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天武天皇2023年08月15日 14:01

天武天皇(てんむてんのう、?-686年10月1日(朱鳥元年9月9日))は飛鳥時代の天皇である。

概要

父は舒明天皇、母は皇極(斉明)天皇である。。中大兄皇子の弟である、皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となる。皇親政治により、専制政治を行う。日本古代最大の戦乱である壬申の乱で大友皇子を破り、即位する。

業績

異論はあるが、おおむね以下の業績とされる。

  1. 豪族による合議制を廃し、天皇による中央集権体制を確立した
  2. 八色の姓の制定
  3. 飛鳥浄御原令の制定
  4. 新都(藤原京)の建設、
  5. 『日本書紀』と『古事記』の編纂開始
  6. 国家仏教を推進する
  7. 日本国号の制定
  8. 大王から天皇号を定める

参考文献

大化の改新2023年08月15日 13:39

大化の改新(たいかのかいしん)は645年の乙巳の変に始まるとされる政治改革である。

概要

646年(大化2年)正月朔(ついたち)条が載せる大化改新詔の四か条をはじめ関係する諸記載の信用性には様々な議論がある。

改革の内容

改新の詔 (みことのり) を公布した。そのほかの内容も含める。

  1. 皇族・豪族の私有地・私有民を廃止する(公地公民制)
  2. 地方行政制度の確立
  3. 班田収授法の制定実施
  4. 租庸調などの統一的な税制の実施
  5. 巨大都市づくり
  6. 年号の制定
  7. 木簡で地方の産物を管理する
  8. 中国から帰国した留学生や留学僧の協力
  9. 有力な豪族が貴族として政治に参加

地方行政機関と通信体制

行政組織として京師、畿内国司、郡司、関塞(関所)、辺境守備の防人などを置き、京師には坊長、坊令を置く。また公的な交通機関として駅馬・伝馬を設ける。

租税制度

賦役を廃止し田の調、戸別の調を徴収する。一定の戸ごとに官馬一匹を徴し、兵器を各自に納めさせる。また郡の少領以上の姉妹・娘から采女を貢上させ、50戸ごとに仕丁1人・廝1人を貢進させる。

改新の評価

(1)実在論

坂本太郎、関晃など、『漢書』などからの孫引きはあるが大化改新詔は存在し、改革の理念は、曲折を経て701年、大宝律令に至って完成されたとする。

(2)架空論

門脇禎二、原秀三郎などによる説である。蘇我氏本宗家の打倒は事実であっても、前後の政争的な諸事件と性格は同じとする。改新詔は『日本書紀』の編者による捏造であったとする。律令国家成立の端緒は664年2月の甲子の宣の時期とする。

(3)東アジア情勢反映論

石母田正による説で、東アジア情勢は構造的欠陥をもつ倭国の体制に変革の必要性を促し、対応するために「たて割り」による部族制秩序から、公民的秩序への転換を開始する出来事であったとする。

参考文献

  1. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 仁藤敦史(2022)『東アジアからみた「大化の改新」』吉川弘文館
  3. 石母田正(2017)『日本の古代国家』岩波書店
  4. 門脇 禎二(1991)『「大化改新」史論』思文閣出版
  5. 坂本 太郎 (1988)『大化改新』「坂本太郎著作集6」吉川弘文館

乙巳の変2023年08月15日 09:07

乙巳の変(いっしのへん)は645年、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が、大仁の「蘇我入鹿」を宮廷内で暗殺し、蘇我入鹿の父「蘇我蝦夷」を自害させ、蘇我氏を滅ぼした政変である。645年は干支の「乙巳」の年のため「乙巳の変」とされる。

概要

626年(推古34年)に蘇我馬子が亡くなり、息子の「蘇我蝦夷」が大臣職を継承した。 628年(推古36年)、「推古天皇」がなくなったため、有力豪族の間で争いが起きる。有力な皇位継承権者に田村皇子と山背大兄王がいた。蘇我蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼし、田村皇子の即位を強行し、629年2月2日 舒明即位した。 641年(舒明13年)に舒明が亡くなると、舒明天皇の皇后「宝皇女」が「皇極」として即位した。蘇我蝦夷は、息子の蘇我入鹿に政治権力を委譲する。蘇我入鹿は、皇極の次期として、舒明の第1皇子「古人大兄皇子」の擁立を図る。反蘇我勢力は聖徳太子の子の山背大兄王を推し、権力争いが起きる。蘇我入鹿は、政敵の山背大兄王を「斑鳩宮」に襲撃し、聖徳太子の一族・上宮王家を滅ぼした。645年(皇極4年)7月10日、乙巳の変が起きる。

乙巳の変の出来事

645年に中大兄皇子、中臣鎌足、らが宮中で蘇我入鹿を暗殺したクーデターであった。翌日には蘇我蝦夷を自害に追い込み、蘇我本家は滅んだ。 皇極天皇は退位し、その弟で中大兄皇子の叔父にあたる孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太子となる。

蘇我氏の専横の内容

以下が日本書紀にみえる。 (1)山背大兄王を殺害したこと、 (2)子の蘇我入鹿に紫冠を授け大臣としたこと、 (3)自らの屋敷を「上の宮門」、子どもを「王子」と呼んだこと (4) 天子だけが舞う八佾の舞を行ったこと (5) 蘇我父子の墓を作らせ、大王の墓と同じ「陵(みささぎ)」と呼ばせた 上記には反論もある。(1) 山背大兄王殺害には孝徳天皇も関わっている。(2)は、蘇我氏内部の族長の継承はあくまで氏族内部の問題であり、大王の許可が不要であったとされる。 (3) 蘇我入鹿は実際に「王子」であった可能性がある。(4)は中国・朝鮮の雅楽に用いられた舞であるが、天子の儀式で演じるので、天子が舞う訳ではない。(5)古墳時代の古墳は大王位外も築造していた。「造山古墳」は巨大な前方後円墳であるが、大王の墓ではないとされる。 「紫冠」は官位12階とは無関係である。

東アジア情勢

乙巳の変には当時の東アジア情勢が反映されているという見解がある。 唐が高句麗へ侵攻し朝鮮半島が軍事的緊張に包まれる中、戦争に備えるため中央集権体制の確立が必要となったとの見解である。 高句麗の将軍である淵蓋蘇文は642年栄留王と180人余りの臣下を殺害し、王弟の子である宝蔵王を王位につけた。百済は義慈王が新羅に侵攻して伽耶地方を制圧する。 643年高句麗と百済の間で和睦が成立する。唐が求める新羅との和解要求を高句麗が拒絶し、 唐が承認する王の栄留王が殺害されたことなどを理由として645年には10万の大軍を高句麗に進軍した。乙巳の変はそのような激動の時代にあった。 唐は高句麗と百済を敵とし、新羅の側についた。高句麗を攻めるため、先に百済を攻めようとする背後戦略をたてている。

入鹿の本名は

蘇我入鹿は、『藤氏家伝』に「宗我太郎」、『上宮聖徳法王帝説』に「林太郎」と書かれることから、入鹿の姓だったのか疑問がある。また「林」は姓なのか不明である。

参考文献

  1. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 仁藤敦史()『東アジアからみた「大化の改新」』吉川弘文館

蘇我日向2023年08月14日 23:18

蘇我日向(そがのひむか、7世紀中頃)は飛鳥時代の古代豪族である。 「曽我日向子」とも記される。名は「身刺(むさし)」(大化5年)「身狭」「武蔵」「無耶志」。

概要

蘇我馬子の孫、蘇我倉麻呂の子。飛鳥時代に活躍した政治家・豪族である。 親の「蘇我倉」が苗字とすれば、なぜ「蘇我日向」に戻るのであろうか。

密通事件

皇極三年一月一日条[中大兄皇子は蘇我倉山田麻呂の娘と婚約したが、その日の夜に一族の蘇我日向に偸(ぬす)まれたとされる。次女の遠智娘が身代わりとなって皇子に嫁いで事は収まった。蘇我日向はここでは「身狭」として登場する。飛鳥時代のことを、後代の知識により書いている可能性も考えられる。その証拠に本件で蘇我日向はまったく罰せられていない。異母兄の娘なので、姪にあたる。

  • (書紀原文)而長女、所期之夜、被偸於族。族謂身狹臣也。由是、倉山田臣憂惶、仰臥不知所爲。

大宰府帥

大化五年(649年)三月、蘇我日向は中大兄に倉山田大臣(蘇我倉山田麻呂)が反乱しようとすると讒言した。蘇我倉山田麻呂大臣は息子の法師と赤猪を連れて、山田寺まで逃げたが蘇我日向と大伴狛が軍勢を差し向けたため自害した。倉山田大臣の最後の様子を中大兄に報告したところ、中大兄は倉山田大臣の無実を悟った。そこで中大兄は日向を太宰帥に任じた。世人は左遷と噂した。密通事件の密告を恨んでいた可能性もある。しかし、倉山田大臣を追い落とすため中大兄が仕組んだワナとの見方もある。左遷ではなく、栄転ではないかとの解釈もある。また同族の蘇我日向と蘇我倉山田麻呂との抗争の見方もある。5年後には般若寺を創建しており、所在地が尼寺廃寺跡とすれば、九州には赴任していなかった可能性は高い。古代史の謎の一つであろう。

  • (原文)戊辰、蘇我臣日向日向字身刺譖倉山田大臣於皇太子曰。僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海濱而將害之、將反其不久。 『上宮聖徳法皇帝説』に孝徳大王の時代に蘇我日向は筑紫大宰の帥に任じられたと記される。

般若寺創建

白雉五年(654年)、孝徳の病気平癒のため蘇我日向は般若寺を建立したとされる(東野治之(2013),p.85)。般若寺の場所には2説があり、一つは福岡県筑紫野市の般若寺跡(塔原廃寺)と二番目は奈良県香芝市の般若寺・般若尼寺(尼寺廃寺跡)である(東野治之(2013),p90)。規模や遺構からすると、後者が有力と考えられる。

蘇我氏の系譜

蘇我氏の系譜は武内宿繭を祖とする(太田亮(1942))。 蘇我高麗 –蘇我稲目 –蘇我馬子 -蘇我倉麻呂-蘇我日向

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店

蘇我馬子2023年08月14日 23:12

蘇我馬子(そがのうまこ、?-626年)は敏達から推古まで活動した飛鳥時代の豪族である。 「蘇我馬古」、「有明子」、「嶋大臣」、「汙麻古」とも記される。

概要

蘇我稲目の子、蘇我蝦夷の父。飛鳥時代の初期に活躍した政治家・豪族である。 敏達元年に大臣となる。 敏達、用明、崇峻、推古の4代の大王に渡りヤマト政権の中枢で活動した。仏教を広めるため物部守屋と対立し、これを滅ぼした。

大臣就任

敏達元年夏四月に百済の大井に宮殿を作り、物部守屋を元のように大連とし、蘇我馬子を大臣としたとされる。百済の大井とは百済大井宮である。

  • (原文)以物部弓削守屋大連爲大連如故、以蘇我馬子宿禰爲大臣。

再任か初任か

しかし、これ以前に物部守屋を大連とした記載は見当たらない。父が大連だったからというなら、馬子の父の蘇我稲目も大臣であったから、ことさら物部守屋だけを前の通りという理由は不明である。

  1. 垂仁廿六年秋八月 天皇勅物部十千根大連曰
  2. 履中二年春正月 當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓圓、此云豆夫羅大使主、共執國事
  3. 雄略三年冬十月 以平群臣眞鳥爲大臣、以大伴連室屋・物部連目爲大連。
  4. 淸寧廿三年八月 「於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰」

吉備派遣

敏達三年(574年)冬十月に吉備に派遣されて白猪屯倉や児嶋屯倉などを設置し、管理したとされる。

  • (原文)遣蘇我馬子大臣於吉備國、増益白猪屯倉與田部

仏教僧の育成

敏達13年(584年)、蘇我馬子は百済から渡来した木像と石像の仏像2体を貰い受け、鞍部村主司馬達等・池辺直氷田を使者として派遣して、修行者を探させた。播磨国に僧還俗の高麗の恵便がいたので、大臣は師とした。司馬達等の娘の嶋・善信尼11歳を出家させた。善信尼の弟子の二人漢人の夜菩の娘の豊女、二人目は錦織壺の娘の石女惠善尼である。 最初の日本の僧3名はいずれも女性であった。3人とも渡来人の家系のようである。

物部守屋との争い

  • 用明2年4月(587年)、用明大王は病気になり仏教を信仰したいと諮った。物部守屋と中臣勝海は反対したが、蘇我馬子は詔を奉じて、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。 ほどなく用明天皇は崩御し、物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、6月、馬子が先手を打ち炊屋姫を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすこととし、諸皇子、諸豪族の大軍を伴い挙兵した。守屋は抵抗したが、厩戸皇子は四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。 馬子は請願通り、法興寺(飛鳥寺)を建立した。
  • (原文) 於譯語田宮御宇天皇之世、蘇我馬子宿禰、追遵考父之風、猶重能仁世之教。而餘臣不信、此典幾亡。天皇、詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇天皇之世、馬子宿禰、奉爲天皇造丈六繡像・丈六銅像、顯揚佛教、恭敬僧尼。

百濟に留学生を派遣

崇峻元年(588年)、馬子は百済僧らに受戒の法を訊ね、善信尼らを百濟國の使者「恩率首信」等らにつけて学問留学させた。また法興寺を創建した。

帝紀の編纂

推古28年(620年)に厩戸皇子と馬子は「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を編纂した。

  • (原文)是歲、皇太子・嶋大臣共議之、錄天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。

病気と死去

  • 書紀 蘇我馬子は日本書紀では推古34年(626年)5月20日に亡くなったとされる。桃原墓に埋葬されたとされる。評するに「武略有りて、また弁がたつ。仏教の三宝を恭敬して、飛鳥川のほとりに住んでいた。庭の中に小さい池を作った。小島を池の中にはなつ。人は島大臣といった」(書紀推古34年)とされる。桃原は石舞台古墳のあるあたりと考えられている。
  • (原文) 夏五月戊子朔丁未、大臣薨、仍葬于桃原墓。大臣則稻目宿禰之子也、性有武略亦有 辨才、以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小嶋於池中、故時人曰嶋大臣。
  • 帝説 上宮聖徳法皇帝説では、病気になったのは推古34年(626年)8月、馬子のため男女千人が出家したとされる。馬子の死去は推古35年(627年)6月とする。

馬子の墓

明日香村にある石舞台古墳は、馬子の墳墓とする説が有力である。

蘇我氏の系譜

蘇我氏の系譜は武内宿繭を祖とする(太田亮(1942))。 武内宿繭 - 蘇我石川- 蘇我満智 – 蘇我韓子 – 蘇我高麗 – 蘇我稲目 –蘇我馬子

参考文献

  • 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  • 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  • 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店

飛鳥大仏2023年08月14日 23:08

飛鳥大仏

飛鳥大仏(あすかだいぶつ)は奈良県奈良県高市郡明日香村飛鳥に飛鳥寺の本尊である釈迦如来である。

概要

飛鳥大仏は日本最古の大仏といわれる。飛鳥寺は豊浦寺、葛城寺、建興寺、法師寺、建通寺ともよばれていた。日本書記によれば先に寺を作り始め、606年(推古14年)夏4月8日。銅と刺繍の丈六の仏像を作り終えたとされ、606年(推古14年)に仏像が完成したこととされる。当時は銅15t、黄金30kgを用いて造られたという。しかし飛鳥大仏像の完成は、『元興寺縁起』による609年の完成説が定説となっている(和田萃(2003))。 国の重要文化財に指定されている。

後補と当初

奈良国立文化財研究所は1973年(昭和48年)に坐像の調査を行ない、その結果、当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2~第4指のみと判断した。 その後、早稲田大学文学学術院の大橋一章教授(文学部)らは、飛鳥大仏の約150カ所に含まれる金属の割合をⅩ線分析によって調査した結果、造立当初の箇所(左鼻梁、右手第二指甲)と鎌倉時代以降に補修したとされる箇所(鼻下、左襟、左膝上)の銅などの金属組成に際立った差異がないことが判明した。ほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いと判定された(大橋一章(2013))。 犬塚 将英・早川 泰弘らは2017年に蛍光X線分析を行い、飛鳥大仏の材質調査を行った。キューブライトとテクノライトの比が測定個所により一定でないことが判明した。また当初と後補との明確な関係は見いだされなかった。テクノライトを指標として、当初と後補を判断することは直ちにできないと判断した(犬塚 将英・早川 泰弘他(2017))。 鋳造専門家の調査では銅を複数回注いだ継ぎ目の跡があり、奈良時代以前の技法と推定されている。

飛鳥寺

710年(和銅3)の平城遷都に伴い奈良に新寺を建立して新元興寺と称したが、飛鳥の寺は本元興寺(もとがんごうじ)とよばれ、徐々に荒廃し、現在は安居院に飛鳥大仏を残すのみとなった。飛鳥寺は887年と1196年の落雷で火災にあい、本堂が焼け落ちている。

日本書記(訳)

  • 推古元年春1月15日。法興寺の刹柱の基礎中に仏舎利を置いた。
  • 即位4年冬11月。法興寺の造営が終わり大臣(蘇我馬子)の息子、善徳臣を寺司とした。この日に慧慈・慧聡は初めて法興寺に行った。
  • 推古13年夏4月1日。天皇は皇太子と大臣(蘇我馬子)と諸々の王と諸々の臣に詔して、共に誓願した。銅と刺繍の丈六の仏像を、1体ずつ作ることとした。そこで鞍作鳥(鞍作止利 )に命じて仏像を造らせた。

日本書記(原文)

  • 元年春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱
  • 四年冬十一月、法興寺造竟、則以大臣男善德臣拜寺司。是日、慧慈・慧聰二僧始住於法興寺。
  • 推古十三年夏四月辛酉朔、天皇、詔皇太子大臣及諸王諸臣、共同發誓願、以始造銅繡丈六佛像各一軀。乃命鞍作鳥、爲造佛之工。是時、高麗国大興王、聞日本国天皇造佛像、貢上黃金三百兩。
  • 十四年夏四月乙酉朔壬辰、銅繡丈六佛像並造竟。是日也、丈六銅像坐於元興寺金堂)。

指定

  • 重要文化財 - 1940年指定

元は国宝

1940年(昭和15)年に旧国宝に指定された。その後、1950年(昭和25年)に文化財保護法が施行され、それまでの国宝は重文に変更された。その上で国宝が選び直されたが、飛鳥大仏は選から漏れていた。理由は、オリジナルの部分は目周辺や右手中央の指の3本だけと考えられていたからであった。しかし前期の通り、かなりの部分がオリジナルであれば、国宝に再指定される可能性もある(産経新聞2018年10月27日記事)。

参考文献

  1. 犬塚 将英・早川 泰弘・皿井 舞・藤岡 穣(2017)「可搬型X線回折分析装置を用いた銅造釈迦如来坐像(飛鳥大仏)の材質調査」保存科学56号、pp.65-75
  2. 大橋一章(2013)「飛鳥大仏の制作と火難」奈良美術研究 / 早稲田大学奈良美術研究所 編 (14), pp.71-76
  3. 和田萃(2003)『飛鳥-歴史と風土を歩く』岩波書店
  4. 日本最古級の仏像「飛鳥大仏」、国宝に返り咲くか」産経新聞,2018年10月27日

石上神宮2023年08月14日 23:00

石上神宮(いそのかみじんぐう)は日本最古の神社のひとつで、古代の豪族物部氏の総氏神とされる。

概要

崇神天皇7年、勅命により物部氏の祖 伊香色雄命が、石上布留高庭(現在地)に武甕雷神(たけみかづちのかみ)を祀り、石上大神と称えたのが創建とされる。日本書紀崇神7年8月に伊香色雄命を神班物者とする記事がある。物部の八十平瓮を祭神としたところ国内の疫病が収まったという。我が国の霊剣は草薙剣を除いて当宮に祀られることになっている。

祭神

  • 布都御魂大神:神剣「韴霊(ふつのみたま)」に宿る霊威を称え布都御魂大神という。佐土(さじ)布都神とも いい、神代に武甕雷神がおびていた霊剣であり、平国之剣(くにむけのたち)ともいわれる。天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿る霊威を称えるとも言われる。天璽十種瑞宝は、饒速日命が天津神から授けられた十種の神宝をいう。

宝物

  • 七支刀
    • 国宝。古代の遺品で、社伝では「六叉鉾」 と称されていた。現在は刀身に記された銘文により「七支刀」と称する。『日本書紀』に百済から献上された「七枝刀」と考えられている。
  • 鉄盾
    • 重要文化財。神庫に「日の御盾」と称して収蔵されてきた伝世品で、2面ある。1面は東京国立博物館に委託されている。製作年代は、5世紀後半と推定される。
  • 色々威腹巻
    • 重要文化財。腹巻は行動性を重視した形式の甲で、当神宮のものは白・紫・紅・萌黄という鮮やかな色の糸でつづり合わせている。足利尊氏が奉納したものと伝えられる。奈良国立博物館に委託されている。
  • 硬玉勾玉
    • 重要文化財。濃緑または淡緑の翡翠を加工した勾玉で合計11個. 古墳時代前期の副葬品に見られる勾玉と類似する。
  • 碧玉管玉
    • 重要文化財。合計で293個。古墳時代前期。
  • 琴柱形石製品
    • 重要文化財。
  • 弧状管玉
    • 重要文化財。乳灰色の硬玉で作られた弦月状の管玉
  • 硬玉棗玉
    • 重要文化財。軟玉製で、合計で9個あり、紋様の有無・緑色の濃淡など多様。
  • 環頭大刀柄頭
    • 重要文化財。環形の装飾をした大刀の柄頭
  • 銅鏃
    • 重要文化財。古式の柳葉形のやじりで、長さは7.2cm、良質の白銅製。
  • 銅境
    • 重要文化財。草花文鏡と萩菊双雀鏡の2面。作されたのは平安時代後期と推定
  • 金銅垂飾品
    • 2個の環を直角に組み合わせてその上に小さな環をとりつけたもの。長さ4.6cm、
  • 金銅鐶
    • 重要文化財。銅製を鍍金したものが2個、銅製を鍍銀したものが1個の計3個。

建築

  • 拝殿
    • 国宝。拝殿としては現存最古。建築様式は鎌倉時代初期の建立。白河天皇が、当神宮の鎮魂祭のために、永保元年(1081年)に宮中の神嘉殿を寄進したとされる。入母屋造、檜皮葺。
  • 本殿
    • 明治43年から大正2年にかけて神剣「韴霊」を奉安するために本殿を建立する。
  • 楼門
    • 重要文化財。鎌倉時代末期、第96代後醍醐天皇、文保2年(1318年)に建立されたと伝わる。
  • 摂社 出雲建雄神社拝殿
    • 国宝。元は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿を大正3年に現在地に移築。内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院。
  • 神庫
    • 禁足地の南西の隅に建っている二戸前の校倉造の建物。現在の神庫は嘉永4年(1851)に再建されたもの。

アクセス等

  • 名称:石上神宮
  • 拝観料:無料
  • 拝観時間:御門内での参拝は日の出より日没まで
  • 所在地:〒632-0014 天理市布留町384
  • 交通: JR・近鉄 天理駅 苣原行きバス「石上神宮前」下車 徒歩7分

参考文献