
舒明 | 629-641 | 飛鳥岡本宮 | 630 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
舒明 | 629-641 | 田中宮 | 636 | 奈良県橿原市畝傍町 | 舒明 | 629-641 | 厩坂宮 | 640 | 奈良県橿原市大軽町 | 舒明 | 629-641 | 百済宮 | 643 | 奈良県北葛城郡広陵町百済 | 皇極 | 642-645 | 飛鳥小墾田宮 | 642 | 奈良県高市郡明日香村奥山 | 皇極 | 642-645 | 飛鳥板蓋宮 | 643 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
孝徳 | 645-654 | 難波長柄豊碕宮 | 645 | 大阪市中央区法円坂1 |
斉明 | 655-661 | 飛鳥川原宮 | 655 | 奈良県高市郡明日香村 |
斉明 | 655-661 | 後飛鳥岡本宮 | 656 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
斉明 | 655-661 | 朝倉橘広庭宮 | 661 | 福岡県朝倉郡朝倉町山田 |
天智 | 662-671 | 後飛鳥岡本宮 | 661 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
天智 | 662-671 | 近江大津宮 | 667 | 滋賀県大津市錦織 |
天武 | 672-686 | 嶋宮 | 672 | 奈良県高市郡明日香村島ノ庄 |
天武 | 672-686 | 岡本宮 | 奈良県高市郡明日香村岡 | |
天武 | 672-686 | 飛鳥浄御原宮 | 奈良県高市郡明日香村岡 | |
持統 | 687-697 | 飛鳥浄御原宮 | 686 | 奈良県高市郡明日香村岡 | 持統 | 687-697 | 藤原京 | 694 | 奈良県橿原市高殿町 | 文武 | 697-707 | 藤原京 | 697 | 奈良県橿原市高殿町 | 元明 | 697-707 | 藤原京 | 707 | 奈良県橿原市高殿町 |
参考文献
1.積山洋(2014)『東アジアに開かれた古代王宮』新泉社
蘇我倉麻呂 ― 2023年05月28日 22:17
蘇我倉麻呂(そがのくらまろ)は飛鳥時代の豪族である。 「蘇我馬子」の子とされる。 子に蘇我倉石川麻呂、蘇我連子、蘇我日向、蘇我赤兄、蘇我果安。
概要
蘇我氏の分家である。推古36年3月に推古が崩御したとき、後継者が定まらないため、蘇我蝦夷大臣は阿倍麻呂臣と相談し、大王を定めようとして、群臣を大臣邸で饗応し、誰にすべきかと諮った。大伴鯨連は「遺言通りにすべきである」と意見を述べる。采女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺の4名は大伴鯨連の言う通りであるといった。許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手の3名は山背大兄がふさわしいといった。 蘇我倉麻呂はここでは言えない、十分考えてから申し上げるといった。
群臣会議
蘇我倉麻呂も群臣の一人として蘇我蝦夷が主催する会議に参加している。蘇我蝦夷の伯父であり、発言権はあったと思われる。この時は田村皇子とするか、山背大兄王とするかの二者択一であったようである。この時代に後継者を前の大王が指名する習慣があったのか、群臣会議の意見で決めるのが習慣ではなかったかという疑問がある。
系譜
- 蘇我高麗 – 蘇我稲目-蘇我馬子-蘇我倉麻呂-蘇我倉石川麻呂
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 斎部広成, 西宮一民 (1985)『古語拾遺』岩波書店
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
石舞台古墳 ― 2023年05月23日 21:19

石舞台古墳(;いしぶたいこふん)は奈良県明日香村ある7世紀前半の古墳である。
概要
墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露出している。天井石の上面が広く平らであり、舞台のように見える形状から「石舞台」と言われている。 巨石30個を積み上げた石室古墳である。周囲に幅8.4mの濠がある。7世紀前半の築造とされる。1829年(文政12)年の津川長道の「卯花日記」では、蘇我馬子の墓ではないかという考察があり、島の庄遺跡の調査からも可能性は高いとされている。石の総重量は2,300トンと推定されている。
構造
墳丘上部が失われており、墳丘は二段築成の方墳か、上円下方墳と考えられている。石室は南西に開口している。墳丘下半部は西南辺長約50m、南東辺長約51mである。2mから3mの高さを示す。墳丘をめぐる堀は西南側で約8mの幅、他は約7mである。外堤の幅は基部で約10mである。墳丘及び外堤斜面に花崗岩玉石を貼る。 横穴式石室は花崗岩を用いた両袖型素形の平面をもつ。全長約19.1m、玄室長約7.5m、幅約3.45m、高さ約4.7m、羡道長約11.5m、幅2.5m高さ2.4mである。側壁面は平滑で壁面調整を行う。奥壁は1石2段積、側壁は3段積、羡道側壁は1段積を基本とする。玄室天井は石は2石で構成する。玄室奥・側壁に沿い排水溝をめぐらせ、奥壁中央から玄室床面下を通過し、羡道部排水溝につながる。玄室内から凝灰岩の破片が出土しており、石棺の存在を示唆する。
調査
6世紀代の小古墳を壊して築造されていた。
- 第一次調査
- 1933年(昭和8)年、奈良県と京都大学による発掘調査が行われた。京都大学考古学研究室浜田耕作教授指導の下、末永雅雄博士が調査した。石室の構造や築造技術の把握、墳丘形態の復元を目的とする。測量、棺が納められた玄室への通路である羨道の発掘、玄室内の発掘時の写真が残されている。1辺51mの方形墳で、空濠と外堤を伴うことが確認されている。石室内部を中心とした調査であり、石室内に堆積した土砂を排出するために軽便軌条を敷設して手押運搬車を導入するとともに、羨道部の崩落石を除くためにチェーンブロックや人力式ウィンチを活用するなど、従来にはない方法を用いたものであった。その結果、石室は両袖式の横穴式石室で全長が19.4mを測ることなどが明らかとなった。また、土師器や須恵器のほか、二上山凝灰岩片が出土し、家形石棺の存在が示唆された。
- 第二次調査
- 1935年(昭和10年)実施。墳丘などの外部構造を把握するための調査で、墳丘が一辺約50mの方墳で、周囲に最大幅8.4mの周濠と幅7mの外堤が存在することが判明した。貼石列もみつかる。
- 第三次調査
- 1951年(昭和29年)実施。周濠の様相等が明らかとなった
遺構
南側の天井石の重量は77トン、北側は約64tに達する。巨石の運搬法、石室の構築法、古墳に築造日数を考慮すると現在でも最高水準とされる、
出土遺物
石室の内外から、土師器や須恵器の破片や、金属製尾錠1、金銅製菊座金具、金銅製帯金具が出土する。石棺の一部と思われる凝灰岩などが出土したた。出土遺物の写真は8枚。これらの遺物には、古墳の築造よりも後の時代に属するものも含まれている。
アクセス
- 名称:石舞台古墳
- 所在地: 奈良県高市郡明日香村島庄254番地
- 営業期間:8:30~17:00
- 入場料:一般 300円、高校生~小学生100円
- 交通:橿原神宮前駅下車→奈良交通バス【行き】橿原神宮駅・東口2番のりば[飛鳥駅行き]バス停「石舞台」下車徒歩3分
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
- 辰巳俊輔(2020)「明日香村の文化財を活かした歴史体感プログラム」遺跡整備・活用研究集会報告書
- 関西大学考古学研究室(2012)「石舞台古墳解説書」奈良県明日香村
- 浜田耕作(1937)「大和島庄石舞台の巨石古墳」京都帝国大学文学部研究報告報告14
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