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石塚山古墳2023年05月26日 22:00

石塚山古墳(いしづかやまこふん)は福岡県京都郡苅田町に所在する4世紀初頭の前方後円墳である。

概要

周防灘を望む緩斜面に築造されている前方後円墳である。九州最大最古の定型化した典型的な畿内型前方後円墳となっている。墳丘は前方部は2段、後円部は3段である。墳丘は全面に葺石が施される。各稜線には水みちが設けられる。墳丘下に3条の暗渠が北から南に走り、西側の暗渠は墳裾から南に3mの地点で東に延びる。 前方部は墳丘上にある神社建立時に上面が削平されている。墳丘には葺石が見られるが、埴輪の存在は確認されていない。1796年に長さ5.5m、幅・高さとも1mの竪穴式石室が発掘されている。埴輪は確認されていない。 鏡を含む出土品は1953年に国の重要文化財に指定されている。

調査

規模

  • 墳長:110m
  • 後円部 径60m 高9.5m
  • 前方部 幅40m 長44m 高3.5
  • 標高:8m

遺構

内部は墳丘中央に前向きに置かれた横口式石室で、「高松塚型」の石棺式石室とされている。凝灰岩切石を用いて、石室内法朔規模は長さ約2.6n、幅1.04n、高さ1.06m。天井部は屋根型に0.1m、跨り込まれる。天井石は組み合わせ式である、灰白色粘土を詰めて、目張りを施す。石室閉塞の扉石は側壁南端部との接合に陵角を設ける。石室前面の墓道を設け、幅約3m、長さ5mの断面U字型を呈し、石室の南2.6mに礫敷がみられる。底面には道板を抜き去った跡の溝が2条検出される。

遺物

出土遺物は石塚山古墳より少し離れた宇原神社に所蔵されている。小倉藩主「小笠原家文書」によると銅鏡は11面(「宇原神社由来記」によると14面)と金具が出土したと伝えられる。現存する鏡は岡山県備前車塚古墳、京都府椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵である。 1987年に再発掘が実施され、後円部の石室は大破していることがわかった。この時の発掘では細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片などが出土。

  • 三角縁神獣鏡 7以上 舶載
  • 獣帯鏡1(伝中国鏡11出土)。
  • 素環頭大刀
  • 銅鏃
  • 細線式獣帯鏡片
  • 琥珀製勾玉
  • 碧玉管玉 3
  • 小札革綴冑片
  • 素環頭大刀
  • 類銅鏃:大形11以上
  • 柳葉12以上、
  • 小札革綴冑
  • 斧5。

築造時期

指定

  • 1985年(昭和60年)国の史跡指定
  • 2017年(平成29年)10月13日 史跡範囲の追加指定

アクセス等

  • 名称:石塚山古墳
  • 所在地:福岡県京都郡苅田町富久町1丁目
  • 交通: JR苅田駅より徒歩15分 苅田町役場の横

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
  3. 長嶺正秀(2020)『筑紫政権からヤマト政権へ 豊前石塚山古墳〔改訂版〕』新泉社

西ノ城古墳2023年05月26日 22:00

西ノ城古墳(にしのしろこふん)は福岡県うきは市に所在する3世紀後半の双方中円墳である。

概要

うきは市の市街地を見下ろす耳納連山中腹の高台に位置する。

調査

公園を造成する計画がされたためうきは市教委が2020年度に発掘調査をしたところ、墳丘の表面に石を貼り付ける葺石が見つかり、古墳と判明した。形状が珍しく、円墳に東西に短い突出部が付いている双方中円墳である。最古級の双方中円墳とされる。 福岡大学の桃崎祐輔教授によれば、「双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされていた。確認例は奈良県天理市の櫛山古墳や香川県高松市の猫塚古墳など全国で数例のみで、西ノ城古墳の発見により築造年代がさかのぼる可能性が出てきた」と語る。うきは市教育委員会は西ノ城古墳の史跡指定を目指し、来年度も調査を続ける方針である。

規模

  • 全長:約50m
  • 円形墳丘長径:約37m
  • 高さ:約10m楕

遺構

形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基検出された。木棺と石棺による埋葬の跡である。弥生時代の集団墓の特徴とされる。3~4世紀の古墳は1人の首長のために築かれることが多いため西ノ城古墳のように多数の埋葬施設があるのは古墳のスタイルが確立する前の、弥生時代の「弥生墳丘墓」に近い。うきは市教育委員会は一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるとする。調査を担当したうきは市教育委員会生涯学習課・大津諒太は「土器が少ないことも古い古墳の特徴」と指摘する。

遺物

築造時期

出土した土器片から古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と推定されている。

指定

アクセス等

  • 名称:西ノ城古墳
  • 所在地:福岡県うきは市浮羽町流川1477
  • 交通: 九州旅客鉄道久大本線「うきは駅」から2.2km、徒歩30分。

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
  3. 福岡・うきは市の西ノ城古墳はまるでキャンディー」朝日新聞, 2022年2月23日
  4. 双方中円墳、九州で初確認」西日本新聞、2021年12月29日

平塚川添遺跡2023年05月26日 22:02

平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)は、福岡県朝倉市にある弥生時代中期から古墳時代初頭の古代遺跡である。

概要

全国的にも極めて貴重な多重環濠集落の跡である。「原の辻遺跡」と佐賀の「吉野ヶ里遺跡」とともに九州における3大環濠集落の遺跡とされる。久留米の北東、筑豊の南にあり、筑紫平野の北東に位置する。遺跡の西側に筑後川支流の小石原川が流れ、遺跡は小石原川流域に含まれる標高20メートル程度の微高地である。弥生時代中期前半に形成され、中期中頃に一時中断され、後期になって再び形成され、多重環濠を伴って拡大発展し、古墳時代初めまで存続した。古墳時代初めに環濠の大半は埋没し、建物、竪穴式住居が造られている。それ以降の遺物は全く出土しない。

調査

1990年(平成2年)に平塚工業団地の造成中に発見された。甘木市教育委員会と福岡県教育委員会により1991年(平成3年)8月から1993年(平成5年)5月まで発掘調査が行われた。多数の木製品が出土するなど、弥生時代の重要な大規模遺跡であることが明らかになり、発掘成果が最終日の14日に合同記者発表された。以後、関係機関、土地保有者等々の協力を仰ぎ、平成6年5月には「国指定史跡 平塚川添遺跡」となり、保存・復元事業が平成8年から開始された。平成13年5月、「平塚川添遺跡」は、復元された建物群や環濠を備えた「平塚川添遺跡公園」として一般公開された。環濠には当時(弥生後期)と同じように水が張られ、公園内には九州大学農学部井上晋助教授(植物分類生態学)の指導の元、当時の植生を推定再現した樹木、水生植物が植えられ、環濠内には「水すまし・ゲンゴロウ」などの水生動物も放された。実際に水まで張った大規模復元遺跡は我が国でも初めてのケースである。

遺構

約17haの範囲に多重環濠、竪穴建物跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認される。現在までに六重の環濠が確認されている。 中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」が存在する。住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出された。 環濠の断面は殆どがU字形で、濠と濠の間隔は、1から4重目までは間隔が3mから5mである。4重目と5重目の間は約8mと広い。5重目と6重目の間は1mと狭くなっている。6重目の濠は最も規模が大きく、幅約23m、深さ2mになり、内側の掘り込みは垂直に近く、全体としてはV字形に深くなっている。この環濠の役割は、魏志倭人伝にいうところの「倭国乱」に備えたものと推定される。

遺物

内濠に囲まれた中央集落の外側に、七つの「別区画」と位置づけられた小集落が確認されている。そこからは、ガラス製菅玉、中国の貨銭、蛇紋岩製菅玉、多量の木製品、未使用木材などが発見されており、青銅器の鋳造工場跡と見られる遺構や倉庫と推定できる高床式建物跡なども発見されている。 環濠から採取された珪藻化石の完形殻の出現率が40%と低い。環濠堆積物上層は、沼沢 湿地付着生種群が優勢し、陸生珪藻を比較的多く伴い、止水性の珪藻化石も産出する。これらのことから、弥生時代終末の環濠は、定常的に水没していたとは考えにくく、しばしば干上がり乾燥することもあったと考えられる。

類例

指定

  • 1994年(平成6年)5月19日 – 遺跡部の112,073.88平方メートル(約11ヘクタール)の区域が史跡に指定された。

アクセス

  • 名称:平塚川添遺跡
  • 所在地:〒838-0059 福岡県朝倉市大字平塚444-4
  • 交 通:甘木駅から西鉄甘木線「上浦」下車、徒歩19分

参考文献

  1. 原田実(2004)『邪馬台国浪漫譚―平塚川添遺跡とあさくら路』梓書院
  2. 甘木市教育委員会(1993)「平塚川添遺跡 : 発掘調査概報」

久里双水古墳2023年05月26日 22:03

''久里双水古墳'(くりそうすいこふん)は佐賀県唐津市に所在する3世紀末から4世紀の前方後円墳である。

概要

昭和55年に労働者住宅生活共同組合の宅地造成事業に伴い、前方後円墳と確認された。大型の前方後円墳であり、遺存状態が良好なことから保存され、造成工事や県道の範囲から外された。松浦川右岸の丘陵先端部に立地する。

調査

昭和63年1月には県史跡に指定され、平成元年に公有化した。平成元年8月に地下レーダー探査による遺構保存状態の調査を行い、平成3年度から3年間、古墳前方部、古墳後円部、古墳墳頂部の範囲確認調査を実施した。確認調査により全長108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mで、墳丘築成は後円部と前方部下半部が地山削り出しで、前方部上半部が盛土の自然地形を利用した特異なものであり、しかも年代が4世紀前半までさかのぼる可能性があることが判明した。 平成6年度調査で全体が厚く粘土被覆された古墳の主体部の竪穴式石室が調査された。粘土で覆われた石室は、砂岩製の天井石3枚によって密閉されていた。開口すると結果、内径が長さ約2.5m、幅0.9m、高さ1.0mの竪穴式石室が検出された。床面に長さ2.05m、幅0.61mの両端が反り上がった特異な形の、断面がU字形の粘土床がみつかった。壁面や天井石の裏には一面に赤色顔料が塗られ、粘土の被覆面の中にも顔料の散布面が確認された。石室は砂岩や玄武岩の板石を粘土と交互に積み上げて築かれており、壁面や天井石の内側には赤色顔料が塗られ、床面には木棺を安置するため断面U字型の粘土床が設置される。

魏志倭人伝

魏志倭人伝』に記される邪馬台国の国のひとつ「末廬国」があったと推定されている場所であり、久里双水古墳は『魏志倭人伝』(3世紀末)に記載された末廬国の王の後継者の墓とも推測されている。

規模

  • 築成 前方部:1段、後円部:2段
  • 墳長 108.5m
  • 後円部 径62.2m 高10.5m
  • 前方部 幅42.8m 長41.5m 高8.5m

遺構

  • 竪穴式石室
  • 舟形木棺か
  • 石室
    • 長さ1.80mから1.94m、
    • 幅1.09mから1.17m、
  • 厚さ0.04mから0.15m

遺物 

  • 平縁盤龍鏡、直径12.85㎝、縁厚0.8㎝、重さ498.6g
  • 碧玉製管玉 2
  • 鉄製刀子 1

築造時期

3世紀末から4世紀ごろに築造。

被葬者

指定

  • 2016年(平成28年)4月28日 佐賀県指定史跡
  • 2011年(平成23年)に出土品が佐賀県指定重要文化財に指定

現状の整備

現在は「久里双水古墳公園」として整備されている。ガラスに覆われた石室を見ることができる。古墳の頂上に登ると山本地区一帯を見渡せる。

アクセス等

  • 名称:久里双水古墳
  • 所在地:佐賀県佐賀県唐津市大字双水字迫
  • 交通: JR山本駅から徒歩20分

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
  3. 唐津市教育委員会(2009)『久里双水古墳』唐津市文化財調査報告書第95集
  4. 久里双水古墳主体部出土品」文化庁

船塚古墳2023年05月26日 22:04

船塚古墳(ふなづかこふん)は佐賀県佐賀市に所在する5世紀中頃(古墳時代中期)の前方後円墳である。「今山船塚古墳」とも言われる。

概要

佐賀県では最大規模の古墳である。脊振山地南麓のゆるやかな傾斜地にあり、南北方向を主軸とし、前方部を南方に向ける。西側くびれ部前方部寄りに造出がある。周濠は楯形である。墳丘上には葺石がみられ、後円部頂から家型埴輪が出土する。墳丘北側では陪塚7基(かつては11基)の築造が知られる。墳丘は3段築成で、周囲に幅12~18メートルの周濠が巡る。これらの形態は古墳中期の特色である。遺物は盗掘時の出土とみられる大型勾玉1個のみ採集された。円墳7基(元11基)が陪塚状に周囲をとり囲む。

調査

現在までに本格的な発掘調査は実施されていない。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:3段、後円部:3段
  • 墳長 114m
  • 後円部 径63m 高10m
  • 前方部 幅62m 長50m 高9m

遺構

  • 竪穴式石室(盗掘時の伝聞による)
  • 棺 長持形石棺2(盗掘時の伝聞によるが疑問)

埴輪

  • 円筒埴輪 円筒Ⅲ式
  • 形象埴輪 家形埴輪(後円部頂出土)
  • 葺石 あり

遺物 

  • 硬玉勾玉 1

築造時期

被葬者

指定

  • 1953年(昭和28年)11月3日 佐賀県指定史跡

アクセス等

  • 名称:船塚古墳
  • 所在地:840-0213 佐賀県佐賀市大和町久留間字東角
  • 交通: JR佐賀駅→昭和バス中極小城行きで30分、バス停:大久保下車、徒歩15分

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版

西都原古墳群2023年05月26日 22:04

西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)は佐賀県唐津市に所在する3世紀末から4世紀の329基の古墳群である。

概要

西都市街地の西の通称「西都原台地」とその周辺の中間台地や沖積地にある。範囲は南北4.2km・東西2.6kmに及んでいる。

調査

1912年(大正元年)から1917年(大正6年)にかけて日本で初めて本格的学術調査が行われた。

規模

西都原1号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 52m
  • 後円部 径31m 高4.4m
  • 前方部 幅25m 長23m 高3.3m

西都原13号墳

  • 形状 前方後円
  • 築成 前方部:3段、後円部:3段
  • 墳長 83m
  • 後円部 径46m 高8.9m
  • 前方部 幅30m 長41m 高5.1m

西都原35号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 70m
  • 後円部 径37m 高6.5m
  • 前方部 幅20m 長35m 高3.2m

西都原46号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 84m
  • 後円部 径51m 高8m
  • 前方部 幅36m 長36m 高5m

西都原56号墳

  • 形状 前方後円
  • 築成 前方部:2段?、後円部:2段?
  • 墳長 37m
  • 後円部 径24m 高2.5m
  • 前方部 幅16m 長13m 高1.5m

西都原81号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 46m
  • 後円部 径32m 高3(西くびれ部から)
  • 前方部 幅18m 長16m 高1m

西都原83号墳

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 84m
  • 後円部 径44m 高6m
  • 前方部 幅27m 長42m 高2.8m

西都原88号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 48m
  • 後円部 径21m 高3m
  • 前方部 幅17m 長21m 高1.8m

西都原90号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 96m
  • 後円部 径51m 高7.2m
  • 前方部 幅推定31m 長47m 高3.9m

西都原91号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 63m
  • 後円部 径35m 高4.5m
  • 前方部 幅26m 長29m 高2.7m

西都原92号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 53m
  • 後円部 径29m 高5m
  • 前方部 幅14m 長22m 高1.9

西都原95号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 79m
  • 後円部 径42m 高6.2m
  • 前方部 幅25m 長39m 高3.8m

西都原99号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 61m
  • 後円部 径32m 高3.8m
  • 前方部 幅推定20m 長30m 高1.6m

西都原100号墳

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 62m
  • 後円部 径36m 高3.4m
  • 前方部 幅推定20m 長29m 高1.9m

西都原109号墳

  • 形状 前方後円
  • 墳長 69.6m
  • 後円部 径37m 高4.2m
  • 前方部 幅復元26m 長35m 高3.7m

西都原190号

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 42.5m
  • 後円部 径22m 高2.5m
  • 前方部 幅10m 長20m 高2m

西都原265号墳

  • 形状  前方後円墳
  • 築成 前方部:2段?、後円部:2段?
  • 墳長 57m
  • 後円部 径35m 高6m
  • 前方部 幅38m 長26m 高6m

遺構

遺物 

西都原13号墳

  • 三角縁獣文帯三神三獣鏡(福岡沖ノ島18号遺跡出土鏡と同笵)。
  • 硬玉勾玉 2(ヒスイ、丁字頭)、
  • 碧玉管玉 40余(小形)、
  • メノウ:ガラス小玉百数十個。
  • 鉄剣:1。
  • 工具:刀子1
  • 木棺片?2。

西都原35号墳

  • 方格規矩鏡 1
  • 碧玉勾玉2
  • 碧玉管玉21。
  • 鉄剣剣2、
  • 鉄刀 直刀1。

西都原56号墳

  • 鉄剣:4。

西都原265号墳

  • 変形十文字鏡(渦文鏡)。
  • 碧玉管玉19。
  • 鉄刀:3、
  • 鉄鉾:1。
  • 鉄鏃:多数(細身を中心に、広身が10程度みられる)
  • 工具
  • 刀子2。
  • 麻布1片

築造時期

4世紀中~後葉頃

被葬者

指定

展示保管

宮崎県立西都原考古博物館で展示保管を行う。

アクセス等

  • 名称:西都原古墳群
  • 所在地:〒881-0005  宮崎県西都市三宅字西都原
  • 交通: 西都営業所からバスで5分

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版

女狭穂塚古墳2023年05月26日 22:05

女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)は宮崎県西都市三宅に所在する前方後円墳である。

概要

九州最大の前方後円墳で、墳長は約176メートル。5世紀前半中頃に造られたと推定される畿内式前方後円墳で、発掘調査が行なわれておらず、被葬者は判明していない。 宮内庁書陵部の調査によれば、檀状部にある参拝所から円筒埴輪が出土している。

構成

墳丘規格は百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ古墳の2分の1、仲津山古墳の5分の3と指摘されている。墳丘は3段築。北東側と南東側のくびれ部に造り出しがある。墳丘周囲に幅14mから18mの堀が盾形にめぐる。その外に高さ2.2m、幅15mから18mの外堤がある。後円部は直径94mから97mとほぼ正円である。平成16年(2004)度から3年かけて、地中レーダー探査が進められた。

規模

  • 形状 前方後円
  • 築成 前方部:3段、後円部:3段
  • 墳長 176m
  • 後円部 径97m 高15m
  • 前方部 幅109m 長90m 高13m
  • 外表施設 円筒埴輪
  • 円筒・朝顔形Ⅲ式 形象埴輪
  • 葺石 あり
  • 【造出】あり(くびれ部双方)。
  • 【周濠】あり(墳丘南側は二重)。
  • 【周堤】あり。

築造時期

  • 5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造とされている。

出土品

家形埴輪・鶏形・盾形・冑形・肩甲形・短甲形・草摺形埴輪)がある。円筒埴輪は器壁が厚く、突帯端面が重厚、淡褐色、黒斑を有する特徴を示し、野焼き焼成とみられる。女狭穂塚古墳からの出土品は、円筒埴輪・、楯形埴輪、三角板皮綴短甲、肩甲埴輪、草摺、形状不明(入母屋か)、形状不明(埴輪あるいは椅子か)

被葬者

実際の被葬者は明確ではないが、宮内庁は木花開耶姫の陵墓として宮内庁陵墓参考地としている。

アクセス等

  • 所在地:宮崎県宮崎県西都市大字三宅字丸山
  • 交通: JR南宮崎駅から徒歩3分の宮交シティバスターミナルから西都行き宮崎交通バスで1時間3分、西都バスセンター下車、タクシーで5分

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版